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向かいにある、超高層マンションの天辺付近にあるバルコニー。
そこにいる女性が欄干に手を掛けて、風景でも眺めるように佇んでいる。
瑕疵の無い、むしろ気持ち悪いくらいに人間味の感じられない、整った顔立ちの女性。
顔の造形がはっきりわかる距離ではないのに、そう断言できるのは、前に彼女を間近で見ているからだ。
彼女がこちら側に顔を向ける。
視線は合わない。
合うわけがない。
あちらからは、そもそも俺のいる地区は視界に映らないのだ。
彼女にはこの辺り一帯が、幻想的で美しい風景に見えていることだろう。
その虚像である風景に塗り潰された地区に、こんないつ崩壊するか知れたものではない古い超高層の建築物群が存在しているとは、俺もついこの間までは思いもしなかったものだ。
あの地区からこちら側への眺望は、専門家ではない俺にはよくわからない技術で、偽装とは思えないリアルで美しい風景が映されている。
あちらからこちら側が見えないのとは逆に、こちら側からあちら側には、許可がなければ物理的に侵入することができない。
要するに別世界の住人というやつだ。
少し前までは、俺と俺の家族もあちら側の住人だった。
分不相応な生活であったのだろう。あちら側に住んでいる人たちの多くは、生まれ持った遺伝子からして優秀なのだから。
そのなかでも、彼女は特別であった。
俺の一家は、あのコミュニティーの中では浮いていたが、まあ、それでも彼女の影響力の高さくらいは耳にしていた。
などと、美女を視界に捉えて考えごとをしているのは、なにも俺が彼女に懸想しているからというわけではない。
彼女からすれば、俺なんかは同じ種ですらない、という意識であったかもしれない。
少なからず、俺もそれに近い感覚は持っていた。
強いて表現するなら、彼女たちは新種の人類である。俺のような普通の人間とは、いずれどちらかが淘汰されていく間柄といえるほど、相容れない別の種のようなもの。
見た目は若々しいものではあるが、そう見えるだけの可能性が高いというのもある。実年齢は果たして二桁であるのかどうかすら、わかったものではない。
それだけ、別次元なほどに優秀な遺伝子を持った存在である。
目の保養にはなるけれど、気持ちが揺らぐような対象になるはずもない。
何かの間違いで彼女から接触があるとすれば、旧世代の人類をペットとして飼ってみたくなったから、という理由で声をかけてきたに違いない、とでも疑ってしまうだろう。
――いや、だが待て。
受け入れがたいものはあるが、もし受け入れてしまえば、今抱えている問題は、ほぼ解決してしまう。
いやいや、さすがに無いか。
そんな屈辱的な扱いを受け入れたら、人として終わりだ。
しかし、どうだろう……。
恐ろしいことに、悩んだ末に受け入れてしまいかねないな。
人間としての尊厳をかなぐり捨てればいいだけだ。それを捨てたら、死んではいなくても、生きているとも言えないかもしれない。
それでも家族は助かる。
俺も命は無くならない。本当の死は免れられる。
――という現実逃避。
視界の隅に映った彼女の存在に感化されて、冗談混じりに妄想しているだけ。
実際にそんな事態になったら、迷いもせずに断るだろう。俺にも矜持というものはあり、現実にそんな扱いなんてされたら、理性を失ってしまうほどの憤りを憶えることだろう。
ただ、現実とは残酷なもので、思考の中でくらいは逃避したくもなるというものだ。
じつは、今まさに悪夢のような現実が、目の前に突きつけられている最中だったりする。
「とあるゲームに参加して、借金を帳消しにしませんか?」という、逼迫した現実からかけ離れた提案が、より一層、現実感を失わせている。
歴史的価値が付きそうなほど古い、超高層住宅群の百二十階にある賃貸物件。その玄関口を塞ぐように、俺と父は並んで立っていた。
近所の目は気になるが、奥の部屋には弟と妹がいる。二人とも俺とは歳が離れていて、まだ幼い。
健全な精神の育成に悪影響を与えてしまいかねないこんな話を、あの子たちの前ではできない。
「命懸けですか。生存率は……」
そう問う父に対して、
「そうですね。もちろん十中八九、死んでしまうでしょうね」
こんな言葉が出てくるのだから。
スーツに眼鏡という、四十絡みの借金取りの男が現れて、初めにされた話が、借金の返済催促ではなくゲームについての説明だった。
そのゲームでは、探索、依頼、戦闘といった様々な方法でお金を稼げるらしい。その賞金で借金を返済して、元の生活を取り戻してはどうかと言う。
死人と見紛うばかりに血の気の引いた顔で、父は借金取りの男の前で項垂れた。
「そんなのあんまりじゃないですか」
父は苦しげな声を喉から絞り出した。
そのゲームは、男の説明によると、法的、人道的に許されない常軌を逸したものであった。
何ら安全面を考慮していない命懸けの戦闘が行われ、まともに命を奪いにくる罠などのギミックも、当たり前のようにあるという。
