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もう五年になるのか…。こっちへ出て来ても、結局私は何も変わってない気がする…。そんな事を考えながらセナは歩いていた。肩には大きめのカバンを提げている。まだ七月だったが、梅雨も早くに明けて、既に真夏並の暑い日が続いていた。セナは今年大学に入ったばかり。大学生になって初めての夏休みを迎え、田舎へ帰るため駅へ向かっている所だった。身長は高くも低くもなく、太っても痩せてもいないが、華奢な印象を受ける、どこか少し寂し気な大人しそうな雰囲気の女の子で、大学でも目立たない存在だった。
セナの歩いている歩道の左手は、高い壁で仕切られてはいたが、わりと広い公園で、比較的大きな木が多くあり蝉の声が鳴り響いていた。まだ数ヶ月ではあるが大学へ通うのに歩き慣れた道だった。真昼間の暑い時間帯の所為もあってか人通りはほとんど無い。
セナは歩きながら、右手の細い路地の方へ目をやった。
あっ、咲いてる。
セナの視線の先、路地の角に真っ直ぐ太陽を向いてひまわりの花が咲いているのが見えた。セナはすぐに目線を落とした。
ついこないだはつぼみだったのに…あそこにひまわりがあるのがわかってたのに、どうして見ちゃったんだろう…。
セナはひまわりの花を見るのが好きではなかった。
セナが伏せ目がちな視線を前に戻して顔をあげると、脇から突然、揃いの黒い服を着た10名程の男達の集団が現れた。
え…何?この集団…しかもこの暑いのに黒づくめって…。セナは目を合わせないようにして、この一見して異様な集団の横をすり抜けて行こうとした。暑苦しい黒装束の男の一人がセナの腕をつかんだ。すんなり通してはくれないらしい。「おい」見るからにガラの悪そうな大柄の男はセナの腕をつかんだまま、にやけた顔で言う。「こっちこいよ」
コウは地図片手に汗だくになりながら自転車を走らせていた。自転車には大きめの荷物が積んである。コウも大学生。『夏休み自転車で一人旅』を企画して実行に移した第一日目だった。筋肉質の締まった体つき。見るからに体育会系の雰囲気のこの男、突然前方に現れた黒装束の集団にギョッとして、一瞬自転車をグラつかせた。
!?なんだあいつら?
「手を放して」セナは落ち着いていた。普通に考えれば冷静でいられるシュチュエーションではないはずなのだが。
男はニヤッとすると、そのままセナをグイと自分の方へ引き寄せようとした。
「おい、やめろ!」一瞬でまずい空気を感じ取ったコウはそう叫びつつ自転車のスピードをあげて集団の方へ突進し、自転車ごとセナと男の間へ割って入った。が、勢い余って横転してしまった。コウの行動で男の手から逃れたセナは、セナを捕らえようとする男達を、流れるような素早い動きで上手くかわしている。
な、なんだあいつ…倒れた自転車から抜け出し、体を起こしながら、セナの流れるような動きを目の当たりにして、コウは何が起こっているのか理解できなかった。が、考えてる暇はなかった。黒づくめの男達がコウへも向かって来たのだ。
老師。黒装束の皆からそう呼ばれる落ち着いた雰囲気の白髪まじりの初老の男は、このあやしい集団から少し離れた場所でセナの動きに注目していた。
ほお。面白い。あの動き、あの娘、もしかして…
アミは黒装束集団を探していた。はっきりくっきりとした顔立ちのこの少女。クリッとして大きくはあるがキツイ目つきをしていて、見るからに気が強そうだ。下手に触ると切れそうとでも形容できそうなそんな鋭い雰囲気すらも感じさせる。歳も身長もセナとそう変わらないし、そんなにがっしりとした印象は受けないが、良く見るとかなり筋肉質だ。
…居た!アミは黒い集団を見つけると鋭い目付きで集団を睨み付けつつ、まっすぐに向かって行った。
老師は走り進んでくるアミの姿をみつけると、ニヤリとしてセナに向かった。
えっ!?セナは突然老師に捕らえられていた。本当に突然。老師が傍へ近づいた事にすら気付けなかった。しまったと思った時にはもうアミの方へ押し出されていた。
アミは自分へ向かってきたセナに反射的に攻撃をしかけ、セナは何を考える暇もなく応戦する形となった。お互い素手だが、アミの手が出す攻撃は当たればかなりのダメージを受けるに違いない鋭さがあった。セナは攻撃する事もガードする事もなく、流れるような動きでアミの攻撃を上手くかわし続けている。二人とも、並外れたスピードだ。
この子何?速い。誰?
セナとアミは同じ事を思いつつ戦っていた。
何なのこの動きは…ひょいひょいと避けて…アミはセナの動きに次第にイライラして来た。「いい加減にして!」耐えかねてアミが叫んだ。
「こっちのセリフよ!一体何なの!しつこい!」セナもつられて叫んでいた。
え?アミが動きを止めた。
セナも止まった。
「あんた、あいつらの仲間じゃないの?」アミがいぶかしげに言った。
「そっちこそ」セナが荒い息で答える。
「じゃあなんで私に向かってきたのよ!」アミがイライラとした感情をむき出しに叫ぶ。
「それは…あの白髪まじりの…」
セナのその言葉だけで、アミが事を悟るには充分だった。「老師…」アミは口惜しそうにつぶやいて、唇をかみ締めた。この子、黒い服なんて着てないのに…。馬鹿だ私。どうして気付かなかったんだろう…。
二人はやりあっているうちに、黒い集団からすっかり離れてしまっていた。
「あいつら、なんなの?私を捕まえてどうするつもりだったの?」セナは汗を手の甲で拭いながらアミに尋ねた。この子は何か知ってると直感したのだ。
「さ。女に飢えてたんでしょ」アミは吐き捨てるように言う。
「え…あ、荷物放り出して来ちゃった…」セナは自分が手ぶらになっている事に気付いて呟いた。
「荷物?」
「へ?あぁ、田舎へ帰る所だったから、色々入ってる…」あるかな…。セナはまだ息が荒かったが戻ろうと走りだした。アミも後ろから付いて来る。
え?セナは走るのを止めて不信な目つきでアミをチラッと見た。
「さっきの所へ戻るんでしょ?私も用事があるの」最後まで言い終えないうちに、アミはセナの前へ出て走りだした。セナは慌ててアミの後に続いた。
セナとアミが戻ると黒い集団は影も形もなくなっていて、塊が3つ転がっていた。セナの荷物と、コウの自転車と、コウ。
