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石垣のある道

作者: 勝川治長

          1


 今日も勤務先の工場から、賢治は重いリュックサックを背負って家路を歩いていた。靴底に鉛がつけられているかのように、足取りは重くて緩慢であった。夏の暑い日に工場の省エネ冷房は頼りにはならなく、額に汗をにじませながら、ほぼ一日中製品の組み立てを何回も行って次工程に渡す単純作業に明け暮れた。家路の途中には低い石垣があり、そこは日陰のため、疲れた体を休ませようと、賢治はしばしばその石垣の腰を下ろした。家と工場は遠く離れてはいなかったが、まるで機械のような仕事に終始した自分にとって、休まないで帰る事は出来なかった。

 賢治とてそんな仕事に喜んで希望をしたわけではなかった。機械と変わらない単純作業ではなく、出来れば人間らしい工夫や計画立案をする仕事に憧れてはいたが、しかしそれは叶わぬ夢でしかなかった。賢治は後天的な吃音症であったのだ。


 少年時代の賢治は明るかった。言葉は滑らかでユーモアもあり友人も多く、これといって不都合な障害はなかった。高校に入学して一年目は、勉強に明け暮れた平凡な少年であった。晴れの日の青空や雨の日の雨雲達すべてが賢治の友達であるようだった。


 転落は突如訪れた。あれは二年生になって忘れもしない生徒集会に参加して、予算委員長として発言していた時だった。

「今の委員長の計画では金額が難しいのではないですか?」

「その予算計画ですが、ええと・・・・・」

「はっきりして下さい。委員長でしょう!」

「・・・・あ・・・・・・え・・・・・」

顧問の教師も横から気色ばんで口を出した。

「はっきりしろ! こんな事ぐらい答弁できないのか!」

「・・・・・え・・・・・・・」

 突如自分の声が出なくなってしまったのだ。

 集会を行っていた講堂では、異常に気がついてざわめきが広がった。やっと教師もただ事ではないと息を飲み、小声でささやいた。

「少し落ち着いて! 別の議題を先にやろう」

 別の話し合いに移ったが、賢治は気が動転して、ついにはその会議に発言は出来ずに終わってしまった。賢治の案件は担当教師の裁量で承認済となった。


 その日から賢治は、普段の仲間達と話す時にはそのような事はなかったが、学校の授業や役員活動など改まった場面では、話したい事が声にならなくなってしまったのだ。

教師や級友の陰口を一身に受ける日々に転落していったのであった。

 両親も思わぬ息子の症状に心配して、知り合いから紹介された精神科医や大学病院などの医療機関に相談もした。様々な検査もしてもらった。しかし根本的な原因は相変わらず分からずじまいで、神経症、緊張した時に声帯がないと同じになった状態、神経的な吃音などと様々な意味不明な病名を言われただけであった。処方されたクスリも何の効果もなかった。学校の担任教師もどうする事も出来ずに考え込むだけであった。

 毎日周囲から感じる侮蔑らしきものに耐えかねて、賢治が下した結論は高校中退であった。別に露骨ないじめを受けたわけではなく、ただの軽口程度のからかいは続いたが、そんな惨めな自分に耐えることが出来なくなったのだ。

          

 ただし賢治は高校を中退しても、家に引きこもる気はなかった。俺は人前で言葉が不自由になっただけで、からだは丈夫じゃないかという負けん気が、賢治を社会に導いていた。思いがけない障害に学校は中退したが、不思議と賢治のプライドは残っていた。しかし社会は厳しい。たとえ五体満足で日常会話には問題がなくても、会議などでは発言も出来ない少年を採用する会社は少ない。ましてやオートメーション化されて単純作業は日増しに少なくなった社会では行き場所はない。理容師や調理師など接客業は、対人関係に自信をもなくしつつあった賢治には、熱意は持てなかった。

 行き着く先はやっと見つけた小さな工場の作業員で、アルバイト。そこで数年単純な作業に明け暮れた。少年賢治には早くも人生の冬のような現象が訪れたのだ。


          2


 高校生時代の先輩に、尊敬できるひとりの女子高生がいた。学業は優秀で生徒会活動も活発と、すべての面で見本にしていた。人づてに彼女は高校を卒業後に、大学の法学部から弁護士になったと聞いていた。その後彼女は大学時代の仲間で、精神科開業医と結婚した事も聞いていた。賢治は藁にもすがる思いでその医師の門を訪れた。

