日本および、日本人の誇りとは
日本および、日本人の誇りとは
日本、日本人が名誉であると君は思っているが、どこが名誉であるのか、それは無知であり、名誉や誇りを何故欲するのか、個の尊厳において、それらが何の意味をもつのか、
左翼、アカとは、
左翼、右翼、アカ、保守と、どちらでも、どうでもいいこと、人間の意識などたかが知れたもの、人間の文明の流れの中の一瞬の意識、それも二千年ぐらいの、50億年の地球の歴史の瞬きほどの、
日本および、日本人の誇りとは
日本、日本人が名誉であると君は思っているが、どこが名誉であるのか、それは無知であり、名誉や誇りを何故欲するのか、個の尊厳において、それらが何の意味をもつのか、
左翼、アカとは、
左翼、右翼、アカ、保守と、どちらでも、どうでもいいこと、人間の意識などたかが知れたもの、人間の文明の流れの中の一瞬の意識、それも二千年ぐらいの、50億年の地球の歴史の瞬きほどの、
俳句とは、その人の気分や意思を季語に仮託しただけ、
棺一基
四顧茫々と
霞みけり
国家、社会、世界を対象化し、私自身も私で対象化し、その私自身を無の上に置く、これで私対世界は完結する、核という絶望はこれを可能とした、戦争というものは、という意識、又は自責性、または正義、又は国家、国益、宗教、近代個人ではない、無の上に据えた、唯一者の視点こそが、人間においての意味である、
死刑囚の意識と、末期がん患者の意識
そこにある意識とは、唯一者としての、私対死、私対世界である、これは観念や概念ではなく、生身の、必然の私の死という強迫が作り出すもの、命への危機意識、
核を原発を、石牟礼のように書いている作家がいない、大したことではないと思っているのか、危機として捉えられないのか、描く方法が考えられないのか、
日本人の精神構造と南京大虐殺〜打算とニヒリズム、天皇崇拝と中国蔑視、一番乗り競争、兵站計画の不備、現地調達、
私対世界を理性ではなく、世界観として持っている人間ならば、障害を持って生まれたとしても、死刑囚であったとしても、ユダヤ人であったとしても、存在することそれ自体が実存という領域であろう、社会や、他者が如何にあろうとも、時間という実存領域を所有していると、
神が存在するなら、信仰はいらない、〜神が見えないから、神に伝わらないから、神が叶えてくれないから、人は信仰し、祈るのだった、
現実性という幻想〜
人間とは、自己の存在と行為に関する出来事なのだ〜
ボードリヤール〜塚原史
悪は世界の起源から存在しているパロディーである、
人間の全歴史は犯罪の歴史に過ぎない、
悪とは過去と現在のありのままの世界である、
腐敗は集合的心理劇〜学芸会
核によって、われわれは太陽をつかまえ、有無を言わさずそれを地上に投下した、その時太陽は死の光となった、
絶望を想定しているわけではなく、悪と現代の状況を考察しているに過ぎず、機会遭遇の哲学に過ぎない、J・Bの行動心理学の考察など、核の前には無に帰すことなのに、核を想定しておらず、ただの分析に終始、
黒田喜夫
あんにゃと呼ばれる男たちが、戦争で名誉を得る、日本農民兵士の姿を書いている、
あんにゃとは卑称、差別的呼び名、
又、或るあんにゃは共産党へと、日本近代ではこうしたあんにゃによって軍国主義と、民主主義を生んだのだと、
革命の問題、近代の問題、日本的特殊の問題、ボードリヤールの視点に似るが、庶民はエゴイズムと、戦争、権力追従のプロセス、
南京大虐殺の津田道夫、ここにある歴史構造、
「南京大虐殺と日本人の精神構造」
権力と反権力、善と悪などの二項対立の視点は無意味、「1937」の辺見にしても、ここでの呻吟なのだから、
日本人論
日本は国家の成り立ちからして、西洋とは違い、人間も、生まれてからの教育も、考え方も違っている、個人主義、近代、神、などの考えはない、これは日本の特殊であり、国ではなく世間、神ではなく自然、よろずの神、御利益となる、
黒田喜夫も日本左翼批判についやし、日本の後進性と島国性の指摘にとどまり、その特質を「あんにゃ」と呼ばれる小作以下の、日本的「阿Q」ととらえる、谷川雁など、そこらを変革しようと、農地改革運動を進めたが、挫折を、農地の個人所有によって農民エゴがと、農民の土地所有を通した保守と、共同体維持へと、
