Hさんとの〜私の告別〜
出会いは新百合京王線改札口。
「以前話した小説書いてる山口さん」と、
Tに紹介され互いに両手で握手。飲み会では私は次々とHさんに質問をした。共産党のこと、生い立ちのこと、終戦について、原発について、と。
共産党については、日本で最初の商社での労働組合を琴平で作ったと、その関係で映画、「東海原発」を作ることになった。しかし、原発には危険性を感じていたから、シナリオには皮肉を込めておいたと、
生い立ちは、醤油の醸造屋で、父は村人の何でも相談役のように忙しく、自分のことはかまってくれなかった、子供心に、その時々の村人の話を聞いていて、人々の生きることの大変さを知った、と、そして、父が亡くなるとき、父が布団に手をついてこんなに早く死んでしまうことを許してくれと謝られたと、神戸一中に入学するも、戦中で、軍人が威張り、それにへつらう者への反抗意識があった、戦後、自分が自殺しなかったのは、軍人、それに迎合した人間たちが、その後どのように生きていくか、見届けてやりたいと、死ぬことを止めたと、それが今やっている自分のワールドウォッチという、世界を見届ける作業となっていると、新聞の切り抜き、ビデオの録画、自分の世界への視点で切り取り、ファイリング、データー化していると、
Hさんとの〜私の告別〜
出会いは新百合京王線改札口。
「以前話した小説書いてる山口さん」と、
Tに紹介され互いに両手で握手。飲み会では私は次々とHさんに質問をした。共産党のこと、生い立ちのこと、終戦について、原発について、と。
共産党については、日本で最初の商社での労働組合を琴平で作ったと、その関係で映画、「東海原発」を作ることになった。しかし、原発には危険性を感じていたから、シナリオには皮肉を込めておいたと、
生い立ちは、醤油の醸造屋で、父は村人の何でも相談役のように忙しく、自分のことはかまってくれなかった、子供心に、その時々の村人の話を聞いていて、人々の生きることの大変さを知った、と、そして、父が亡くなるとき、父が布団に手をついてこんなに早く死んでしまうことを許してくれと謝られたと、神戸一中に入学するも、戦中で、軍人が威張り、それにへつらう者への反抗意識があった、戦後、自分が自殺しなかったのは、軍人、それに迎合した人間たちが、その後どのように生きていくか、見届けてやりたいと、死ぬことを止めたと、それが今やっている自分のワールドウォッチという、世界を見届ける作業となっていると、新聞の切り抜き、ビデオの録画、自分の世界への視点で切り取り、ファイリング、データー化していると、
こんなことを初日の飲み会で。私はすべて聞いたのだった。散会時、やはり改札口での別れ際、「末永いお付き合いをお願いします」と言われ、私は咄嗟、「末期の時まで、末期の席には呼んでくださいね」と
私は初対面でHさんという人の温厚さと、博識、啓蒙的な心地良い感じを持ち、最期まで付き合おうとしたのだった。
私の絶望感、Hさんとは3.11を通した、9.11、世界の謀略の歴史の捉え方、見方の違いはあったが、Hさんが私に言う「安易な希望は、絶望と同じように虚妄である」との時代に抗した魯迅の言葉を使っての私の絶望観への批判は心に刺さっていた。私は安直に絶望しているのではなかった。癌からの生還後、私は世界がどのようであっても、いま少し生きていたいと、天国を生きていたのだった、が、そこへの3.11は私の天国が砂上の楼閣に過ぎなかったことを思い知らせたのだった。以来、世界の絶望をこそしっかり見据えなければと、そんな私の絶望観に対し、原発、核問題には深入りしないで、戦中、戦後の、虚無思想に取り付かれた記憶を語り、それからの脱却にどれだけ苦労したかと、以来、絶望という言葉は吐かない、世界に絶望はしないと、私は3.11ほどのことがあって、絶望しない世界に絶望しているのだと、私における3.11を語り、9.11、アポロ捏造のDVD、孫崎の「日米同盟の本質」の本も送った、しかし、それらは私の虚妄ととられた、が、いつか娘たちと色々語ったら、山口さんと考えが似ていて驚いたとTELあり、またいつかの日、「絶望名人」の本を読んで感想を欲しいと頼まれ、早速に読み、感想、私のカフカ論を電話したら「山口さんの話に聞き惚れました」と共感を得、が、その間私は、Tとのディスカッションがひんぱんになり、私は自論を固め、4人組での集まりは、私とT、対Hさん、S、もう一人のSのような構図となり、私とTは、Hさんは、啓蒙家、オポチュニストのような位置づけをし、いつしか、Hさんには御高説を承る風となり、私は詰まらなくなっていった、そして時に不参加となった。
そんなある日、4人組にIが同席した、その席でSが、天皇主義者のIさんがと言ったので、私はすかさず「何故にIさんは天皇主義者なのか」とIに問うと、「外国に馬鹿にされないためだよ」と言う、「私は人間平等主義だから、天皇主義は嫌いだ」と、またIは、自分のことを、私は詩人だからと、言葉の端々に挿入していたので「自分を詩人だなどと高尚ぶる人間が詩人などであるはずが無いよ」言ってしまった。すると「山口の作品など、世には残らない、私のは残る」と、そしてHさん他に賛同を求めた、するとHさんは「Iさんの作品は良いと思うが、山口さんの作品は何か断片のようなものを読ませてもらっただけで」と、取り立てての印象は無いようだった、「私の原発震災日誌」読んでいないのか、又は批判があるのだろうかと、その時は不思議に思った、後日、Hさんは読んでいないのだと知り、早速送ったら「あれは山口さんの遺書だね」と、良い悪いの感想ではなく、私の気持ちへの共感があった。