「篠原先生。はじめまして」と初めての診察時に切り出して、自分の今までの症状を話し始めた。賢治の声は低く絞り出すような響きであった。今までの無念を吐き出すような重苦しい苦衷がにじんでいた。篠原先生の奥さんの事は言わなかった。尊敬していた先輩とはいえ、賢治は落伍者である。大っぴらにはしたくはなかった。だいいち芳江さんという名の奥さんとは、高校時代に尊敬していただけで話した事はない。彼女も賢治の事は覚えていないだろう。


 賢治の症状の話を聞き、症状を詳しく理解した篠原は「クスリを出そう」と言って診察を終えた。その後何度か篠原医院の門を尋ねたが、相変わらず回復の兆しは全くなかった。

 ある時賢治はたまりかねて篠原に問いかけた。

「先生、僕は相変わらずの症状です。こうやって普通に先生とは話せるのですが、勤め先の会議みたいに真剣な場所になると急に声が出なくて」と哀願するように訴えた。

「う~ん、クスリを変えてみよう。安定剤にも今は良いものがあるからなあ」

「治りますか?」

「・・・治りますかじゃない。治すんだという意気込みでな!」

 空しい根性論が続いた事もあった。

 新しいクスリに期待は持てなかった。今までどれだけ期待を裏切られた事か。


 医院での会計を済ませると、周囲を見回して足早に去っていくのが常であった。誰からも姿を見られたくなかったからだ。もちろん知人と会って面と向かって笑われた事はなかったが、この先誰かと出会って惨めに思われるのが嫌で、医院を去るの足は追われるようであった。道では誰とも会いたくなかった。人やその好意すら日増しに信じられなくなってきた。

 もちろん賢治にはまだプライドはある。昔のように話す事ができたら、こんな人生は決して送ってはいなかたというプライド。人からみじめに思われたくない、この病気が治ったら見ていろという、ささやかだが大切なプライドである。かなり現実離れしたプライドだが、これがなければ賢治は生きる事は出来なくて、自ら命を絶ってしまったかもしれない。


 しかし現実は賢治のプライドとは逆に動いていた。ある日工場の昼休みに小集団活動の会合があった。それまでは賢治も同僚と雑談など滑らかな口調で話していたが、改まった会合で意見を求められると、急に肝心な言葉は出てこない。

「おいバイト、この製品の削り角度はこれでいいのか?」

「・・・・え・・・・こ・・・・」

しゃべろう、意見はあるのだがと思えば思うほど声は出なかった。周囲はハラハラしながら見ている者あり、下を向いて黙っている者あり、横を向いてサジを投げた顔をする者あり、異様な雰囲気であった。

 その時賢治はみじめで絶望的な気分であったが、同時にそれとは逆で「俺だってアルバイトではあるが、長く務めている。意見やアイデアはあるぞ。ただ緊迫した場面ではしゃべれないだけだ」という、昔からあった矛盾したプライドも消えてはいなかった。

 しかしそんな形のないプライドだけでは通るはずがない。障害を抱えて、なおかつ高校を中退した素養のない賢治を引き立てる同僚や上司は皆無だった。

「俺が会議などで話す事が出来たら・・・。いろいろやりたい事、主張したい事があるのに」

 無念な気持ちと、妙な負け惜しみともいえるプライドが頭の中を駆け巡った。


 そして厳しい世間の追い打ちがやってきた。会議や職場の話し合いで声の出ないバイトを、いつまでも工場では雇ってはくれなかった。バイトの採用期限が終わるある日に、賢治は工場から再雇用打ち切りを告げられたのであった。

 正社員ではない賢治に抵抗の権利はない。絶望感に浸りながら通い慣れた石垣のある帰り道を、この日を最後と思いながら憔悴しきって歩いていた。賢治は小声ではあるが、口に出して訴えるように声を発した。

「いったい俺はどうすればいいんだ! 高校は居づらくなって中退。バイトはクビ。すべての原因である言葉の障害は全然治らない。しかも、・・・しかも普段は話せるのでただの小心と思われて、誰も同情はしてくれない。どうしてだ! どうすればいいんだ! 死ねって言うのか!」