さっきの…助けようとしてくれた人だ。セナは慌ててコウの傍へ走りよった。
「あの…大丈夫?」セナは震えた声を掛けるが、返事は無く、コウはピクリともしない。
あ、えと、こういう時ってどうするんだっけ?「きゅ、救急車?電話…」セナはそう呟くと自分の荷物の方へ向かった。
「死んじゃいないわよ。気を失ってるだけ。救急車なんて必要ない。」アミは慣れた風にコウの状態を手早くチェックすると、冷静な声でそう言った。
「へ?」セナは振り返って、驚いた顔でアミを見た。
「でも、その人…すごい怪我…私のこと、助けようとしてくれたの。放っておくなんて出来ないし…」セナは首を左右に振りながら言った。
「まぁ、この暑い中、ここにこのまま放っておけば、やばい事になるかも」アミが淡々とした口調で言った。
「やっぱり救急車…」セナは自分の荷物を拾い上げ、携帯電話を探った。
「あなたの家、この近く?」アミは一瞬考えた後、聞いた。
「え?ええ」セナは電話を取り出しながら何気なく答える。
アミはセナの返事を聞くと、片膝をつきコウを担ぎ上げた。
へ?!なんて力。セナはコウを担いだアミを見て呆気に取られてしまった。
アミは、そこそこ体格の良い成人男性を担いでいるとは思えない軽快さで立ち上がって、セナの方を向いた。
「どっち?案内して。」アミはセナを見据えて、命令するように言った。
「へ?」セナはアミの言ってる事の意味がわからずに、少し首を傾げてアミの顔をみつめた。突然アミの目線がセナから外れ、セナの後方へ向かった。セナがアミの視線の先を追って、後ろを振り返ると、そこには黒装束の男…というかどう見ても少年だが…が二人、立っていた。一人は純朴そうな雰囲気の少年。もう一人は片耳にピアスをした少女と言っても通りそうなキレイな顔立ちの少年。二人とも身長こそアミやセナを超える程度にはありそうだが、まだ充分幼さの残った顔をしている。どう見てもせいぜい十三、四歳位だろう。セナはさっき自分を襲ってきた男達の中にこの子達は居なかったように思った。
「何か用?」アミが少年達に向かって言った。アミは口調も態度も顔つきも冷静そのものだったが、威圧するような空気が漂っていた。
「僕達抜けてきたんです」「一緒に行かせて下さい」二人は同時にアミに向かって訴えた。
「は…そんな事…信じられると思う?」アミは眉をひそめて言った。
「僕達もうあんな奴らと一緒に居たくないんです。」
アミは黙っていた。
「家へ帰れば…?」セナが心配そうに二人に声をかける。
一人はセナを見て、目線を落とした。もう一人、ピアスをした少年は、セナをちらっと見るとすぐにアミへ視線を戻した。
「お願いです。一緒に…」ピアスをした少年がもう一度アミに頼もうとする。
「わかった。でもその暑苦しい目立つ格好なんとかして。服、着替えてきて。駅の方まで行けば、なんか店あるでしょ」アミは少年の言葉を最後まで聞かずに遮るように言った。
「ここで待ってるから。」そう言いながら担いでいたコウをその場へ降ろす。
少年達は顔を見合わせる。「わかりました。」一人がそう答えた。
アミがさっさと行きなさいと言わんばかりに顎で駅の方角を示した。少年達はアミが指示した方へ走って行った。
「行くわよ」少年達の姿が見えなくなるとすぐにアミが言った。
「へ?どこへ?」セナが首を傾げて聞く。
「あなたの家。この男の手当てするから。」アミはもう一度コウを担ぎ直した。
「私の家?」
「放っておけないんでしょ?」
「それは、そうだけど…あの二人は?知り合いなんでしょ?待ってあげなくて良いの?」
「自分達でなんとかするわよ。」
「だってまだ中学生になったばかり…位よね?」セナは心配そうな顔つきになっている。
セナの様子を見てアミは少し目を細めた。何者か知らないけど、この子、かなりお人よしね。ま、今はその方が好都合だけど。
「あの二人は手をかけてあげなきゃいけないような育ち方してないから。」アミは淡々とした口調でそう言いきると、半ば自分に言い聞かせるかのように最後に一言付け加えた。
「大丈夫。」
「ねえ?重くない?自転車に乗せるとか…」セナがコウの自転車を押しながら、コウを担いで歩くアミに声をかける。
「平気。この方が楽」アミはこめかみに汗こそ流れてはいるが本当に平気そうに見える。
「ね、やっぱり病院行こ?」セナが心配顔をして言う。
「必要ない」アミはセナの方を見る事もせずに淡々と答える。
「でも…」セナの足が止まりかける。
「ちゃんとするから。任せなさい。」アミはセナを見据えて、もう何も言わせ無いような威圧感を漂わせながらそう言うと、ずんずんと歩いて行く。
セナは不安な顔をしつつも、自転車を押して小走りにアミの後を追った。
二人の少年、ショウとカケルが着替えて戻って来た頃には、もうとっくにアミ達は居なくなった後で、ただ蝉セミの声だけが鳴り響いていた。
「居ない」カケルはショウを見る。
「信用できない…ってか」ショウは自分の耳のピアスに手をやりながら呟いた。
セナの借りている部屋へ入ると、アミはセナにバスタオルを敷かせて、その上にコウを降ろした。相変わらずコウの意識は無いままだ。
「水で濡らしたタオルで顔でも拭いてやれば、意識戻るでしょ」アミは勝手にコップを取り出し水を入れて飲むと、心配そうにコウを覗き込んでいるセナにそう言った。
「あ、うん。」セナは言われた通りにする為、洗面所へ行って、タオルを水で濡らした。
「で、あなた何者?」アミは勝手にクーラーのスイッチを入れると、開け放しの扉の向こう、洗面台の鏡に映るセナを見つめて問いかけた。
「何者って…そっちこそ」セナも鏡越しにアミをチラッと見て聞き返した。
セナがタオルを絞ってコウの所へ戻ると、アミは、入れ違いに洗面所へ入りバシャバシャと水で顔を洗い、手を洗い始めた。
「にしても、甘いわね。黒装束に襲われたくせに、黒装束の心配するなんて」アミが水にぬれたままの顔で呆れたように言った。
「だって…あの子達に襲われた訳じゃないし、それにまだ子どもじゃない」濡らしたタオルでコウの顔を拭きながら洗面台の鏡に映るアミへ抗議の目を向けた…と思ったら、セナはそのまま後ろへ吹っ飛んでいた。
「あ…ら」アミはただそう言って、吹っ飛んだセナを鏡越しに目で追うだけだった。
「痛…」セナは自分の顔を押さえた。何?
