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屠殺白蛙は、突然現れた兎に気付き、ぎょろりと大きな目玉を動かし注視した。
「うわぁ、死んじゃう、死んじゃう」
無防備に姿を現した兎に、アズミは悲哀混じりにそう溢し、俺は静かにうなずいた。
確かに、ふわりとしていて、かわいい見た目の生き物が殺されてしまう光景は見たいものではない。
兎は恐怖に呑まれたのか、逃げようとしない。
すぐに逃げれば助かりそうなものだが。
古い石造りの建築物が視界を塞ぎ、ちょっとした凹凸や、それなりの傾斜、散乱する瓦礫といった地形。屠殺白蛙の体型では、全力で逃げる兎に追いつけそうにない。
屠殺白蛙はすでに十分な食料を得ている。もしかしたら兎も俺たちも見逃されるかも、という淡い期待があるにはある。
とはいえ、俺の心中ではそんな甘い憐れみとは別の、冷徹な期待が膨らんでいた。
兎がこの場から逃げて囮になってもらうか、もしくは狩りの成果に満足する糧として追加で犠牲になってもらえれば、という仄暗い期待だ。
散々、命を食して生きてきた俺が、この状況で自身の安全を優先せずに、兎の無事を祈るのは道理に合わない。
囮になって蛙をこの場から遠ざけてもらえるのなら、兎が逃げ切れるように祈りを捧げるくらいはしないと、とは思うが。
どちらにしても、結果を見届けてから、逃げるか息を潜めるかを選ぶしかない。
「あぁ」
アズミが小さく悲嘆の声を上げる。
やはり望んだ結果にはならないか。
屠殺白蛙は、動きを止めた兎を薙ぐように腰を捻って巨大な鉈を振るう。加減のない強振が白い兎を粉砕する。
――かに思えた。
「え?」
白い兎は迫る巨大な鉈を軽々と跳び越える。白い兎の思いもよらない見事な回避にアズミが声を漏らす。抑えられてはいるが、今までより大きな声にひやりとする。
上手い。
兎は前へ、屠殺白蛙の足下へと向かって駆けた。
薙ぎ払った鉈に振り回されるように、屠殺白蛙は上体が泳いでいて、すぐに次の動作には移れそうにない。このまま股下を潜って後方へ抜ければ、あの兎は逃げ切れる。
「うえっ?」
「おいっ?」
今度は俺まで思わず声が漏れた。
白い大型の兎は跳躍し、屠殺白蛙の頭部の下辺りに向かっていく。
なぜそこで跳んだ……。
このままでは正面から衝突してしまう。あまりの恐怖に混乱してしまったのか。
瞬きの間の出来事であった。
白い兎は屠殺白蛙に頭から突っ込んでいき、身体を捻り、四足で頭と腹の間に着地とほぼ同時に後ろ足で蹴り、三角飛びの要領で離れた。
兎が離れた後には、屠殺白蛙のつるりとした表皮が、ごっそりと無くなった部分が出現する。兎の顎が裂けるように開き、僅かな接触の際に喉をざっくりと食い千切ったのだった。
屠殺白蛙はゆっくりと仰向けに倒れた後、激しく身体を暴れさせて内容物を撒き散らす。
やがて蛙の動きが緩慢になってくると、犬ほどの大きさの兎はぴょこぴょこと傍に寄っていく。
それから鰐のように大きく裂けた顎門で、屠殺白蛙の大きく抉れた喉から、その肉を喰らい始めた。
唖然とするしかない。
人畜無害な見た目の兎の、強烈な変貌ぶりと凶暴性。頭がまともに働いてくれない。
何が起こった?
いや、起こった出来事は余さずこの目に映していたのだが。
「あいつはなんだ?」
「えっと。頸刈乃白兎……」
……頸刈りって。
なんだ、あの兎もただの化け物か。
大きさが普通じゃなかった時点で、予想すべきだった。
なにせ、一から十まで悪趣味なこのゲームに登場する生き物だからな。
それより問題は、あの頸刈乃白兎に俺たちの存在が、感知されているであろうことだ。
あの大きな耳で、こちらが立てた音を捉えているはずなのだ。
今は頸刈乃白兎がこちらに気付いていることを、俺たちが気付いていないだろう、と放置している。そんな状態なのかもしれない。
もしくは十分な食料があり、さらに俺たち程度では脅威にならない、という判断で興味から外れているのであれば助かる。
「他にわかった情報は?」
口元に手を翳し、極力、小声で問う。同じようにアズミも気を使い、手を翳して周囲に声が漏れないように応える。
もしかしたら、あの耳は飾りで聴覚に優れてはいないかもしれない。そうでなくても、大きな声で刺激する気にはならないというのもある。
「名前しかわからない」
あいつも俺たちの手に負える相手ではないと、生物知識も仰っているわけか。
先程の戦闘を見れば、一目瞭然だが。
「どうする?」
「そうだな。食事に気を取られているうちに、刺激しないように、ゆっくりとこの場を去ろう」
台詞の初めに、一か八か、と言いそうになってしまった。
アズミは視線を彷徨わせてから俯き、小さく息を吐く。
「で、どっちに逃げるの?」
「成長の碑石のある祠は、安全地帯として機能するらしい」
おっさんの情報を信じて、そこに逃げ込むのが無難な選択だろう。
「じゃあ、あっちね」
「ああ」
極力、抑えた声で意思の疎通を図ってから、これまで目指していた方向に、三人で静かに移動を始めた。