 賢治に目から大粒の涙があふれ出ていた。行き場所もなく、対策も立てようがないこの苦しみ。最後の帰り道となった路傍の石垣が、気の毒そうに見ているかのようだった。


          3


 月日は巡り、ある肌寒い晩秋の事であった。それから賢治は精神科医の処置は諦めてどこの病院にも行かず、ただ空虚な気持ちで新しい肉体労働のバイトをしているだけであった。体力は人並みの賢治ではあるが、慣れない重労働。毎日倒れそうになって、もがき続けていた。もっと肉体的に楽な仕事はないだろうかと何度も思い続けていた。しかしもし楽な仕事があっても、打ち合わせや会議などで話をしないといけない。言葉に障害を持つ賢治には挫折する事は目に見えていた。事実最初のバイトはそれで解雇されたではないか。


 それとなく思い出したのが、昔通院したあの篠原医院であった。大きな病院の精神科でも治らないのに、そんな町医者に治せる事は出来ないだろう。事実先生の処置は効果のない投薬だけではあった事を覚えている。しかし以前診察してもらった時は、状態を聞くのに時間をかけてくれた。人生での悩みを聞いてもらうだけの気持ちで、再び篠崎医院を訪れた。


「・・・久しぶりだな。あれからどんな様子かい?」

 篠原は何ともやるせない表情で話しかけた。なにか先生も疲れているのだろうか、と思うほどに篠原は深く嘆息した。

「こうやって日常会話は全く問題はないのですが、相変わらず会議や仕事の打ち合わせは全く声が出なくて、バイトはクビになりました。今は別の会社で肉体労働だけやっています」

 賢治は無念さを吐き出すように、弱い声で訴えた。

「そうか。昔と同じか」

「・・・はい」

 無言の時が流れた。


 他に患者がいないことを確かめた篠原は、静かに語りかけた。

「俺だって毎日精神や神経を病んだ患者と話していると、苦しくてしょうがない。医師は理系の花と言われるが、ただ心を病んだ患者の話につきあって苦しんでるだけだ。どこか山里に引退したくなるんだ。いや精神科医だけではない。内科医も外科医も死に直面して苦しむ奴が多いんだ」

 篠原の顔に偽りや冗談の影はなかった。陰鬱な陰りが秘めていた。

「俺の女房もそうだ。弁護士は文系の花だと言われたが、毎日人間のドス黒くて我儘な訴えに耳を傾けなくてはならず、気分はすっかりふさぎ込んでしまった」

「え、先生の奥さんが・・・」

「うん、女房は事あるごとに俺に当たり散らしてくる。『あなた精神科の医者でしょう。明るくするクスリはないの!』と、こうだ」

「・・・そうですか」

「今俺は女房とは別れた。つらい仕事の後に憎しみ合うのは、お互いごめんだからな」

「え! せ、先生と奥さんが!」

「・・・ああ」

 篠原の言葉には暗い真実が込められていた。決して賢治を慰めようとして言ったとは思えない。苦渋の顔であった。晩秋の夕暮れ、辺りは薄暗くなっており、街のざわめきもかすかであった。

 何も言葉が見つからない賢治に、篠原は続けた。

「医者になっても何もいい事はなかったな。確かに所得は多いが、それだけだ」

「はあ・・・。でも先生はそれでも医師という職業があるのです。僕はただの肉体労働の非正規社員です」

「みんな同じだ」

「・・・」

 晩秋の街に医院の中では、まるで蚊の鳴き声のような言葉が往復した。


 篠原は我に返って、思いついたように事務的な声を発した。

「前のクスリのメーカーとは違うものがあるが、飲んでみるかい?」

 別に断る理由なないので、賢治は小声で承諾した。もっとも何年もクスリには裏切られ続けていた賢治は、そんな新しいクスリに期待はしていなかった。「もうだめだ、治らないだろう」というあきらめの気持ちが賢治の奥底の心に蔓延していたのだ。

 しかしそれとは別に、賢治の心には強い衝撃が走っていたのだった。


 新しいクスリをもらって医院を出た賢治は、ゆっくり歩きながら混乱した頭を懸命に整理していた。街は肌寒くて、立ち止まる気持ちにはなれなかった。賢治は歩きながら一人考え続けた。