「え…俺…?」意識を取り戻すやいなや、目の前にあったセナの顔を思いっきり殴りつけたコウ本人も、何が起こったのかわからずにいた。
「避け損ねる事もあるんだ。私の攻撃はかすりもしなかったのに。」アミはセナがコウに殴られた事など気にもなっていないように言った。
「だって今のは…」意識の戻ったコウに殴られたんだと理解したセナは、顔をおさえたままよろよろと体を起こした。
コウはセナとアミ、家の中に目をやって呟いた。「…ここは?」
「あの、大丈夫?ここ、私の家」セナは顔をおさえたまま、コウに向かって言った。
「へ?」コウは、まだ良くわからないような顔をしている。
「あなた、気を失ってて…」
あっ。「あの黒いやつら。あ、あんた、大丈夫か?」コウは思い出すと、セナに向かって心配そうに言った。
「フッ。あんたが今殴ったの以外、どこもなんとも無いと思うけど。」アミが鼻で笑いながら口を挿んだ。
「へ?あっ、すまん」顔をおさえているセナの手の意味が飲み込めたコウは慌てて謝る。
「顔…殴っちまって・・俺混乱してて…」コウは心底申し訳なさそうな顔をした。
「いいよ」セナは少し微笑んでそう言うと、コウの傷を拭き始めた。
「え、あ、先、自分の顔冷やせよ」
「え?」良い人。セナはクスッと小さく笑って続ける。「大丈夫。大した事ないって。」
「いや、多分思いっきり殴った…気がする。」
「こっちの方がひどい。」セナはコウの怪我を拭きながら言った。
「…ありがと…あいつら何なんだ?」
「わからない。」セナはアミの様子を伺った。アミは知らんぷりしている。
「あの時、有難う。私の事、助けようとしてくれて。」
「い、いや。恥ずかしい。あんたの方が強い…っていうかすごい動きだった。…あ、そう…俺コウ」
「私、セナ」そう言うと、セナはアミに目をやった。
「アミよ。」アミはセナをちらっと見て、どこを見るでもなく言った。
「ねえ、早く診てあげてよ。」セナが催促するようにアミに向かって言う。
「元気そうだし、必要ないか」アミはコウをちらっと見て呟いた。
「えっ、手当てするんでしょ?そう言ってここまで担いで来たくせに」セナは咎めるような口調になっている。
「担いだ?…俺をか?」コウは首を少し傾げた。
「ええ、軽々と担いでここまで運んでくれた。」セナが答える。
「冗談だろ?」コウは怪訝な顔つきでアミをまじまじと見た。
アミはコウの視線を完全に無視して、手当てを始めた。
「よかったわね。どこも折れてない」アミはコウの手首をグイグイ動かしながら言った。
「うぉ!痛てーから!」この女、Sか?。
アミはコウの抗議などお構いなしでもくもくと続ける。
「ねんざとか…打ち身程度。やっぱり大した事ない。」と、コウを無視して、何故かセナに向かって言う。
「た、大した事あるでしょ…」セナは少し顔をしかめる。
「あいつらにやられてこの程度で済んでラッキーよ。やられつつもガードはしてたみたいね。」そう言って、ちらっとコウを見る。
「あ、ああ。多分。俺、結構腕には自信があったんだけどな…あいつら強いよ。…あいつら、何者だ?」
「…ある武術流派の…一部」何をするにも言うにも淡々としていたアミの感情が始めて少し揺らいだようにセナは感じた。
「で、あんたは?」コウはアミに尋ねた。
「関係ないでしょ。」そっけなくそう言うとアミは手を洗いに行ってしまった。
セナと目があったコウは肩をすくめて見せた。
アミは手を洗い終えると、勝手に冷蔵庫を開けて中を物色した。
「ちょ、ちょっと」セナが咎めるような声をあげる。
「見事に何も無い。」アミが冷蔵庫の扉を閉めつつ呟いた。
「え、だ、だって、田舎帰る所だったんだもん」セナが言い訳するように言った。
「何か食べるもの買ってくる。」アミは無表情にそう言った。
「へ?」セナは首を傾げてアミを見る。
「今日ここに泊まってあげる。それと一緒に」アミは軽く顎でコウを示しながら言った。
『それ』って…俺は物かよ。
「へっ?」セナはコウの方へ目をやった。すぐに動ける様子じゃないし、確かにコウだけ置いていかれても困るけど…。
「あ。家、連絡する?迎えに来て貰う?とりあえず、自転車は持って来ておいたから」セナはコウに向かって言った。
「今日はこのまま寝かせといた方が良い」コウが答えるより先にアミが横から口を挿む。
「あぁ…俺も田舎出で一人暮らしだから…。迎えは…すまん。動けるようになったらすぐ出てくからさ」コウは申し訳なさそうに言った。
仕方ないか。この人、私を助けようとしてくれたわけだし。この子、アミも泊まるって言ってるし、二人きりってわけでもないんだし。
セナはコウに軽く頷いてみせた。
「じゃ、何か食べるもの買ってくる。」アミが話は決まったと言わんばかりに言った。
「あ…私行こうか?」セナは少し休みたい気分だったが、悪いと思って言った。
「いい。疲れてんでしょ。すぐ近くにコンビニあったし。」アミはそう言うとほんの少しだけ口の端を上げて、すぐに外へ出て行った。
私、確かに…すごく疲れてる。あの子、アミ、すごいタフ。ここは素直にアミに甘えておこう。そう思ってセナはベットに腰かけた。
「とりあえず…よろしく」コウは真っ直ぐな目でセナを見て言う。
「うん。よろしく」なんていうか、実直そうな人。とセナは好感をいだきつつ返した。
「あんた、なんでそんな強いんだ?」コウはセナに問いかけた。
セナはなんとも答えられずに視線を逸らした。
「それにあの女、何者だ?俺を軽々と担いだって?俺そこそこヘビー級だぜ?」
「うん。私も驚いた。」
「へ?知り合いじゃ無いのか?」コウが驚いた表情で尋ねる。
「え?」セナは違う違うと手を振りながら、首を左右に振った。
「そうなんだ。…帰って来る…よな?」
え?そう言われたらそう。このまま居なくなってもおかしくない。
「よね?」セナは思わず真顔で聞き返してしまった。
なんとなくコウは笑いがこみ上げて来て噴き出してしまった。
「い、いて…笑ってる場合じゃないんだけどな。ハハッ」
セナもつられて笑ってしまう。
「ホント、帰ってこなかったらどうしよう。フフッ。アハッ」本当に笑ってる場合じゃないのになんか笑えちゃう。なんだろ、疲れてハイになってるのかな。セナは笑ったままベットに倒れこんだ。
「でも、あの子、アミって、なんかすごい」なんなんだろう、なんか気になる子。
「そうだな。なんていうか、偉そうだけどな。…ほんと、何者だ?」
そう、偉そうなんだけど、何故か気になる…そんな事を考えている間に、セナはもう眠ってしまっていた。
セナが目を覚ますと、もう次の日の朝…というか昼の方が近い時間になっていた。
あ…私、すごく寝てた?いつ寝たんだっけ?ベットから降りようとすると、すぐそこで、コウが眠っていた。汗をかいていて寝苦しそうだ。
あれ?クーラー効いてるのに…?あの子は?アミは部屋には居なかった。もしかして本当に帰って来なかった?
タオルを持ってきてコウの汗を拭きかけて熱がある事に気がつく。
コウが目を覚ました。
「ごめん。起こしちゃった。熱あるみたい。大丈夫?」
「え、ああ…熱…」コウはボソボソと呟いた。
「あの子は?…アミ」
「へ?ああ、昨日ちゃんと帰って来た…」熱の所為か目覚めたての所為か、コウは少しボーっとしてるようだ。
「あれ?これ、こたつ布団…」コウがこたつ布団を二つに折りたたんだ上で横になっている事に気付いてセナが呟くように言った。
「あ、ああ。昨日あいつが敷いてくれた。手荒だったけどな…」コウは口は動いているが、やっぱりボーっとした顔をしている。
セナはコウの傍らに座ってコウの汗を拭きながら、どうしたら良いか考えていた。
「良いよな」コウがポツリと言う。
「え?」
「そうしてるとさ、あんな動きが出来るなんて嘘みたいだ…なんであんな風に動けるんだ?」
「…私の家…ある武術流派の本家だったの。だから。」あれ?これ、昨日アミが言ったのと同じ言い回し。《ある武術流派の》アミの言う流派って…?
