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「老師、どうしてアミさ…アミを逃がしたんですか?」老師と同行している弟子の一人が堪りかねて尋ねた。ショウとカケルの兄弟子にあたる。といってもこの子もまだ少年だ。
これはアミさんを捕まえる為の遠征だったはずなのに…。
「考えがあっての事だ」老師はそう答えた。
「でも…シンさんは?」
「本家に戻られている。心配するな」本当に戻っているかもしれないが、どうでも良い。どうせ飾り物の長。何も出来ないただの子供。今どこでどうして居ようがどうでも良い。
「ショウとカケルはどこへ行ったんですか?」ずっと我慢していた分、聞きたい事は山ほどあった。
「あの二人も本家へ戻らせた」アミと一緒にいるのだろうか。ショウのピアス…盗聴器…アミの泣き言一つでも聞けはしまいかと思ったが。それももうどうでも良い。
「僕も…本家へ帰りたい。帰らせてください」
「甘えた事を言うな」
「でも、あいつらと一緒にいるのはもう嫌です。老師、どうしてあんな奴らを…」
「おまえは私の言うとおりにしていればそれで良い。」
「…はい」
アミはあれ以来見かけなくなった。あの怪我は深く入っただろう。当分動けないか。しかし、何故アミはあの娘を庇った?あの娘…水の娘、私の動きが見えないようだ。そんな娘をアミは何故庇った?あの、人に対して情の欠片も持ち合わせていないアミが何故。一体、何の得があると…。それにしても、マスコミはまだこの集団の事を大きく取り上げないのか。いつになったら警察は本気で動く。いつになったら火の本家にたどり着く。軽犯罪程度の事ではダメなのか。やはりあの時、水の娘を殺しておけば良かったか…。
「ワンワンワン!」散歩中の犬が黒い集団に向かって吠えた。飼い主は大慌てで向こうへ犬をひっぱって行く。
フッ。犬から見てもあやしい集団らしいのに。あの犬、竜王丸に良く似ているな。
竜王丸…賢い犬だ。あんなに懐いていたのに私が裏切りを心に抱いた頃からピタリと懐かなくなった。大した忠誠心だ。もっとも昔の私も負けない位の忠誠心を持っていたが。
…どこが、何が、始まりだっただろう…。
もう覚えていない。これといったきっかけがあったようにも思わない。気が付けば、私は火の本家への不満の心でいっぱいになっていた。私の中は不満の心だけになっていた。
水も同じだ…火の長の代理を果たすようになった私の、冥途の土産に一度手合わせ願えないかと言う申し出を、水の長、あの男は断った。火と水は干渉してはならない掟だ。火と水、お互いの事を知っても許されるのは、長同士だけだとそう言って。長が病気がちになってから火を切り盛りしていたのは、全てを仕切っていたのは私だ。火が生き残る道を見つけたのも私だ。火の長は何もしていない。ただ臥せっていただけだ。臥せって愚痴を漏らしていただけだ。それなのに、その私の申し出を断るのか!代理は代理に過ぎないとそう言う事か。私など認めないと・・・水の長、おまえもなのか。
火は水に敵わないだと?誰が言った?水は簡単に潰せた。
火の本家、あの家で私に感謝の言葉を言ってくれたのは、知恵子さんだけだった。知恵子ちゃん、小さい頃からずっと見てきた。本当に良い子だった。
知恵子さんの結婚は強制的な物だ。内弟子の中で、一番強い者が火の一人娘の結婚相手に選ばれた。私から見れば弟弟子だったあの男が選ばれた。だが、弟弟子であろうが、長になったからにはと、ずっと忠誠心を持って尽くしてきた。そんな私に、知恵子さんは『いつも有難う』『よろしく頼みます』と常に感謝とねぎらいの言葉をかけてくれた。私はそれで満足だった。それだけで満足だった。一生火に尽くして行く。そう思っていた。