「あの芳江先輩と篠原先生が離婚! 俺とは正反対で、幸せで晴れがましい人生であるはずの、あの二人が離婚! しかも二人共弁護士と医師でありながら、仕事で苦しみ抜いていたとは!」


 賢治の衝撃はただ事ではなかった。そして複雑でもあった。ただ単なる衝撃ではなくて、なんと、ほくそ笑みもあった。

「なんだ俺だけが脱落したのではないじゃないか。あんなエリート達も仕事で苦しんで離婚か!」

 不思議な、いや人間なら誰しもがありがちな冷たい安堵が湧き出て来たのだ。敗者賢治に醜く哀れな安堵感が湧き出たのであった。

「俺は高校生時代に思いがけなく障害者同然となってしまった。それからは急な坂道を転がり落ちる人生となってしまった。死への逃避も何度考えた事か。しかし持ち前のプライドらしき気持ちで生きてきた。今は会議などない肉体労働者に落ちぶれたが、皮肉な事につかの間の平穏を保っている。人間関係の煩わしさはないのが救いだ。世の中の人々は華々しく見えても、時には暗い部分を持ち合わせているのだ」


 賢治の足はいつしかあの石垣のある道を歩いていた。最初のバイト先に勤務していた時に、帰りには必ず休んだあの石垣。晩秋の日に石垣の周囲には色あせた枯れ草が横たわっているだけだった。寒くはあったが、賢治は久しぶりにその石垣の上に腰を下ろした。

「そうか。俺は高校生の時に人生から脱落したが、脱落していない奴らだって苦しんでいるのか。人間は社会に出れば皆同じとは言われるが、それは言えるかもな。・・・でもなあ。それでもいくら離婚したとはいえ、芳江先輩や篠原先生は社会で脚光を浴びる仕事はしている。俺は高校中退で、しかもいまだに言葉のハンディを背負っている。しかも世の中には、更に俺達より楽しくて充実した仕事生活を送っている奴らだっているようだ。俺だけが悲惨過ぎるのかもしれない」

 安堵感と、暗い現実での劣等感という矛盾した気持ちが交錯して、賢治の頭は嵐が吹いていた。


          4


 三月になり、寒さが少しずつやわらぎ始めた梅の季節に、賢治は篠原医院の帰り道に後ろから呼びかけられた。そそくさに歩いていた賢治は少しビクンとして振り向いた。そこには二十代後半に見える女性が真剣な目でこちらを見ていた。

「失礼ですが、あなた、高校で生徒集会で活躍しませんでしたか?」

「は、はい。ええと、どちら様でしょう? 僕は物覚えが悪くて」

「私は篠原医院の妻だったのです。高校はあなたと同じでしたよ」

 なんと彼女は、あの芳江先輩ではないか。すっかり大人びて高校時代の面影は薄れているが、それでも冷静な姿勢や話し方は変わっていなかった。

 彼女は低い声で話し続けた。彼女は高校時代から賢治を知っていたとの事であった。そして芳江が篠原医院に嫁いでいた時に、賢治のカルテを見た事も打ち明けてくれた。

「高校は中退したんだね。そして大変だったんだね」

「はい、僕の人生は高校の二年生で止まっています。散々な人生で回復の望みはないでしょう」

 まだ三月とはいえ肌寒い。立ち止まっているのも苦痛だった。芳江は賢治を近くの大きな喫茶店に誘った。


 店の中は温かい。コーヒーと簡単なトーストを注文して、賢治は芳江と向き合った。あの尊敬していた芳江と二人で向かい合って話すとは思ってもいない事だった。今度は賢治から話し出した。

「先輩は僕の事を知っていたのですか。僕らから見て先輩は雲の上のような人でした」

「覚えているわよ。君だって生徒会で頑張っていたからね。忘れませんよ」

「そうですか。こんな僕を!」

「ええ。覚えているわよ。今でも」


 テーブルのコーヒーをすすりながら、芳江は昔話を細くて張りのない糸のように続けた。

「あなたは苦労したようだけど、私だって夫とは別れたし、今は知り合いの弁護士事務所で働いていても、あまり難しいトラブルは苦手でね。学校時代はともかく、社会に出ると大変だわね。私は温室育ちの過保護だったんだって、今気がついたわ」