その日、Iがあまりに先生、先生とHさんのことを持ち上げるので、「Hさんはこの4人組の仲間なんだから、先生などと呼ばないでもらいたい」と私が言ったら、「私にとっては先生だから、先生と呼ぶのだ」と、では「Hさんは、先生と呼ばれて気持ちが良いのですか」と私はHさんを詰問するように聞いた、するとHさんは少し口ごもりながら「先生とは呼ばれたくない」と、
Iはかつて詩人のSMさんの時も、先生、先生と担いで、家に上がりこみ、奥さんに閉口されていた、私はそれを嗜め質していたのだった。
若き日、Oの近代文学研究会に出たときに、Oから「お前はなぜ俺のことを先生と呼ばないのか」と問われ「Oさんのことは作品など親近感を持っているから、先輩とか、先生と言った意識はないし、人のことを先生と呼ぶのが恥ずかしいから」と、それっきりの研究会であった。私には先生と呼ぶのは、学校の先生にだけであった、それは職業としての呼称であった。I、U、M、T、皆私はさんづけできた、先生と呼ぶ時は、師とする人と出会ったとき、それ以外で使ったときは、自らの立ち位置、向かう精神が問われるような気がして、自尊心が強いからではない、それは、常にアウトサイダーとしての私の生き方、意識が作ってきたものに思える、
Hさんは常に、高説を語ろうとしていた、本質は先生的な立場が好きであるのだが、気弱さがあるのだった、それが他人から先生とは容認されず、仲間意識を持たれ、Hさんの交友を広げてきたのだった、
私が何故にHさんに親近感を持ったのか、それは神戸一中を出、無名を生きる人であったから、知識をひけらかすことなく、太宰的な廉恥心をもって語られる達見が心地良かったから、
Hさんは太宰がほんとに好きだった、「津軽」には感じ入り、斜陽館にも出向き、太宰への共感を良く吐露した。その都度、私はHさんは太宰の出生、追い立ちと自分を重ね共感しているのだと思い、太宰批評はしなかった。私は太宰の淋しさが良くわかり、しかし、その淋しさをネタに小説を書く気は無い、それで淋しさが拭われるような私の境遇ではなかった、そのグチっぽさが私は嫌いだった、がそうした批判めいたことは一切言わなかった、むしろ太宰の権威への反感、反抗こそ意味だと、私の好きな太宰の心を述べた。
私はIとの一件があってから、4人組の集まりが億劫になっていた、「続原発日誌」を書き進めていたからでもあったが、私とT、対Hさん、S、もう一人のSという構図が嫌になっていた、話題も、私の絶望観への希望とはならず、Tには引きこもり宣言をしていた。それでも、Tからは色々と誘いがあった。そんな折、Hさんが入院したとの連絡、咄嗟、私は覚悟した、もう長くはない、肺浸潤が以前より有ったし、見舞いの日取りを告げられた、が、私は素直に従えなかった、見舞いを皆ですることに抵抗があった、見舞いは一人でしたかった。かつて、文学研究所のTの死に際しても、私は押し切って一人で見舞った、そして一人で別れをした、私は癌体験以来、人の死というものに特別な感情を抱いていた、そこにこそ実存開明という時が有り、人はそこから生きはじめるのだとの、Hさんとの最初の出会いの日、「末期の席に呼んで下さいね」とはそんな思いがあってのことだった。
Tたちと一緒に見舞いには行かず、時は過ぎていった。ただの肺炎だけであればいいと、安心していた時だった、「父が声を聞きたいと言ってます」との娘さんからの連絡、翌日私は、「奥さんと一緒に」の求め通りに妻と見舞ったのだった。
痩せ細った、かの日の面影も失せたHさんがそこにはあった。開口、「遅かったよ」と、「一週間前死に掛けた、でもまだ死ねないと、努力して這い上がったのだ」と、手を出してくれと私の手を取り、両手で握り、「ありがとう」と、私は非を詫び、許され、
Sの意見
3.11がどうであっても、人は絶望していては生きていけない、絶望に捉われていないで希望に向かって歩み続けること、それ以外に人の生き方はないのだからと、政治については民主集中でも中央集権でもなく、その中間の形を模索していると、いつかジンシャープの革命運動に共感していたS、
私は何も返さなかった、多く庶民が親が子に願い諭す言葉、理想ばかり追っていては生きてはいけない、先ずもって喰わねばならない、喰ってからものは言うものと、人生の出発において、人間喪失を強要されるようだった、我妻も理想と現実を考えるなら、現実をこそ求めるのだった、下手な考え休むに似たりとか、長いものには巻かれろとか、人間喪失を生まれたときから教え込まれてきた親、その子には、その諦めの思考、理想の停止しか方法がないのだった、考え続けることなど、金にならない邪魔なことだと、革命とはまさに庶民には方便でしかないのだった、
世界の陰謀を自分は峻別できるとする、9.11もアポロも、アウシュビッツもラーゲリも、しかし、そこに答えを求める中に誤りが、邪悪に対しての答えが理想主義であるのだった、絶望していては生きていけないの言葉の中に、この現実への理想主義があり、絶望を思考停止して捉えてしまう中にあるのだった、かつて、なぜ生きるのか、なぜ闘うのかと問うことに、違和、嫌気があり、しかし、革命とは闘いが命題であり、逡巡は日和見であると、世界の陰謀史を見ないで希望を語るなど、「希望が虚妄であるのは、絶望と同じだ」と、3.11以降の世界にあって、魯迅は言うはず、