知恵子さんが死んでからは、あの家で私に感謝する者は誰一人居なかった。皆、私は火に尽くして当然と思っていた。そうするのが当たり前と。それでも私は待っていた。蜘蛛の糸ほどの細い期待しか持ってはいなかったが、待っていた。最期まで。ヤツが死に絶えるその瞬間まで。ヤツの…火の長の口からほんの一言でも感謝と詫びの言葉が出るのを。
無駄な期待だった。
・・・糸がプツリと切れた。
こんな事ならもっと早くに火を壊してやれば良かった。ヤツが生きている間に火が壊れて行く様を見せ付けてやれば良かった!壊さないでくれと懇願させてやれば良かった。
いつの間にか、いつからか、どこにも向ける事の出来ない粘りを帯びたドロドロとしたどす黒いものが私の中で渦巻いていた。私は一体これをどうすれば良い?…火を潰すしか無い。それでも、それでもまだ躊躇いがあった。水を焼いて、もうとうの昔に堕ちる所まで堕ちているはずなのに躊躇した。私が育った火の本家、一生かけて大事にしてきた火の本家、目をかけて育てて来た弟子達…知恵子さんの子供達…。
レツ、新しい長になったレツ。父親と同じ態度を取った。私が何もかもやって当然。と。『頼みます』の一言もなく。父親の葬儀を仕切ってやったのもこの私だ。それなのに、レツは本家の細かい事に色々口出しし始めた。今まで私がやって来た事、本家の為にやってきた事を、色々と否定もした。もう昔とは違う。これからは自分がやると言い出した。まだ二十歳を過ぎたばかりの若造に何がわかる。一体何ができる。言い争いになった。レツはすぐに熱くなる。それも父親譲りだ。『長は私だ。黙れ老いぼれ!』憤慨してそう言い放ち、手元にあった物を床に投げつけたヤツは、怒りで頭に血が上った状態のまま庭先まで駆け下り、一人で勝手に足を滑らせ頭を打って…死んだ。あれはただの事故だ。助け起こす手を差し出しはしなかったが。どの道無駄だっただろう。
すぐさま竜王丸がやってきて吠えた。本当にすばらしい番犬だ。その鳴き声でアミが駆けつけて来て…アミは勝手に誤解した。私がレツを殺したと。そして父親そっくりの顔付きで私を睨みつけた。
もう良い。アミが長になった所で同じだ。あれが一番父親に似ている。アミが以前から私に警戒心を抱いているのもわかっていた。アミは私の裏切りの心に気が付いていた本家でただ一人の人間だったのかもしれん。
あの娘、小さい頃は知恵子さんに良く似ていたのに、いつの間にか顔つきも口調も態度も全て父親に似てきて、良く似た表情を見せるようになった。いや、そっくりだ。
アミに思い知らさせてやる。火を潰すのも生かすのも私次第だという事を。火が壊れて行く様を見せ付けてやる。火を潰さないでと土下座でもして謝るなら考えてやらない事もない。だが、そんな事はあの娘…父親そっくりのあの娘は天地がひっくりかえっても決してしないだろうがな。
火の本家では、今火の流派に起こっている事が全部嘘であるかのような、穏やかな楽しい日々が続いていた。こんな日がずっと続けば良いのに。このまま過ごしていければ良いのに。みんなそう思っていた。でも、そうは行かない事もみんなわかっていた。
「私の怪我も良い感じに治ってきたし…」
アミのその言葉に、空気がピンと張り詰めた。
「老師と話しをしてみようと思う。話し合いで済むのかどうかはわからないけど。」
その場に居た全員がアミのその言葉に安堵した。とりあえずの安堵。
「安心したぜ。倒すとかって物騒な言葉が消えて」コウはニッと笑って見せた。
「拓未、老師にここへ戻るように伝えてくれる?私が話しがしたいと言ってるって」
「はい」拓未は頷いた。
「セナ、拓未の動き、見えるようになった?」
「ううん…まだ」セナは首を横に振って少し目を伏せた。
「まだですけど、セナさん、かなり上達してますよ。」拓未がアミに言った。
「そう。…老師がここへ戻ったらショウとカケルはコウの家へ行ってて。コウ、良いでしょ?」
「俺は良いけど」コウはそう言って、カケルとショウを見た。こいつら言う事聞くのか?