「へ?流派の?本家?…なんか、すげえ。ほんとかよ」
「うん…でも、もう昔の事…もう、無いから。」
「え?無い?なんで?」
「焼けちゃったの。火事で全部。…私以外、全部。」セナはそう言うと微笑んで見せたが、辛そうに見えた。
「す、すまん。」
セナは、口の端を上げて首を横に振った。
「…お、俺さ、」コウは話を切替えるかのように声のトーンを上げて話し出した。
「柔道とか空手とか色々やってたし、これでも強いと思ってたんだけど。なんていうか、レベルが違うんだよな。」
「そんな事…それに私、もう何年もあんな風に誰かを相手にした事なかったのに。もう必要ないと思ってた…」そう言うと、セナは少し遠くを見るような目をした。
「…本家、継げば良いじゃないか。ほんと、すごいんだしさ。」
「えっ?そ、そんなの無理。私は、まだ、何も…本家を継げるような…」そこまで言うと、目線を下に落として小さく首を左右に振った。
「…ま…あんた、かわいいからさ、普通に奥さんになるのも良いかもな」コウは自然な笑顔ですごく自然にそう言っていた。
「え…ありがとう。」普段言われたら照れそうなセリフなのだが、あまりに自然に言われた所為か、セナも自然に微笑んでこう返していた。
なんか、俺、今、すげぇガラにも無い、こっぱずかしい事言った気がするんだけど…ま、良いや。きっと熱の所為。うんうん。コウは心の中でそう自分に言い聞かせた。
しばらくして、アミが戻って来た。
「やっぱり熱出たんだ。」コウの額にタオルが乗ってるのを見てアミが言った。
「うん。…って、それ私の服?」アミはセナの服を着ている。
「ああ、服借りたわよ。私の服がかわくまで。」
「へ?」セナは咎めるような表情になっている。
「良いでしょ?」アミは当然と言う風な顔付きでそう付け加えた。
良いでしょって…セナは呆れて言葉が出ない。
「はい」アミはセナの呆れた様子などおかまいなしに、持っていた袋をセナに手渡した。
何?セナは袋の中をみる。「あ。コウの着替え?」
「そ。自転車に積んであった。」
セナはコウへ袋を手渡した。
「あ、そうか。すまん…サンキュ」アミの方へ向かってそう言う。色々世話になってるのは確かだけど、どうもこいつには素直に礼を言う気にならんな…セナとはえらい違いだ。
「と、薬とか色々」アミはそう言いつつ、もう一つ手に提げていた袋を軽く上へ掲げた。
「そうだ。財布…」コウはそう呟くと、自分の服のポケットを探る。無い?あの時、落としたか?
「財布ってこれ?」アミが財布を取り出して、コウの方へ投げつける。
「あっ…っつ」コウは慌ててキャッチすると、体の痛みに顔をゆがめた。
「他にも色々買ったけど、治療代だと思って。良いわよね?」
良いわよねって、悪いとは言えねーけどさ。勝手に持ってくなよ…。って、寝てたのか。俺。「ま、良いけど」コウはボソッとそう呟いた。
「自転車の鍵もそこに入ってるから。ほんとは、朝一でタクシーにでも放り込んでやろうかと思ったんだけど、熱出そうな感じだったからやめといた。もうしばらく居ても良いわよ。やさしいでしょ?」アミはそう言うと、チラッとコウを見てフッと軽く鼻で笑った。
うわっ。なんか腹立つ。
「ああ。すっげーやさしい」う…すごい嫌味っぽく言っちまった…。
「って言うか、ここおまえんちじゃねーだろ」
「ま。病人だし。大人しく寝とけば」アミはコウの言い方も言ってる事も気にする風でもなくそう言った。
「セナ、しばらく面倒みてやって。」
「え。ちょっ…」何なの、勝手に…
「私も居るから」アミはそう言うと、買ってきた物を入れようと冷蔵庫を開けた。
「へ?何勝手な事言って…それに、もうちょっと遠慮ってもの無いの?ここ私の家よ」さすがにお人よしのセナも非難の声をあげる。
「あ、まだ食べてないんだ。」アミは表情ひとつ変えず、冷蔵庫から昨日のお弁当を取り出して、セナの胸元に差し出した。
「あ…」セナは反射的にお弁当を手に取っていた。
「お腹空いてるでしょ。昨日死んだように寝てたから。」アミはセナを見て少し口の端をあげた。
確かにお腹すいてるかも。セナはお弁当を目にしてかなり空腹だった事に気が付いた。
「早く食べれば?」アミはそう言うと、セナの返事など待たずに、冷蔵庫に買ってきた物を放り込み始めた。
「あ…有難う」アミって素直じゃないけど、悪い子じゃ無い。…のかも?何か、強引に丸め込まれた気がしないでもないけど…。
昼食を済ませると、アミはまた出て行こうとした。
「アミ、どこ行くの?」
「…人探し」
「人?」
「弟。最悪戻らなかったら適当にして」そう言い捨ててアミは出て行った。
まあ、最悪は無かったらしく、夕方には無事に戻って来た。
夜中、アミは胸元に違和感を感じて目を覚ました。
アミとセナはセナのベットで一緒に眠っていた。ベットのすぐ脇ではこたつ布団を敷布団代わりに敷いた上に、病人コウが転がって寝ている。
「もう…」アミはそう呟き、自分の胸の上にあるセナの手をどかそうとしてつかんだ。
手をつかまれてセナは目を覚ました。「何?」セナは驚いて、アミにつかまれてアミの胸元にある手を引く。
アミが手を離す。セナは慌てて寝る姿勢を正した。
「何って…こっちのセリフ。変な趣味でもあるのかと思った。」アミはいつも通りの淡々とした口調だ。
「え、なん…」こっちが思った。手、握って自分の胸の上に置いてるんだもん。
「寝相悪いんだ。見かけによらず。寝返りうつならあっち向いてやって。」
「え」アミにそう言われてセナは状況が飲み込めた。
「…ごめん」私、寝てる間にアミの胸触っちゃってたんだ。
「それ、鎖かたびら…なの?」少し間を置いてセナが尋ねる。
「ええ。薄いけどね。」
「うん。見た感じじゃわからなかった。…胸の所、破けてるのね」
アミはセナの方へ顔を向け少し睨みつつ言う。「寝てたんじゃないの?」心なしか少しキツイ口調に聞こえる。
「ね、寝てたけど…なんか覚えてる」セナはボソボソと言い訳するように言った。
「スケベ」アミがきっぱりと言う。
「違うわよっ」セナの声が自然と大きくなる。
「う…ん」コウが寝返りをうった。
二人は少しの間黙っていた。コウが起きる様子は無い。
「違うからね。」セナはひそひそ声だが必死にアミに念押しした。
「あ。そ。」アミはそっけなく言った。
「それ…どうしたの?」セナがひそひそ声で尋ねる。
それ?ああ、穴。「これに助けられた事もあるって事。」
「なんか食べる?食欲は?」次の日、セナがコウに声をかけた。もう昼近くなっていた。
「あ。ああ…もう熱は引いたように思うけど…」イマイチ食欲は無いな…
「おかゆとかは?」
「あ。うん。頼む。」それなら食べれそうだ。「ほんと、すまん。」
「気にしないで。」セナは冷蔵庫をあけながら言う。
「あいつ…アミは?」
「また外行った。タフよね。寝る以外ずっと動き回ってる気がする。弟探してるって言ってたけど…」弟って、どういう事なんだろう?