緊張で激しく動く心臓の音にさえ、焦りを憶える。
倒れた巨大な石柱や、僅かに残った壁の陰へと身を寄せながら足を忍ばせていく。
今のところ、頸刈乃白兎は食事に夢中のようで、襲い掛かっては来ない。
しかし、耳の動きから、時折こちらの様子を音で探っているように思える。このまま見逃されるのか、気が変わって襲われるのか、まだまだ油断などできない。
間違っても刺激しないように、できる限り音を抑え、なるべく兎の視界に入らないようにしながら距離を稼ぐ。
「吐きそう」
極度の緊張からか、アズミがそう弱音を溢す。
勘弁してくれよと思いながら、声を出すな、当然、腹の中の物も出すな、と力を込めた目で訴えておく。
青褪めているであろう、強張った顔で見返してきながらも、アズミは足を先に進めた。ニオの表情は読めないが、おそらく状況を理解しているようで、無言で彼女の後に続く。俺は頸刈乃白兎の様子を気にしつつ、最後尾を受け持つ。
「ふぅう……」
巨大な廃墟の陰に到り、アズミが吐き気を堪える時のような震えた息を吐く。
ここから先は、兎の視界に入らない場所ではあるが、気を抜くのが速すぎる。
ニオの頭上越しに腕を伸ばして、アズミの背を軽く押す。
アズミがビクッと驚いたように身を震わせて振り返ったので、無言のままハンドサインで先に進めとうながす。
睨むような視線を投げかけてから、彼女は音をさせないように慎重に走り出す。
ニオと俺も同じように足音を殺して、それに続く。
更に距離を稼ぎ、ようやく極度の緊張から解放されていく。
後ろを振り返っても、視界の邪魔になる廃墟から百歩ほどの距離があり、間に頸刈乃白兎の姿はない。
「あっ。あの廃墟……。もうすぐ祠よ」
それでも小声で、アズミが振り返りながら報告してきた。
崩れた廃墟を縫うように伸びた石畳の先に、比較的まともな姿を保った廃墟が見える。
兎の餌場からここまでよりも、まだ距離はあるな。
「あそこか」
口を動かしながらも、足の動きも緩めない。
「あの中じゃないけどね」
「ん?」
「その廃墟の隣にある、ここからは見えない崩れかけの廃墟の中なんだよね」
崩れた廃墟なら周りにいくらでもあるから、言葉だけだと確かに間違った廃墟に足を踏み入れる危険は高いか。
蜘蛛の化け物に勝てる見込みは無さそうだし、案内してもらって正解だった。
そんな考えごとをしながら走る。
「うげっ!」
こちらを振り向くように顔を向けたアズミは、女性にあるまじき声を上げてから、猛然と走り出す。ほとんど同時に、ニオもアズミを追って速度を上げた。
嫌な予感に突き動かされて、俺も全力で走りながら後ろを見る。
「あいつ!」
見逃してくれたんじゃないのかよ。
頸刈乃白兎が、曲がり角にあたる廃墟の陰から、こちら側に姿を現わしていた。
完全に獲物を追う体勢に入ろうとしているのが見えたので、そこからは後ろも見ずに全力で前へと走る。
「くっ!」
アズミはスキルの補正で、凄まじい勢いで遠ざかっていく。完全に俺が足止め用の餌と化している状態だ。
とはいえ文句を吐いてもどうしようもない。
彼女に自己犠牲精神を求めるのは、お門違いというもの。
むしろ、祠の位置を知っているアズミより前を走っても、安全地帯に辿りつけないかもしれない。
見失わないように、出来るだけ食らいついていく。
背負い袋や武装が邪魔で仕方ない。
放り捨てるべきか迷うが、武器はともかく、他は簡単に外せない。このまま走るべきだろう。十中八九、もたついて時間のロスになるだけだ。
武器や盾を捨てて無手になるのは、最後の命綱を捨てるようなものでもある。こちらも捨てるという判断は下せない。
「――っ」
兎の脚が、地面を叩く音が近くに迫ってくる。
野生の兎よりも速い速度で逃げている俺より、頸刈乃白兎は圧倒的に速いらしい。
アズミが崩れかけた廃墟の一つに入っていく。
「あそこかっ!」
ニオもその中に消えていく。
背後の気配を間近に感じる。
差し迫った死の重圧に背筋が痺れる。
焦燥に駆られて背後を振りかえると、今まさに顎門を開いて飛び掛かってきていた。
「うわっ!」
身体を投げ出すように横に跳ぶが、明らかに手遅れだ。
まったく躱せる距離でも速度でもない。
はずであったのに――。
恐怖に全身が染めあげられながらも、なぜか生きて地面を転がっている。
頸刈乃白兎は目の前で、火花のような光を撒き散らして、空中で弾かれていた。
着地した兎の紅い眼と視線が重なる。
頭が真っ白になって、思考が一時停止した。
そのまま、頸刈乃白兎は何事も無かったかのように踵を返すと、暗がりの方へと消えていった。
確証はないが――。
「なるほど。安全地帯に辿り着いたのか?」
おそらくそうだろう。
祠の中だけではなく、その周囲が安全地帯になっているらしい。
おかげで命拾いした。
「そういえば」
安全地帯に居られる時間には限りがあるという話だ。
こうして、いつまでも呆けてはいられない。
急いでアズミとニオの後を追わないと。