ショウとカケルはお互い顔を見合わせた。
「セナもここに居ない方が良い。一旦帰る?」
「私は、アミと一緒にいる。ここに居る。」足手まといでも何でも構わない。
「俺もここに居ます」「僕も居ます」ショウとカケルも異口同音に口を開いた。
「水を潰した理由を聞きたい。」セナは厳しい顔つきでそう言った。
セナ…止められるもんじゃなさそう。アミは諦めた。
「水を潰したって…どういう事…」その事については何も聞いていなかった拓未はセナの言葉に驚きを隠せなかった。
拓未は少し探しただけで、黒装束の集団をすぐにみつける事が出来た。
「老師」拓未は一礼した。
「拓未。何をしに来た?」
「老師、本家に戻って下さい。本家にはもう私しか残っていません」
「本家はおまえ一人か」老師は顔色一つ変えずにそう言った。
「もうやめて下さい。老師、私はずっと老師を尊敬して来ました。私だけじゃない、みんなそうです。なのに、こんな事…こんな火を潰すような事、もうやめて下さい。お願します。」そう言うと、拓未はきっちりと頭を下げた。
「おまえが頭を下げても何にもならん」老師はフッと鼻をならした。
「老師…」拓未は顔をあげた。狂ってしまったと思いたい。拓未は拳を強く握り締め、奥歯をかみ締めた。「本家に戻って下さい。アミ…アミさんと話をして下さい」
「アミは本家に戻っていたのか…しかし、あのすぐ熱くなる娘と話しなど出来るのか?」老師はニヤリと笑った。
「アミ、どこで話しするの?」セナが手に何か持ってアミに聞いた。
「応接室。」アミは鼻をクンとさせた。「それ何?お香?」
「うん。お母さんが良く…大事なお客さんが来る時は、お香を焚いておくと落ち着いて話ができるって。上手く行くんだって言ってたから」
「ふーん。」
「置いて良い?」
「うん。良い香りね。」アミは少し口の端をあげた。
「ショウ君とカケル君は?」
「離れに行かせた。母屋の方へは来ないように言っといた。コウに一緒に居てこっちに来させないようにしてって頼んでおいたけど、どうかな」
「シン君は部屋?」
「うん。シンには言ってない。言えなくて…」アミは少し溜息を漏らした。
「アミ、話って…どうするつもり?」
「どうなるかわからないけど、まずは、老師がどういうつもりなのか聞いてみる。火を…ここを元にもどしたい。戻してみせる。そのためには、老師をこのまま放っておくわけにはいかない。」アミは信念に満ちた目でそう言った。
拓未は老師一人を連れて戻ってきた。
応接室へ。アミ、セナ、拓未、老師。四人が腰掛ける。
「アミ、怪我はどうだ?治ったのか?」老師が目の前に座るアミに向かって口を開いた。
「ええ」アミは老師を見て言った。冷静にと思いつつも目つきはきつくなっている。
「もう弟子は残っていないか。火はもう終わりか?」老師は口元に笑みを浮かべた。
「どうして…そんな」アミの顔に悔しさが見て取れる。
「どうして?どうしてだろうな。私にもわからん。ただ、ここに渦巻いてる物が」老師は自分の胸の辺りに手をやった。
「ドロドロとどす黒く行き場を無くして渦巻いている…今もどんどん大きくなって…それがそうさせる」呟くようにそう言った老師の顔には、狂気のような物が感じられた。
その老師の様子に、拓未とセナは背筋が凍りつくような悪寒を感じた。
「火を潰すも生かすも私次第だ。良くわかっただろう?火を元に戻して欲しいか?」
アミは老師を睨んだまま何も言わなかった。
「アミ、おまえが土下座して頼むなら、考えてやらない事もない」老師はニヤリとした。
「…嫌よ。兄さんを殺したヤツに土下座なんて出来るわけがない!」セナには老師を睨みつけるアミの目が鋭く光ったように見えた。本家に戻ってから、ここしばらくアミのこんな顔を見る事はなかったのに。
やっぱり父親に良く似ているな。老師は自分を睨みつけるアミの顔を見てそう思った。
「あれは事故だ。おまえの兄が勝手に足を滑らせただけの事。勝手に一人で頭を打って死んだ。いくらそう言った所でおまえは信じないだろうがな」老師はフッと鼻を鳴らした。
アミは怒りに顔をしかめた。膝の上に置いている手を強く握りしめている。
そのアミの様子を見て、隣に座って居たセナは、テーブルの下でそっと手を伸ばし、アミの手に手を重ねた。落ち着いて、アミ。落ち着いて。そう願いながら。
セナ…。セナの手の温もりを感じてアミは自分に言い聞かせた。そう。冷静に…。
「水を潰したのは何故?」セナが口を開いた。
老師がセナに目をやる。「水の娘か。何故私が潰したと気づいた?」
セナは老師に見られて、背筋が更に凍りつくような思いがした。
アミはハッとしてセナの顔を横目で見る。重ねられているセナの手が震えていた。表情は冷静に見えるけど、怖いんだ。アミは重ねられていたセナの手をギュッと握った。セナ、大丈夫。私が居る。そう強く心の中で唱えながら。
アミ…アミが付いていてくれる。アミ、有難う。セナの手の震えが止まった。
「水の長、あの男は一度手合わせをと願う私の申し出を断った。」老師はセナの答えなど要らないようだった。「水と火は干渉してはならぬ、それが許されるのは長同士だけ。そういう掟だと…何故そんな掟があるのか?その問いにお前の父親は答えられなかったぞ」老師は嘲るような表情をセナに向けた。
「フッ、お前の父親もだ」そう言ってアミに視線を移す。
「長すらも…もう誰一人、その存在理由を知る者の居ない掟が大事だと?火のために尽くしているこの私よりも大事だと言うのか!ふざけるな!」老師はカッと目を見開き声を荒げていた。「水の長、ヤツも同じ。火の長と同じだ!私など認めない。そういう事だ」
そんな、そんな理由で?水を焼いたの?