「弟?探す?なんだそりゃ。一体あいつ何がどうなってんだ?」
「…うん…どうなってるんだろ。聞きそびれちゃうんだけど…何か事情ありそうよね」セナは手を動かしながらなので、間延びはしているが、会話は続いている。
「ま、聞いた所で、『関係ないでしょ。』で終わっちまいそうだけどな。全く隙が無いって言うか…取っつき難い奴。」そう言うとコウは苦笑した。
「うん。でも、悪い子じゃないみたい。」
…まあ、助けられたのも世話になったのも事実だしな。
「はい」セナはお粥の入った器を差し出した。
「へっ?もう出来た?」コウは差し出された物を見て驚きの声をあげ、セナを見た。
「ほら。ちゃんとお粥買ってあったし。レンジでチンッで済んじゃった。どう考えてもコウの為でしょ?」セナはそういって微笑んで見せた。
「アミって、天邪鬼なのか不器用なのか…根はすごくやさしいんじゃないかって、私、なんかそんな気がしてきた。」
「そうか??」俺はどうも納得行かないが。お粥買ってくれてたのは事実っぽい。ま、俺の金で買ったのかもしれないけどな。
「セナ、おまえさ、田舎に連絡した?」お粥を食べながらコウが尋ねる。
「え?ああ、うん。帰るのちょっと遅くなるって言っといた。もうしばらく居て良いよ」
「え、いや、でも、悪いしな…」
「今その体で戻ったら大変でしょ。」
「いゃ、まぁそうなんだけど」
「アミも居るつもりっぽいし」セナはそう言うと少し苦笑いした。
「…後でちゃんと礼はするから」
「い、いいよ、そんなの。元はといえば、私を助けようとしてこうなったんだし…」
「いや、でも助けなんて必要なかったしな」コウは苦笑した。
「ほんとに良いって。」
コウは納得したのかしてないのか、軽く頷いた。
「でも、なんていうか、ここでセナに面倒見て貰えて助かったな。アミにタクシーに放り込まれてたら大変だったろうな」そういうと、コウは少し肩をすくめた。
「フフッ よね。一人暮らしって体調崩すと大変。」
「そうそう。あの時だけは親の有り難みがわかるって言うか」コウは言ってしまってからハッとした。自分以外全部焼けたって…。
「ごめん。俺」頭をかきながら謝る。
「ううん。大丈夫。田舎におじいちゃんもおばあちゃん居るし。たった一人の孫だから大事にして貰ってる。」セナは微笑んで見せる。
「私、買い物行ってくるね。一人で大丈夫でしょ?」
「ああ。トイレくらいは一人で行ける。」コウはニッと笑って見せた。
カケルは、急に居なくなってしまった片耳ピアスの少年、ショウを探していた。そして偶然、買い物する為に外へ出たセナを見かけた。
あ、あの人、あの時の…カケルはなんとなくセナの後をつける。セナは後をつけているカケルには全く気がついていなかった。
セナは黒装束の男達を見つけて、慌てて身を隠し、そっと様子を伺う。
あいつら、まだこの辺りに居たんだ…あれ?何だろう…誰かやられてる?
カケルはセナが見ている方を覗き込んで叫んだ。
「ショウ!?」
セナが声に驚いて振り返ると、そこにカケルが居た。この子、こないだの…
カケルはセナのそばへ駆け寄ると、黒い集団の方を指しながら必死な顔で訴えた。
「お願い助けて!あれ、ショウなんだ!」
へっ?ショウって?突然の事で訳がわからずにセナは固まってしまった。
ショウは蹴られたり殴られたりボコボコにやられていた。早く止めないと…カケルは集団の方へ飛び出した。
「え?ちょっ…」セナはカケルの後に続いた。
え?セナ??アミは別の場所から集団を見張っていたが、飛び出すセナの姿を見て「ちっ…」と小さく舌打ちして飛び出した。
どういう訳か黒い集団はすぐに引き上げていった。カケルはショウの傍へ駆け寄った。
どうして…どうして引いたんだろう…アミは考えていた。
セナはショウとカケルの方へ行こうとして、アミに腕をつかまれた。
「戻るわよ」アミはそう言うとセナの腕を引いて行こうとする。
「アミ…でも、あの子達…」
「放っておけば良い」
「だって、あの子、あんな怪我してるのに」
「救急車でも何でも呼べば良い」アミはカケル達の方を見ようともしない。
「診てあげてよ」
アミは何も言わずに、セナの腕を放して立ち去ろうとした。
「アミ」
アミはセナの声など無視して歩いていってしまう。
セナは軽く唇を噛み締めて、ショウとカケルの方を見た。
やっぱり知らんぷりなんて出来ない。セナはショウとカケルの方へ走り寄って行った。
セナが少年達に駆け寄る姿を横目で見たアミは、小さく溜息をついて引き返した。
「アミ!」セナが嬉しそうにアミに笑顔を向けた。
私も甘い…どういう訳かセナに甘い。どうしてかな。
「お、おい。誰だよ?そいつら」とコウは言ったものの、一人は意識もなくボロボロな状態なのは一目瞭然で、アミ達が助けたんだろうと言う事はすぐ予想がついた。
「また、あいつらか?あの黒い…」と、そこまで言って、会話してる場合じゃないかとコウは黙った。
もっともアミはいつものごとくコウなど無視で、黙々と作業していたが。アミは手を動かしながら、頭では別の事を考えていた。
こんな…リンチなんて、チンピラのする事。しかも内弟子のショウを。老師は何考えてるの。どうしたいの。
セナは、アミの悔しそうな、それでいて悲しそうな表情を感じとっていた。
「とりあえず、これで良いでしょ」アミはフーっと息をついた。
「ありがとうございます」カケルは頭を下げた。
「有難うアミ」セナがそう言うと、アミはセナを睨んでキツイ口調で一気に言い放った。
「誤解しないでね。かわいそうだと思って助けた訳じゃない。セナが頼んだから助けた訳でもない。ただこの子達が警察や何かにくだらない事話したらやっかいだと思っただけ。」アミは、何故だかセナには甘くなる自分自身にイラついていた。
怒涛のごとく言葉を浴びせられてセナは面食らったが、すぐに微笑んで、「うん。」とだけ言った。
な、何よ…
アミはセナのその態度に毒気を抜かれたような気がした。
「う…」片耳ピアスの少年が薄っすらと目を開いた。が、意識は朦朧としているようだ。
「ショウ!」カケルがショウを覗き込む。
カケル…アミさん…?