「そうは言いますが、返済する宛てが他にあるのですか?」
「しかし私の体では、生きるか死ぬかのゲームなんて、耐えられるはずがない」
高層階にある吹きさらしの通路ゆえに、強い風の音が鳴る。
父の声は、その音に掻き消されそうなほどか細い。
「そうでしょうか。耐えられるかどうか、やってみなければわかりませんよ。どちらにしても、借金を返済できなくても死ぬのですからやるだけやってみては?」
「なにか……。なにか、別の方法はないんですか」
「他の方法となると。まあ、いろいろと仕事を斡旋している業者を、紹介するくらいはできますが」
四十絡みの借金取りは、眼鏡に指を添えながら冷たい笑みを浮かべた。
「それはどんな……」
「そうですね。捕まっても死刑になるほど重い罪には問われない程度の仕事が、ほとんどだと思いますよ。私どもは、あくまで斡旋業者を紹介するだけなので、斡旋先の詳細までは知りませんが」
「そんな」
「そんな仕事を、おそらく死ぬまでやって貰わないと。なにせ額が額ですからね」
借金取りは、父の反論を断ち切るように言葉を重ねる。
それから彼の視線が父から俺へと移動する。父が死んだら、次はお前の番だとでも言いたげであった。
「……」
口を開いたまま、父は言葉を詰まらせた。寒い季節でもないのに白んだ手の甲が小刻みに震えている。
「強制はしません。しかし私ができる提案の中で、唯一まともな生活に戻れる可能性があるのは、ゲームへの参加だけですよ」
「……」
「ゲームに参加したとして、三百億円稼げなかった場合はどうなるんですか?」
仕方なく、凍りついてしまった父に代わって問い掛けた。俺も平然とした態度を装ってはいるが、膝の震えを隠すのにさえ苦労している。
「参加した段階で借金の心配はしなくてもよくなりますよ。なにせ――」
話しながら注目を集めるように右手の人差し指を立てる。
「借金が返済できなかった場合は、ゲームの主催者に提供することになるのですからね」
男は表情を消して言った。
「どう扱っても問題のない人体として」
◇
もっとも、そもそもゲーム終了まで生きていればの話ですが、そんな笑えないオチをつけて借金取りの男は話を終えた。
向かいの超高層マンションに見えていた女性は、もう見えなくなってしまっていた。
いや、もう現実逃避をしている場合ではないか。
質問を快く受け付けてくれそうな雰囲気ではないが。
「戦闘というと、人間同士でやる羽目になったりするんですかね?」
その点はさすがに気になったので、訊かずにはいられなかった。
「人間同士でもやれますが、必ずしもしなければならないわけではありませんね」
「そうですか」
忌まわしい臭いしかしない言い回しだな。
さらなる説明もなさそうなので、どうするべきなのか父と話し合うしかなくなった。
俺たちが相談する間、借金取りの男は黙って待っていた。
結局、ごね続ける父に代わって、ゲームには俺が参加することになった。
父の興した会社の経営は順調で、それゆえに事業を拡大した直後、父は病気になって働けなくなった。現在では病気は落ち着いて退院はしたものの、同時期に、複数の従業員がなにかしらの病気で働けなくなるという事態に襲われ、会社はあえなく潰れてしまい、三百億円もの借金が残ったのだ。
本来は遺伝子的に、使われる側である父が成功していることを許せない人間の犯行、もしくはライバル企業のバイオテロであろうが、真相は現在もわかっていない。
一応、有り得ないほどの不運が、たまたま重なった可能性もゼロではない。
闘病生活を経た父は、体力も気力も尽きた、抜け殻のような状態になってしまっている。命懸けのゲームで、借金を完済できる額を稼げるわけがない。まともな日常に回帰するには、他に選択肢はなかった。
借金取りにしても参加者の都合がつけば、誰が参加しようと文句はないらしい。
「命を掛けて親の尻拭いをするなんて、立派な御子息ではないですか」
などと、余計な一言は加えていたが。
「それで。もし借金が完済できなかったら、私はどうなるのですか。助かるのですか、まさか助からないのですか」
父はそう言って借金取りに縋りついて訴えたが、主催者がそれで納得するとは思えない、とのことだった。
「命懸けのゲームで、命懸けでお金を稼ぐからこそ、なんですよね。御子息がお金を稼げなくても、あなたが助かり、借金もなくなるという条件は受け入れられません。一蓮托生ですね。彼に頑張って頂くしかありません」
「なんで、そんな」
そう嘆いている父には何も期待してはいけないな。そして、どうしようもなく、腐った連中の絡んだゲームのようだ。
「はあ。碌でもねえな」
非合法の賭けの対象とか、見世物としてとか、そんな非人道的な娯楽の提供あたりだろうか。
幸い俺自身は現状健康で、運動も得意である。その程度でどうにかなるかは甚だ疑問だが。
確かに、どうして死のリスクを負ってまで、親の尻拭いなんてと理不尽に感じる気持ちはある。