これは、もう私の知っている老師ではない。狂っている。拓未はそう思った。
「火が水に敵わないなどと、誰が言った?その根拠ももう誰も知らぬ。水は簡単に潰れた。お前もだ」老師は不気味な笑みを浮かべてセナを見た。
セナの顔に恐怖の色が浮かんだ。
「アミ、あの時、何故助けた?水の娘だから私を倒せるかもしれないと、そんな馬鹿げた事でも思ったか?」
「別に。そんな事は思ってない。…そんな理由で水を潰したなんて、理解できない」アミは老師を睨みつけた。「火も潰すつもり…」
「そうだ。…しかし、まだ間に合うな。火が潰れるかどうかは、お前次第だ。」老師は狂気に満ちた顔つきでアミを見つめた。
「…土下座なんてしない。絶対に。」アミは唇を噛み締め、更に鋭い目付きで老師を睨みつけた。
老師は自分の胸元で拳を握りしめた。だめだ、どんどん大きくなる。黒いドロドロ…。
老師が突然立ち上がった。アミ達も素早く立ち上がる。
やはり話し合いでは済まなかった。封を切ったのは、アミではなく老師の方だったが。
アミに土下座して謝らせる。父親の分も全てアミに謝らせる。もうドロドロに飲み込まれそうだ!
「アミ、謝れ。手をついて謝れ!」老師は逆上して叫んだ。
「一体、何を謝るの?」アミはそう言うとフッと鼻をならした。アミは構えの体勢のまま刺すような目つきでずっと老師を睨んでいる。
「ぐぁぁ!」老師は言葉になららないうなり声をあげて、セナを捕らえようとした。
セナは老師をかわした。
何?見えるのか?老師は驚いた表情でセナを見た。
見えた。「拓未さんより、遅い?」セナはそう呟いた。
拓未より遅いなら、きっと私でも充分…やれる!アミは突然老師に攻撃をしかけた。
狭い部屋の中で老師とアミが絡み合う。棚の上や、机の上に置いてあった物が飛び散った。コップや花瓶の割れる音が鳴り響く。落ち着いて話が出来るようにとセナが置いたお香も飛んでいった。下手に手が出せるものではない。
アミの方が優勢なのは拓未にもセナにもわかった。
アミ、いつの間にこんなに力をつけた…いや、私が衰えたのか?
貰った!これでとどめ!アミの鋭い目が鈍く光った。
アミにやられるだと?!この小娘に?!
「アミ、やめて!」セナは突然アミを後ろから抱きしめた。
「セナ?馬鹿、放して!」セナに動きを抑えられてアミが叫ぶ。
「いや」アミが人殺しになるなんて嫌。させたくない。セナの腕に力がこもる。
「あっ」
「何をやっている?」老師はニヤリと片方の口の端をあげた。
老師はセナの首に片腕をまわし締めつけ、窓ぎわに構えていた。セナは苦しそうな表情を浮かべている。拓未とアミが老師の方へ駆け寄ろうとする。
「寄るな!動けば一気にこの娘の首をへし折るぞ」
アミも拓未もその場で固まった。
セナは首元の老師の腕に両手をかけているが、セナの力ではぴくりとも動かない。
突然カーテンにボッと火がついた。先ほど飛んでいったお香から火が移ったのだ。
老師の顔半分が炎に照らされて赤く染まって見える。
丁度良い。火の本家、火で燃えて無くなってしまえ!水と同じ様に焼けてしまえ!老師は片頬に炎の熱を感じながら心の中で叫んだ。
「アミ、いつからそんなに甘くなった?」アミが動かないのを見て老師が言った。
「アミ、お前の土下座が見たい。どうする?父親の分も全部おまえが謝れ!」老師はセナの首にまわした腕に更に力を込めた。
「うぅ…」アミ、ごめん。やらなくていい。そう言いたいのに、声が出せない。苦しい。
セナがいくらもがいても老師の腕は緩みもしない。
「老師、やめてください!」拓未が叫ぶ。
アミは拳を握り締め老師を睨みつけながら、片膝をつこうとした。
アミ、やめて!やらなくていい!やめて!セナは心の中で叫び続けていた。
「老じい」その声にアミと拓未が振り向くと、戸口にシンが居た。騒ぎを聞きつけてやってきたのだ。
「シン君、どうして」拓未は老師の方へ行こうとするシンを止めた。
「老じい。こんな事しないで。セナさんを放して」シンは拓未に両腕をつかまれて押さえられながら泣きそうな顔で老師に向かって訴えた。
「僕…老じいの事信じてる。だって老じいは強くて優しくて…」
まだ信じているだと?馬鹿な子供だ。老師はシンに冷たい目を向けた。
「老じいは僕に稽古つけてくれたんだ」シンは泣き出していた。
「僕、ホントに嬉しかった。今でも覚えてる。だから…」シンは泣きながらも必死に訴えた。そして、涙でぐしゃぐしゃになった顔で老師を見つめて言った。
「ありがとう…老じい、ありがとう」
・・・ぽんっ
老師の中で何かが音をたててはじけた。
セナの首を締め付けていた老師の腕から力が抜けた。自由になったセナはアミの方へ駆け寄る。セナもアミも拓未も、老師に何が起こったのかわからなかった。勿論シンも。
一体何が?みんなが老師を見つめる。
老師はただ立ち尽くしていた。
『ありがとう』この一言で、この一言で良かったのか…?