「う…」ショウは動こうとしている。
「じっとしてなさい。動けやしない。」アミが言う。
ダメだ。ショウは手を動かした。
「ショウじっとして」カケルがショウの手を押さえて言う。
ダメだ。ダメなんだ。カケル。
「何か言ってる?」ショウの口が微かに動くのを見てセナが呟いた。
「え?」カケルはショウの口元に耳をやった。
「ピ…ピアス?」カケルは首を傾げながらショウの言った言葉を繰り返した。
…まさか
アミはショウのピアスを外して踏み潰した。
「アミ?何するの…」アミの突然の行動に驚きつつセナが言った。
「やっぱり…盗聴器か発信機…かな」居場所がバレた?
アミのその言葉に場の空気が一瞬で張りつめる。
「あいつら、ここへ来るのか?」コウが扉の方を気にしながら尋ねる。
「わからない。でも、来るならもうとっくに来てると思う。」アミは落ち着いていた。老師が何をしたいのかわからない。
「狙いは私のはずなんだけど。そうなんでしょ?カケル」アミはカケルに問う。
カケル?アミの知り合いなのか?コウはアミとカケルを交互に見る。
「は、はい…すみません。でも、僕達、そんな、盗聴器とか知らなくて」カケルは心底すまなそうに言った。
「…あんたは、知らなかったのかもね。」カケルが嘘をつけるような子では無い事を、アミは良く知っていた。
「え?」カケルはハッとしてショウを見る。「ショウ、まさか…で、でもピアスの事教えたんだ、もう、そんな」カケルは必死に訴える。
「そりゃ、これだけボコボコにされたんだもの。気も変わるでしょ」アミはそんな事はどうでも良いと言う風に言った。
最初に一緒に行かせて欲しいと言ったあの時は、ショウは老師の命令を受けて来たに違いない。カケルにはその事は言わずに上手く巻き込んで。真正直なカケルが一緒なら信用すると思ったのか。まあ、多分、そんな所。
「おい、こいつら、知り合いなのか?」堪りかねてコウがアミに尋ねた。
「…アミ」セナがコウに返事をしようとしないアミを促す。
「え?ああ、知ってるわよ。ショウとカケル。この子らが幼稚園児くらいの時からね。」
そんな頃から知ってたの?だったら最初から助けてあげれば良いのに…
「コウ、この子達あんたより強いかもよ。」アミはコウに向かってそう言うとフッと鼻で笑ってみせた。
うわ、やっぱりむかつく。むぅ…平常心平常心。こいつは恩人恩人…。
で、このガキらが俺より強いって?まさかだろ?
「目、覚まさないね。」
セナはショウを心配そうに見ているカケルの隣へ立って、小声でそう言った。
カケルはセナを見上げて小さく頷いた。
なんか、成り行きですごい事になっちゃってるけど…。セナは部屋の中を見渡して少し溜息をついた。元々そう広くもないセナの部屋にコウとショウを寝かせているだけでもかなり窮屈になっていた。
うなされてる。苦しそう…かわいそうに。セナはそんな事を思いながらショウを見た。
ショウは半分夢現の状態で、覗き込んだセナの顔を朧げに見ていた。
この女の人、あの時の…あの流れるような動き…見た事ある。どこかで…どこかで…。
「やっぱり来る気配は無さそう。私ちょっと出てくる」アミはそう言って立ち上がった。
「弟探し?」セナが声をかける。
「ええ。あんたたち、ここ出ないでよね。ま、ショウはどう頑張っても無理だろうけど。セナ、見張ってて」
「見張るって…」アミったらまたそういうひねた言い方する…ほんと素直じゃないな。
「出ません。」カケルがきっぱりと言った。
アミは少し口の端を上げると出かけて行った。
「あの、セナさん」カケルは思い切って聞いてみようと口を開いた。
「ん?」
「どうして…何者なんですか?」
「え?私?」
カケルは頷いた。「と…」そう言ってコウを見る。
「俺もか?」
「何者って…別に…よね?」セナは同意を求めるようにコウに目をやった。
「ああ。しいて言うなら一般人?おまえ達こそ何者なんだよ。アミと小さい頃から知り合いなんだろ?アミはある武術流派とか言ってたけど…」
「アミさんは…ある武術流派の…本家の娘…でした」カケルが躊躇しながらも話始めた。
「でしたって…今は違うの?」
「今は、シンさんが長です。」
「シンさん…って?」セナが首を傾げて問う。
「アミさんの弟です」
「ん?アミの親父が死んで、弟が本家を継いだって事か?」
「はい」カケルはしっかり頷いた。
「どうして…アミは追われてるの?」セナが更に首を傾げて聞いた。
「アミさんは…先代…先々代になるのかな?…アミさんの父親が病気で亡くなられた後、後を継いだ兄のレツさんを…殺したんです。表向きは事故って事になってますけど…。」
セナとコウは突飛な話にギョッとする。
あいつなら、もしかしたらやりかねない。かな…?コウは内心そう思った。
「嘘…」セナがボソリと言う。アミがそんな事…?
