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アズミが、姿を晒してでも逃走しようと覚悟を決めた。
そんな気配を見せた瞬間――。
暴食蜥蜴と遜色のない体格の二足歩行する蛙が、近くの廃墟からその醜悪な姿を現した。かなり猫背気味の姿勢ではあるが、確かに二本の脚で立って歩いている。
現実世界では、二足歩行に進化できそうな骨格とは思えない蛙であるが、本物の両生類ではないからこそであろう。
二足歩行になったことで自由になった前脚、というか手――。
そこには、鉈のような形状の巨大な武器が握られている。
特権階級の女性が扱っていた肉切り包丁よりさらに巨大で、しかし刃の部分が欠けて摩耗し、全体的に錆びや汚れに覆われ、鋭さを失った得物であった。
重すぎるのか、引き摺るように持ち運んでいて、まともに使いこなせるようには見えない。身体の大きさに比べれば、腕は貧弱な見掛けである。
膨れ上がった腹の下は、完全に錆びてしまっている鎖帷子、そんな素材でできていると思われる腰巻で覆われている。人間大の敵を相手にした時に守るべき部分が、ちょうど守られていた。悪趣味なことに、腰巻の縁にある鉤爪のようになった金属を、蛙は複数個所で自らの表皮に刺して固定している。
表皮は全体的に白っぽくて、滑りを帯びており、生理的な嫌悪を感じる。
石畳や瓦礫、低木や雑草で覆われた地面は、上ったり下ったりの傾斜となっていて、重心が不安定に見える蛙の化け物にとって、行動しやすい地形ではないはず。
こんな場所にどうして、こんな化け物がいるのだろう。
「うぇっ……」
アズミが小さな呻きを上げる。
横目で様子を窺うと、吐き気を堪えているような表情になっていた。見た目が苦手であったのだろう。男の俺でも鳥肌が立っているくらいだ。仕方ないのかもしれないが、生き死に係わる失態である。苛立たしさを感じてしまうのも、また仕方のないことだと思う。
幸いにして、俺たちの存在は勘付かれていない。
ニオは、じっと暴食蜥蜴と蛙の動向を見張っている。
人間とは感性が違うのだろう。嫌悪感などまるでなく、ただ警戒しているだけといった様子。
蛙と蜥蜴は、お互いの存在を認識し、警戒態勢を取っているようだ。動きを止め、向かい合っている。
運が良いのか、悪いのか。
結果的に発見される寸前の状態から、一時ではあるが脱却できたらしい。
脅威が倍になっただけという結末。そんな可能性も捨てきれないので、油断などは欠片もできない。
唐突に均衡を破り、暴食蜥蜴は大口を開けて二足歩行の蛙に飛び掛かった。二足歩行の蛙は、鈍重な見た目の割には素早く跳び退いて、暴食蜥蜴の噛みつきを躱す。
風圧を感じるほどの近距離で、巨体と巨体の殺し合いが始まってしまった。
冗談じゃない。こんな物騒な争いに巻き込まれたら、命が幾つあっても足りやしない。どこか別の場所で、好きなだけ殺し合っていればいいのに。物の序でに轢き潰されるなんて、さすがに無念でならない。
暴食蜥蜴が廃墟の上に器用に攀じ登り、高所から隙を狙うつもりのようだ。
二足歩行の蛙は暴食蜥蜴の挙動を警戒し、目を離さない。
隙を突くように、ニオがさっ、と中腰のまま倒壊した別の柱の陰に駆け込んだ。
なるほど。
確かに、その進路なら見つからずに距離を取って、しかも目的地に僅かに近付く。
俺はアズミと頷き合うと、決死の覚悟でニオの許に滑り込むように駆け寄った。
巨大な二匹の化け物は、目の前の相手に集中しているようで、俺たちには気を払っていない。
しかし、ここからは足場が悪いうえに、平らに均されていない、それでいて視界の通った石畳の路を進まなければ、目的地には向かえない。
或いは、暴食蜥蜴のように倒壊した廃墟を攀じ登って越えて行くか、大鎧蜘蛛がいるかもしれない廃墟内に逃げ込むか。
どれを選んでも、ほぼ自殺と同義の賭けになる。
「あの蛙は?」
距離ができたので、小声でアズミに問う。
どんなに些細な情報でも、突破口を開く参考になるかもしれない。
「屠殺白蛙。名称しか情報が読み取れない」
「うぅん。そうか」
アズミは心労と疲労で、病人のような窶れを滲ませた表情で、言葉少なに応じてくる。
情報が読み取れない、か。生物知識の性能が予想の通りであるのなら。
つまりは強敵である、と。
参考にならないな。
牛頭の巨人と比較すれば、質量は数十分の一かもしれないが、俺と比べれば数十倍の質量がある。それだけで現状では手に負えないとわかりきっている。
むしろ強敵というより、ただの脅威でしかない。
睨み合っていても埒が明かないとでもいうように、暴食蜥蜴が高所から急襲を掛ける。
確かに速度は乗っているが、正面から突っ込んではまた回避されるだけだ。そう予想していたが、屠殺白蛙は一瞬固まったように動かなかった。集中でも切らしたのか、遅れて体を捩りながら横へ跳躍する。
距離と速度的に回避は間に合わない。
暴食蜥蜴が勝利するかに見えた瞬間、屠殺白蛙が全身の筋肉を撓らせた。巨大な鉈が虚空に円を描き、暴食蜥蜴の頭頂部に振り下ろされる。
切れ味の無い鉄塊は、頭骸骨を砕く音を辺りに撒き散らした。
そのまま地面と鉄塊に挟まれて、暴食蜥蜴の頭は叩き潰される。
勢いよく吹き飛んだ暴食蜥蜴の巨大な目玉が、俺たちの頭上を飛び越えていく。
息が詰まる。
嘘だろ。
肉体的な脅威だけでも厄介なのに、術理まで備わっていやがるのか。
腕だけで振り回せない重さと理解し、技術と全身の力を利用し、巨大な鉈を使いこなしている。
屠殺白蛙はとどめとばかりに、鈍器と化した鉈を暴食蜥蜴の全身に叩き込む。
肉や骨が破壊される鈍い音が、断続的に垂れ流される。
俺にとっては望外の戦力であったアイラ。それを上回る強者である暴食蜥蜴が、今はこうして憐れな骸を晒している。
このゲームは、どこまで俺の心を折りにくるつもりなんだ。
「俺たちに構わず、どこかに行ってくれよ」
あれだけ巨大な御馳走があれば、追加の餌を求めて周囲を嗅ぎまわる必要はないはず。
さっさと成果を持って、塒に戻ってくれ。
唐突に、ふわっとした白いものが廃墟の陰から飛び出してきた。
大型犬よりは小さいだろうか。
頭部に突起のようなものが二つ。
――あれは、兎か。
聴覚に優れるはずの兎が、なぜこんな暴力的な音の響く場所に現れたのだろう。