しかし、自分本位な父であっても、死んでしまったり、失敗してどう扱われるか知れないような人体として提供される結果になんてなったら、俺は一生消えない闇を心に抱えたまま、生きていかなければならなくなる。一度しかない人生がそんな人生だなんて、あまりに虚しい。
――という、自分自身を騙す表向きな動機。
目を背けたい本音の部分では、一辺、父にはもう死んでこいよ、とすら考えずにはいられない、穢れた気持ちを抱えているのを自覚していた。
しかも、父がしくじれば、結局は俺が肩代わりをするしかなくなるのは目に見えている。
そして父が、ゲームで借金を完済できるはずがないのも目に見えている。
ここで自分の、暗い気持ちを優先しても、まともな生活に戻れる時間が長引くだけでしかない。
それならはじめから俺が、ゲームに参加してしまうほうが手っ取り早い。
なにより父に任せて借金を返済できなかった場合に、弟と妹にまで類が及ぶような結果になってしまうかもしれない、という不安があった。
社会の裏で生きている連中が出してきている条件だ。鵜呑みにするのは危険でしかない。
心配なさそうなのは、結婚して他家に嫁いだ姉貴くらいか。
いや、それすら確としたことはわからない。
一切の不安を取り除くためには、なんとしてでも借金を返さなければ。
◇
その日のうちに、俺は目的地も告げられずに連行されていった。生活に必要なものは現地で手に入ると言われて、着の身着のままである。
弟と妹に軽く別れの挨拶をしただけで、事情の説明などはあらゆる意味で出来なかった。
車に乗せられた後、すぐにアイマスクで目隠しをさせられた。
何度か浅い睡眠も挟んだために、昼夜の判別もつかない状態で、長時間の移動に黙って耐えるしかなかった。
途中で船に乗り換えた後も目隠しは外されなかった。一般人相手に対する警戒にしては度を超えている。
食事はパンとジュースを与えられ、それも目隠しされたままで摂取させられた。
排泄時に関しては思い出したくもない。
もはや、産業動物も同然の扱いだ。
どう考えても非合法ではあるが、日常に回帰できる可能性を提案してくれた点については、前向きに考えるために、どうにか絞り出すような心持ながら彼に感謝していた。
しかし、それも現状の扱いが酷過ぎて、塵ほどにも残らず消え失せた。
◇
船から降りると頬をなでる潮風を感じた。
「真っ直ぐに歩いてください」
丁寧な命令口調に促されて、ゆっくり前に進む。
あまり歩かないうちに、足音が反響するようになった。
「さて、ここが目的地です」
借金取りの男の手によってアイマスクを外される。目の奥に痛みを覚えるような白い光が射す。
しばらくすると明りに目が慣れて、周りの様子がわかるようになった。
重苦しい金属音に背後を振り返ると、金属の扉がちょうど閉ざされたところだった。いつの間にか屋内に入っていたようだ。
コンクリート打ちっぱなしの壁に囲まれた、奥に長い空間である。奥行き二十五メートル程度。幅と高さは七、八メートル程だろうか。天井には裸の電球がいくつかぶら下がっていた。レトロな映画なんかに出てくる、照明道具である。そういう時代の雰囲気を出す内装にでもしているのだろう。
気分の問題なのだろうが、なんとなく首吊り処刑場が連想させられる光景だった。
「ここはとある島にある、とある施設です。場所などの詳細は知る必要はありません」
「知りたいとも思いませんよ」
鬱憤が溜まっていた為、吐き捨てるような口調になった。
借金取りの男は気にした様子もなく歩き出す。
向かい側の壁にも扉があり、どうやらその先に進むようだった。歩くと、足音がコツコツと反響する。
扉の奥は、こちらもコンクリート打ちっぱなしの壁で囲まれた廊下になっていた。スクリーンやモニターなどで映像を流していた時代の、SF映画で見られるような配管状の物が天井を這っていたり、用途不明の配電盤のような物が壁に設置されていたりと異様で、生活感など欠片もない。
廊下の突き当たりにエレベーターがあり、そこから地下に降りていく。それなりに長い時間乗って、降りた先はドーム状の空間になっていた。
「彼らも、ゲームの参加者なんですか?」
中は人いきれで満ちていた。老若男女問わずさまざまな人が、少なくとも二、三百人はいるのではないだろうか。
「そうですね。それほど集合予定時間まで間がないので、この施設からの参加者は大体これくらいで、増えてもあと数人でしょう」
「この施設からのと言うと、他にも参加者が?」
「ええ、他の施設も合わせると三千人を超えます」
無表情ながら、借金取りの男は律義に質問に答える。俺たちの会話が気になったのか、両手の指では足りない数の視線が集まった。
「それではこの場で待っていてください。私はこれで失礼します」
「わかりました。どうもお世話になりましたね」
皮肉を籠めて礼を言っておく。
冷やかな笑みを残して借金取りの男はエレベーターへと踵を返し、この場を去って行った。
説明不足にも程があるが文句は言えない。
待てと言われたら、おとなしく待つしかない立場だ。