「先輩はまだ良いですよ。僕は高校中退で、先の見えないバイト・・・」

「ううん、みんな同じよ。若い時に交通事故や癌などで死んでしまった人もいるよ。命を落とさなくても重い後遺症で人生が変わってしまった人も知っている。みんなそれぞれ苦しみを持っているわよ」

「それは僕もよく考えました。でもそれは自分への慰め程度にしかなりませんでした。確かに苦しみのない人はいませんが、人によって大きな苦しみや少ない苦しみという違いはあります。僕は大きな苦しみのほうです。」


 芳江は少し間をおいてじっと賢治を見つめていた。そこにはあの凛とした芳江とは違い、やるせない曇った表情が感じられた。賢治は自分のどうしようもない苦しみを、医療機関以外に話した事はこれが初めてであった。話したくて仕方がないという、いまだかつてない衝動に引かれていた。賢治は芳江に尋ねてみた。むろん彼女も今は順調な人生では決してない事を知っていて、親近感を感じて話しかけた。

「ねえ先輩、パラリンピックで体に傷害を持った人が活躍すると、世間からは賞賛されるね。しかし僕みたいな精神神経を病んだ者は、どんなに苦しくても、どんなに頑張っても同情も賞賛はされないね。厄介者として見られるだけ。損な病気だね」

「ええ、それは分かるわ。私も苦しい弁護士の仕事で悩んでも、周りからは頼りない弁護士って言われるだけ」


 いろいろな愚痴をこぼして、ふと我に返ったのは意外にも賢治だった。芳江が悩む姿を初めて見たからだ。

「こうやって苦しみを話し合うのもいいかもしれませんね。一人で悩んでも、何もいい事はないです」

「それもそうね。一人で苦しむと泥沼にはまっていくみたいだわ」

 話は途切れ途切れに続いていた。


「コーヒーのおかわりはいかがでしょう」

 気がつくとメイドが横から声を掛けた。つい愚痴が長話となっていたのだ。二人は現実に連れ戻されて、家に帰る事とした。会計は割勘で外に出た。

 外の風は冷たい。二人は名残惜しげに目を合わせてささやいた。

「じゃあ先輩、お互い頑張りましょう」

「君もね」

 平凡すぎる月並みな言葉を最後に、二人は分かれた。


 賢治は家路をゆっくりと歩いていた。寒さはジャンバーの襟を立てて防いだ。しかし彼の心にはより大きな感慨が漂っていた。何年か振りで人間の魂が感じられたのだ。

 今日は些末な愚痴のこぼし合いではあったが、自分の苦しみを医者以外の人に打ち明けれた事が、これほどまでに気を立て戻せるとは思ってなかった。篠原医院で先生に症状を話しても、結局最後には治そうという意志を持つ事と、クスリを飲む事で終わっていた。しかし今日は違う。相手は尊敬していた先輩。その彼女は賢治が言葉の障害を持つ前から、自分の事を知っていて誉めてくれたのだ。しかも卒業後に久しぶりに出会って二人でコーヒー。そして二人共程度の差こそあれ、現実社会では苦しみ果てている。もちろん「良かった。あの先輩も苦しんでいたんだ」という哀れな仲間意識もあった。高校時代からすっかり殻に閉じこもっていた賢治は、篠原先生と話す時とは異なり、芳江との会話で何か新鮮な感覚に目覚めたのだ。


          5


 四月になり桜が世の中を染めていた。賢治は昔工場でバイトをした帰りの例の石垣に腰を掛けていた。気温が温かいと、その石垣から見まわす桜は絶景である。世の中が夜明けとなったかの気持ちになる。

 しかし賢治はそこでも言葉の障害を考えていた。  

「俺は不慮の落後者だが、ほかの重篤な障害を持った人達から見ると羨ましく思われるかもしれない。交通事故で手足を失った人からは『賢治の障害は強い意志があれば治せるじゃないか。こっちの手足は再生出来ないのだぞ!』と言われそうだ。でもその逆で俺はこう言うだろう。『俺がどんなに無念な思いで生きて来たか知っているか! 根性論で治るのならとっくに治しているぞ! クスリは頼りにならなかったしな』とな」