老師は胸元に手をやり、解き放たれたような表情を浮かべた。あの黒いドロドロ…黒いドロドロが…消えて…無くなった。私が欲しかったのは謝罪では無く感謝だったのか…。
その時、炎が壁や天井に沿って大きく広がった。
「だめだ、火がまわる!」拓未が叫んだ。
老師は炎に飲まれそうになっている。
「老じい!」シンは泣きながら老師に向かって叫んだ。
「…ありがとう」老師はシンを見てそう呟やいた。
「アミちゃん、セナさん、逃げて!早く!」拓未はアミ達に向かってそう叫ぶと、老師の方へ行こうとするシンを抱えるようにして部屋を出、外へと向かった。
「老師…老師!」アミはそう叫びながら老師の方へ手を差し出した。
知恵子ちゃん。老師には手を差し出すアミの顔がアミの母親と重なって見えた。
煙と炎の中、アミには老師が微笑んだように見えた。
「アミ、だめ。早く!」セナがアミを強引に部屋から連れ出す。
既に廊下にも煙が充満していた。
煙で前が見えない。目が開けられない…。
話し合いはどうなってるだろう。コウとショウとカケルは、離れの一室に居た。同じ部屋に居ながら無言で、それぞれが同じ事を思っていた。
カケルが竜王丸の吠える声に気づいて窓の外に目をやる。
「母屋が燃えてる!」カケルが驚いて叫んだ。
三人は慌てて外へ飛び出した。
表へ回ると玄関から大量の煙が流れ出て来ていた。とても中へは入れそうにない。
「セナさん達は…?」ショウが呟いた。周りを見るが、外に姿は見当たらない。
「ウワンッ!ワンワン!」玄関脇の柵の扉の向こうで竜王丸が物凄い勢いで吠えていた。
竜王丸…早く出してあげなくちゃ。カケルが慌てて柵の扉を開けると、竜王丸は飛び出して止める間も無く煙の出ている玄関の中へ飛び込んで行った。
「竜王丸!」
その時、シンを抱えるようにして拓未が出てきた。
シンを外へ連れ出すと拓未は後ろを振り返った。
アミちゃん…出てこない。
拓未はもう一度中へ戻ろうとする。
「お師匠、無理だ!」コウが拓未を止める。
火が勢いを増す。
「ダメだ!離れないと危ない…お師匠!」コウは拓未を羽交い絞めにして後ろへ引きずった。
「アミちゃん!セナさん!」
どこが燃えてるの?どっちへ行けば良い?どこなら外へ出られる?
アミとセナは煙に視界を奪われ迷路に迷い込んだような感覚になってしまっていた。通路にうずくまるような姿勢で、身動きが取れなくなっていた。
嘘でしょ…慣れ親しんだ家のはずなのに方向がわからなくなるなんて…
アミにすらどちらへ行けば良いのか判断ができない。
「アミ…どっち?」セナはアミの腕にしがみついていた。
『ワンワンワン!』遠くで竜王丸が吠えている声がアミには聞こえた。
「竜の声…」アミがそう呟いた。
「え?」セナには炎の音と木のきしむ音しか聞こえない。
「竜!」アミは叫んだ。
竜の声がする方へ行く。竜、吠えて。お願い!アミは心の中で強く願った。
突然、アミの手に何かやわらかい毛の感触のものが当たった。それはアミがとても良く知っている手触り。
「竜…」