実存というものを、観念、抽象したいわけではない、
人間は進歩も発展もしない、文化は、時代、国によって様々に変化する、
存在の全てが実存であることの視座を現したいのだった、石に対して、鉱物的知識、博物的と、様々に人間は興味と意味付けをもって感じる、奥泉の「石の来歴」のような博物と物語り、バシュラールの「蝋燭」ように、詩の博物化のような、
私のレイトスタイル
やはり絶望を、その中での実存を、私の残存を描くことが、誰に見せるわけでもない、私の人生への答え、問いであるだけ、
個人主義の未発達が、組織の未発達に、個人主義が格差によって、抑圧によって発達するのか、歴史、文化の問題だけなのか、実存の問題とは、この個人の追及から発生するのだが、唯一者の意識とは、超個人主義であるのだから、新しき人とは、この超個人主義者であろう、特別な人ではなく、世界を真に一人で見据える者のことである、
世界がひっくり返ってしまったとは
絶望でいいのだ、価値が消失してしまったのだから、既定の、従来の人間の文化、哲学では解決不能の事態であることの、私だけがそうなのではない、誰も、誰に対しても答えられない、解決方法などないことは自明、ただ隠す、忘れる、蓋をする、それ以外はないということ、個人においては、まったく新しいこの事態に、解決方法を探る以外にない、今後この事態に向き合える、新しき人が誕生するかも知れないが、今の私において新しき人を生きねば、チェルノブイリ以降ただ反抗的、実存的人間が誕生していたとしても、彼らに新しさを感じられない、私の新しき人を、それは私の新たな価値観作りであるのだから、
絶望の共有、共感など
他人には求められない、私の癌を他人が共感し、医師が全力を尽くしてくれたとしても、私の死は私で解決する以外にないという、この世界の核は私で解決する以外にないということ、反抗、警告、告発、糾弾ではない、リュウ医師の誠実などでもない、絶望というものを、絶望という状態の人間がとれる行動とは、タバコを一服吸って挨拶するだけ、さようなら、さようなら、さようなら、と、
私がやらねばならないこととは、このさようならの言葉である、悔しさ、悲しさ、絶望は人の最後の言葉となるはず、
75歳で死んでいいのかと私、
もう早く死にたいとエミ、
二人を生きることが楽しく、幸せではないのかと、出来るだけ長く生きることは喜びではないのかと私、楽しさも、幸せ、喜びも、今や色あせてしまったのだね、と、
私の所有
私が所有できるなら、何をしても肯定できるし、何もしないことも肯定できる、私の死をも所有し、死をも味わうものとする、
Yに語ったこと
死生学があるように、今や人類には絶望学が必要な時代にきている、個人の絶望は宗教が解決するだろうが、核汚染の世界にあっては、種としての人類には救済方法がない、今や死生学と絶望学が必要なのだと、学としての、科学としての絶望の定義と覚悟が、と、
自省的、自己嫌悪ではなく、唯一者として、世界の絶望にあっても、在る、実存するという領域を、私において提示、これこそが創造的無であり、私の生であり、私であるのだと、愛なら、私の愛の実存領域を、
愛のエピソード
石塚君が語ったこと
好きな女性が握っていたお金を、その女性が持っていたものと、大切に、今でもそのお金は使わないでしまってあると、こんな気持、君には解らないだろうなと、16歳の社会主義に目覚めた私に語った、
いつも、何か自分の快楽世界に遊んでいるような、言葉を掛けても上の空のような、私より何歳か年上の石塚君、創価学会をやっていた、毎夜、真剣にお経をあげていた、他人からは、変わり者として見られていた、
この石塚君の愛の実存領域とは、彼の一途さを生む人間というものの、動物、昆虫などの本能的な、しかし人間の精神という行為の、プラトニックにおける、思うという、あこがれるという、フェチ、ストーカーとは違う、精神という、愛の人間領域、何故か分らない、突然好きになった、思い浮かべると心地良い、嬉しくなる、その異性の姿、言葉の一つ一つがと、実存を説いたニーチェ、キルケゴール、カフカ、サルトル、ハイデガー、リルケも、芸術における愛の桎梏と情念、人間の絶望など、若き日なら愛で解決するもののような、