 先月芳江と話した内容が頭を持ち上げた。本当の苦しみは、本人しか分からないのだろう。しかし逆に、みんな苦しんでいるという相手本位の心境になるのも難しい。自分だけがなぜという我儘な考えは、誰にでもあるようだ。


 石垣から見える桜も色は様々である。ピンクを基調としているが、薄い色あり濃い色ありで美しいコントラストを形成している。日本人が待ちかねた春に添えるものとしては、これに勝るものはないであろう。その美しい景観を見ながら、賢治は考え続けた。

「俺が高校を中退した事は間違いだったかもしれない。担任の先生に病状を話して重責は避けてもらって、自分の出来る範囲で周囲に貢献する事も出来たはずだ。あの美しい桜の花びらでなくても、責めて地面の下で頑張る根でも、それは存在価値がある。確かに同級生からの陰口や侮蔑の目は無念だ。でもそれで中退は早まったかもしれなかった。高校で忍耐力をつけていれば、工場のバイトだってもっとやれる事があったかもしれない」

 しかし賢治の心は揺れ動く。

「でも学生時代はともかく社会に出て、改まった席で声も出せれない俺を雇う職場は少ないし、現にバイトは雇用更新できなかった」

 賢治らしい優柔不断な心のシーソーが始まった。そういえば篠原先生と芳江の離婚も驚いたが、同時に安堵感だってあったのだ。「あのエリートも苦しんでいる」という寂しい安堵感。二つの正反対な気持ちが賢治の頭を駆け巡っていた。混乱した頭であった。


「いかんいかん、解決がない考えにハマったって、変わらない。精神医学でも作業療法というものがあるそうだ。その療法を受けた事はないが、今の肉体労働を続けよう。これも作業療法かもしれないからな。他に名案はないからな」

 深い嘆息をして、賢治はその石垣から立ち上がった。


          6


「先生こんにちは。よろしくお願いします」

「ああ、調子はどうだね」

 例によって篠原医院での診察である。溺れる者にとっては藁より更に頼りないが、他にすがるものはない。今日は夕方になっても後に待っている患者はいなかった。

「先生、例えば足を失った人は、もはや足が生えては来ませんが、義足や松葉杖という手段はありますね。僕の病気は治りそうもないです。なにか義足に匹敵するようなものはないでしょうか?」

「はあ? 君の人までの症状に対する義足のようなもの? 今のところ考えられる事はクスリしかないな。作業療法とかいろいろ提言されているが、根本的な解決にはならないからなあ」

 そのクスリこそ最もアテにならないではないか。

「今は重い精神病患者には、日記をつけさせたり手作業をさせたりでいろいろ効果を見ているが、完璧な治癒は難しい」

「そうですか、やはり・・・」


 篠崎はここで思いついたように話し出した。

「俺は最近エッセイを書いている。精神や神経を病んでいる患者と向き合うと、いろいろな事が見えてくるんだ。仕事の疲れに良いリフレッシュにもなるしな。どうだろう!君は小説でも書いたらどうかね。小説家だ」

「・・・小説家ですか? でも僕は高校中退ですし、だいたい小説家で食ってはいけれそうもないし」

「小説家に学歴は不要だ。そして君とは長い付き合いだが、君の話は論理的で的確だった。若い時から苦労もしているから、小説の題材はたくさんあるだろう。有名高校に在籍していたから、基礎知識はあるはずだ。こんな人がなぜ改まった席で話せないのだろうとか、勿体ないとか常々思っていたよ。それにお金だったら、ほとんどの小説家はアルバイトや別の仕事で暮らしている。印税などで生活できる人は一握りだ」

「そうですか! 僕だって肉体労働のバイトで生活してます。もしかすると多くの作家さんの収入は僕とあまり変わらないかもしれませんね」

「うん、ただし俺は君に強くまで小説家を勧める事は出来ない。自分で判断して決めてくれ。あくまで小説家の成功者は稀だ。普通の生活をしている人には絶対勧めない。危険だからな。だが君は今のままでは一生そのままだ。アルバイトだけでなく同時に小説を書くほうが良いかもしれない」