「自分が長になりたいが為に殺したって…」カケルは言い難そうに続けた。
「老師はアミさんを捕らえようとしたけど、逃げられてしまって。だから、シンさんを長に立てた後も追ってるんです。」
信じられない。セナはそう思っていた。
「じゃあやっぱり狙いはアミなんじゃないか。奴らなんで来ないんだ?」コウが尋ねる。
カケルは首を横に振った。「わかりません。でも、あの日…セナさんに初めて会った日です。アミさんはシンさんを味方につけようとしていたらしくて、結局シンさんが居なくなってしまって…。だから、もしかしたらシンさんを探す事が先決なのかも…」カケルは自信なくそう言った。
「なんか、信じられない話だけど…そのシンさんっていくつだよ?アミの弟なんだろ?」
「僕の一つ下だったかな…」
「は?まだ子供じゃねーか。それが長?」コウが呆れたように言った。
「は、はい…長は世襲制なので、アミさんが継げないならそうなります。」
世襲制って…こいつガキのくせして難しい言葉知ってやがる。
「で、そのシンさんってのは、俺より強いかもしれないお前達より強いわけ?」コウが皮肉を込めた言いまわしで聞く。
「いえ…シンさんは生まれつき心臓が弱くて激しい動きは…」そう言うとカケルは目を伏せた。本当に本家はどうなるんだろう…。
「へっ」コウがすっとんきょうな声を出す。
心臓弱いって…だからアミ、ずっと弟探して…。セナは急にアミの事が心配になった。
「んーなんかややっこしいけど、要するにお家騒動?武術流派の本家とかでそんな事があったら、ワイドショーのニュースにでもなりそうなもんだけどな。なんての?俺知ってるかな?そこそこ格闘オタクだけど。」
「一般には知られてません…火の流派と言います」カケルは迷ったようだが名前を明かした。
えっ?!セナは驚いてカケルを見た。
「火?聞いた事ないな」コウはセナが驚いた様子には気づかずに呟いた。
火の流派?まさか、考えもしなかった…だって、あんな…本当に火の流派ならもっとちゃんとしてるはず。
「長の…長の導いてる集団にしては、えらくガラが悪いのね」セナは無意識に厳しい口調になっていた。
セナ?なんだ?様子が違う…それになんか意外な事を…。コウは怪訝な表情でセナを見た。
「それは…そうなんです」カケルは痛い所を突かれて、気まずそうにしている。
「僕も良くわからないんです。僕達のように元からの弟子も数名居るんですけど、ほとんどが新参の弟子で…シンさんに替わってからの…ガラが悪くて好き勝手やってて。なのに老師は止めようともしないし。訳がわからなくて…だから僕達…僕…ショウはこんなにされるし、本当に訳がわからない」そこまで言うと、カケルは下を向いてしまった。
セナはカケルの様子にハッとして、思わずコウを見た。
コウはセナと目が合うと、少し困った表情で笑って見せた。
「まーなんとかなるって。元気出せよ。」と月並みな事を言って、コウはカケルの背中をバンッと叩いた。
アミが戻って来て部屋の中へ入ると、セナ、コウ、カケルの三人の一瞬の視線と沈黙。異様な空気を感じた。
「何?…何か言いたい事でもあるの?」アミが鋭い目つきで全員を見渡しながら聞く…というより、あるなら言いなさいと言う命令に聞こえるが。
俺が聞くしか無いかとコウが口を開く。「あのさ…おまえ、兄貴殺したってホント?」
アミはハッとした表情をして、チラッとカケルを見た。そして、誰を見るでもなく言った。「レツ兄さん…殺したのは私じゃ無い。」
セナはじっとアミを見つめていた。
「老師よ」そう言うと、アミは今入って来た玄関の扉の方を向いた。
「アミ、どこ行くの?」セナが慌てて声を掛ける。
アミは、少しセナの方を振り返りかけたが、そのまま出て行った。
!アミ…泣いてた?
「私…探してくる」そう言ってセナも出ていった。
カケルは益々訳がわからず呆然としていた。
「おい。大丈夫か?」見かねてコウが声をかける。
「あ…どっちが本当なんだろう…」カケルは自問するように呟いた。
「どっちが信用出来るんだよ。アミとその老師ってのと」
「どっち?どっち…」老師は信用できる…してた。小さい頃良く訓練して貰って、僕らみんなのお師匠様だ。厳しいけど、やさしくて、すごく強くて。兄弟子達だってみんな信用してる。尊敬してる。アミさんだってそうだったはず。でも、ショウがやられてても平然と見てた老師は…あの冷たい目は…僕の知ってる老師じゃ無い。あんな老師初めて見た。
アミさんの言ってる事が本当なのかもしれない…。
老師…お師匠様…。
まだ幼い頃、訓練して貰っていた頃の記憶がよみがえる。カケルの目から自然と涙が溢れ出して止まらなかった。
「え、おい。泣いてるのか?大丈夫か?」
アミ、どこ行ったんだろう。すぐに追いかけたつもりだったのに。セナは近所を探し回ったが、アミを見つけられずにいた。
もう戻ったかな。そう思って部屋へ帰ろうとした時、マンションの階段下の陰に膝をかかえて座りこんでいるアミをみつけた。アミ。居た。良かった。セナは少し肩の力が抜けた気がした。アミのそばへ行って声をかける。
「こんな所に居た」
アミは涙を拭って顔を逸らした。
「ずっとここに居たの?」
アミは少し頷いたように見えた。
「探したんだから。」そう言いながら、アミの隣に腰を下ろす。
「灯台元暗し。ってヤツね。」そう言ってセナはフッと笑う。
「泣いてた?」セナは心配そうにアミの方を見て言う。
「…悔しくて」アミが初めて口を開いた。
「みんな、老師の言う事を信用した…シンにまで私が兄さんを殺したなんて嘘を…シンは私の言ってる事、信用してくれなかったの」そう言うと、きつく唇を噛み締めた。
「シンはどこ行ったかわからない。あの子心臓弱いのに」アミは本当に辛そうに見えた。
アミ…こんなアミ初めて。
「悔しいの」そう言ったアミの悔しさが、セナにはアミの全身から感じられるように思えた。
やっぱりアミは嘘なんてついてない。本当なんだ。セナはそう確信した。「アミ、きっと弟だってわかってくれる。あなたが嘘ついてるかどうか、いつかきっとわかるはず。」
アミはセナを見た。セナは真っ直ぐな目でアミを見つめていた。
「セナ…」セナは私を信じてくれてる。本家では、誰も私を信じてはくれなかった。でも、セナは信じてくれている。「ありがとう」アミはセナを見つめて自然とそう口にしていた。そして、慌てて顔をそらした。
ありがとう…心からの有難う…こんなに素直に口に出来たのはいつぶりだろう…。
顔をそらしたアミの目からまた涙がこぼれた。それはさっきまでとは別の涙だった。
「そいつ、眠り続けてるな。大丈夫か?時々うなされてるみたいだけど。」コウがショウを顎で指して言った。
カケルは心配そうにショウを見た。
あ、俺、また要らん事言っちまったか?「あー、眠り姫って所だな。そいつさ、きれいな顔してるから。キスでもしてやれば起きるんじゃねーか?」慌てて茶化すように適当な事を言う。
「ばかっ」セナが口元に笑いをためてコウに言う。
「ハハハッ」コウは誤魔化すようにわざとらしく笑った。
ショウが目を覚ました。「カケル…」
カケルは椅子に座ったままウトウトしていたが、ショウの声に一気に目が覚めた。もう真夜中近い。
「カケル、俺、ごめん」
「いいから、ショウ、良かった。」カケルはショウが目を覚まして心底ホッとした。
「ここは?…俺、殴り殺されるかと思った…」
「大丈夫。もう大丈夫だから」
「これ、飲んで」アミが来て、ショウにコップを差し出した。アミもショウの第一声で目を覚ましていた。
「アミ…さん?」あれ?どうして、アミさんが?ショウは少し記憶が混乱していた。
「助けてくださったんだ。それにアミさんはレツさんを殺してなんていなかった。」カケルはショウにそう説明した。
「カケル、これ飲ませてやって。」アミはカケルにコップを手渡す。
「はいっ。」カケルはコップを手に元気良く答える。
良い返事。アミは思わず口の端をあげた。
「アミ、今日も弟探しに行くの?」朝食をとりながら、セナはアミに声をかける。セナの部屋に五人も人が居るとかなりぎゅうぎゅうな感じだった。もうかなり巻き込まれちゃった感じだけど、今、出て行けなんて言えないし、放っておけないし、仕方ない。それに、火の流派…
「ええ。」アミは平静を装っては居るが、内心はシンの事が心配で堪らなかった。
「セナさん、セナさんのはなんて言う武術なんですか?」カケルが、何気無く聞いた。カケルはショウが目覚めて見違える程元気になっていた。
アミも少し興味深げな面持ちでセナに目をやる。
「別に…なんでも…」セナはそう言って首を横に振る。
「でも、あの動きは、普通の人には…」カケルは少し首を傾げた。
あの動き…横になったまま会話を耳にしていたショウはセナの動きを思い出していた。見た事がある、いつだったか…どこかで…どこでだった?