「・・・先生、前向きに考えてみます。たしかに僕は疲れるバイト以外は何もしていません。父は亡くなっていますが、食事は母が作ってくれてます。だいたい悩むだけでなにもせずに、先生に頼っていたのがいけなかったです」

「うん、クスリ以外では、他に考えようがないからなあ。自分で決めてくれ」

「決める責任は僕だけにあります。先生にご迷惑はお掛けしません」

「うん、じゃあこれで君の病気は治ったとな。俺の診察は打ち切ろう。もっとも精神医学は常に進歩しているから、何か不安な事があれば来るだけでいいよ。大病院にも紹介状も書けるしな」

「はい、お世話になりました。今までありがとうございました」


 賢治は最後のクスリを貰って、篠原医院から出た。

「小説家か! 今の俺は疲れるバイトをやっているが、仕事以外の時間はたっぷりある。学校での作文は決して得意ではなかったが、苦手でもなかった。本屋で文芸誌を買ってみよう。小説家としての勉強にもなるし、応募する団体も知りたい。だいいち今のままの俺では駄目だって、何で自分の将来をもっと本気で真剣に考えなかったのだろう。何年も自信を失くして、惰性になっていただけだ。もちろんどうせ小説家になっても一流になれる保証はない。いやむしろ良い小説や新鮮味のある作品に限って、急には認められないだろう。でも苦しみは慣れている。今までの苦しみよりは小説家の苦しみのほうがましだ!人前で講演する仕事じゃないからな。吃音の俺でも出来るじゃないか。万一講演を依頼されたら断ればいいだけだ」


 賢治はあの懐かしい石垣の道を歩いていた。最初働いていた工場は、倒産したのだろうか。建物は取り壊されて空き地となっていた。しかも家への帰り道にあったあの石垣は取り外されていた。「道路拡張工事中」と書かれた大きな看板があり、何人もの作業員が雨具を着て何やら叫びながら働いていた。

「そうか、みんな消えた過去になったのか」

 梅雨の時期だけに、じんわりとした毎日だ。今日も朝から雨が地面を濡らしていた。しかし夕方になって相変わらず雨雲は多いものの、わずかな青空が見えもした。

 賢治は雨傘をたたんで、工事の風景を見ていた。いつも通りの将来への不安と憂鬱に満たされはしていたが、同時に今まで何年も忘れていた、久し振りの新しい希望も含まれていた。

「やれるだけやってみよう。小説家か! どうせ今までは低空飛行の人生だった。これからもたいした作品は書けなくても構わない。しかしいままでの沈んだ経験を描いて、人間の有様を考えてみよう! 疲れるバイトをやっているが、その給与だけでなくてもっと労働者の心も学んでみよう。俺に与えられた道は、これしかない」

 目を下にしながら賢治のつぶやきは続いた。

「小説で自分をさらけ出せば、今まで見えなかった新しい自分が分かるかもしれない。どんな自分が見えてくるのだろう? そして見えた自分を俺はどう思うだろう? 認める事が出来るのか、受け入れることが出来るのか、そして何より新しく見えたその自分を、俺は愛することが出来るのであろうか?」


 雨がまた強く降りだしてきた。これからの賢治の更に重い人生を象徴するかのように、大きな雨粒となって大地を濡らしていた。しかし賢治の足音は普段より大きくて早かった。目は真っ直ぐになっていた。


 それは六月下旬の梅雨期の夕暮れ時であった。


                              〈了〉

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[良い点] このサイトにおいて感想を綴ってきた短編のなかでも、ひとしお感慨深い作品でした。 このような作品に感想をいうのは本当に難しいもので、当然、吃音症というハンデからくる主人公の振舞いにとても共…
[良い点]  ストーリーに合わせ表現も文章もカーブを描いて上に登っていくのが、すごく良いですね。好きです。  あと、紙様式で書いてあるのに、スマホでも読みやすいです。  きっと、名詞や漢字ひらがなのリ…
[良い点] ・5の石垣から見える桜の風景描写がとても美しいと思いました。純文学の醍醐味ですね。 ・梅雨明けではなく、梅雨の夕暮れと締めくくられている 点に興味をひかれました。 [気になる点] いつ…
2018/12/01 17:20 退会済み
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