「本当に、なんでもないの」セナは少し困ったように言った。
「思い出した!」唐突にショウが声をあげた。みんなが一斉にショウの方へ顔を向ける。
「あれは…あれは…」ショウはそう言うと目を閉じた。
あの時の男の人の動きだ。あれは、どこだった?…火が…どこの…ショウは朧げな、何年も前の記憶を辿る。
「水の流派の本家だ」目を開くとショウはそう言いきった。
!?この子、どうして水を知ってるの?セナは驚いてショウを見つめる。
「そう。そうだ。間違いない。あの時の男の人の動きと同じだ。流れるような…」ショウは消えかけていた記憶を手繰りながら続ける。
「水って、なんでショウそんなの…」カケルがいぶかしげにショウを見る。
アミもカケルと同じ疑問を抱いていた。水の流派の事なんて長の娘だった私ですら何一つ知らないのに。
水の流派と火の流派は大本は同じ流れを汲むものだった。戦国時代から代々受け継がれて来ていると言われている。が、分かれて以来、火も水もお互い相手の事は何一つ知らないはずなのだ。所在すらも。唯一、長同士以外は。
「火の次は水か?」火の事も水の事も何も知らないコウが茶化すように口を挿んだ。
セナが水の流派のゆかり?…ああ、でもそれならセナのあの動き、スピード、納得できる。アミはふとそんな事を思った。
「あの時の動きって?何を見たの?」セナは動揺していた。この子一体何を見たの?
「あれは…火事」ショウがポツリと言う。
! セナは突然ショウに詰め寄った。
「火事って…いつ?それいつの事?何を見たの?男の人って?どんな?」セナはショウを食い入るように見つめて矢継ぎ早に質問をあびせかけた。
「あ、え、えと…」ショウは口籠ってしまった。
セナの態度が普通で無いのは、誰の目にも明らかだった。
「セナ…落ち着けよ。そんな一度に聞いても答えられないって」セナの様子に驚きつつ、コウがたしなめるように言った。
「あ…詳しく、教えて」コウに言われて、セナは少し落ち着いた口調でショウに尋ねた。
ショウは少し頷いて話し始めた。
「確か、5年くらい前。あれも夏だった。俺、まだチビで…夜中…車でどこかに行く兄弟子達についてったんだ。こっそり忍び込んで。兄弟子達…大きなお屋敷に入っていって、覗いて見てたら…建物の中から男の人がよろめきながら出てきて…よろめきながらも戦ってた。その人と同じ動き。」そう言うと、自分の言った事を確信するように頷いた。
「どんな人だった?」セナはなんとか冷静さを保ちつつ尋ねる。
「えと…長いあごひげ生やしてた」
…お父さんだ。
「その人、どうなったの?」セナの唇は心なしか少し震えているように見える。
「やられた」ショウは誰の顔を見るでも無くただ自分の中をみつめるように言う。
そんな!お父さん、火事で死んだんじゃ…どういう事…?
「それでその後、火事になって…次の日、別の兄弟子達が噂してた。水の流派の本家が焼けたらしいって。水はもうお仕舞いだって。それで俺、ああ昨日のって思って…」ショウは無表情に自分の頭の中にある記憶そのままを淡々と口にしていたが、そこまで言って突然驚きの表情を顕にした。
「あれ…俺、あの時は何とも思わなかったけど…あれって…」ショウの表情は驚きを通り越して愕然としている。
「火が水を潰したって…そういう事なのか?」ショウは自問するように呟く。
「有り得ない」そう口にしたアミが珍しく激しく動揺しているのが見て取れる。
「そんなバカな!」カケルが叫んだ。
「…嘘…火と水は…」そう呟いたセナの目の焦点は合っていないように見える。
火と水はお互いに干渉してはならない掟。干渉どころか潰すなど絶対に有り得ない事。
コウ一人が、四人揃って尋常では無い状態になっている理由がわからないでいた。
「水も火も良くわからんけど、セナはその水の流派ってのの…?おまえ本家って言ったよな?焼けちゃったって…」コウは少し首を傾げながら言う。
「火事じゃなくて、お父さん、殺されたって言うの?…しかも火の流派の…そんな、そんな事…」セナはコウの言ってる事が聞こえてるのかどうか、独り言のように呟いた。
そんなの有り得ない。絶対有り得ない。アミは心の中でそう繰り返していた。
「お父さんって…セナさん水の長の娘?」カケルは幾分冷静さを取り戻しているようだ。
「え?!」ショウはカケルの言葉に反応して、カケルを見てセナを見た。
「それは誰の命令なの?…火の長?」セナの目の焦点があった。が、いつものセナの目つきでは無く、そこには怒りが感じられた。
「そんな…でも兄弟子達が勝手にそんな事するとは思えない…」ショウは首を小刻みに左右に振りながら言う。
5年前の火の長…アミの父親?
セナは怒りを帯びた目でアミを見た。
セナの視線を受けて、アミはずっと心の中で繰り返していたセリフを吐く。
「有り得ない。そんな事、絶対有り得ない。火と水は干渉してはならない掟。何があっても。水の娘なら当然知ってるでしょ」
「ええ…そうよ。だから、私、そんな事、考えつきもしなかった。ただの火事だと…不幸な事故だとずっとそう思ってた。」
「でも、有り得ない。あの時、水が焼けてしまった時、お父さん、すごく嘆いてた。それはもうひどく…その所為で病状が悪化して…」やっぱり何かの間違いじゃ…ショウの言ってる事が嘘なら…これも老師の策って事は?
アミはショウに目をやる。
ショウは自分の忘れかけていた記憶の、事の重大さに気づいて呆然としている。
さっきの様子と言い、とても演技とは思えない。でも、ショウが老師の命令でスパイのような事をしようとしたのも事実。すんなり信用する気にもなれない。
「ショウ、他に何か覚えて無い?その建物とか周りとかどんなだった?」
アミにそう言われて、ショウはまた記憶を手繰る。
「回りは全部田んぼ。田んぼの中にポツンと大きなお屋敷があって」
アミはセナに目をやる。どうなの?と問うように。
アミはショウ君の言ってる事が事実かどうか確かめようとしてるんだ。そう…ショウ君が言ってる事が本当かどうかで…
「うん。田舎だもの。周りは全部田んぼだった。」セナは少し冷静になった。
「暗かったんだけど、玄関の明かりはついてて、和風の…日本家屋?って言うのかな…多分そんな感じの建物」ショウは記憶に残っている映像を口にする。
「うん」セナは頷いた。そう、立派な大きな日本家屋。
「他には?」田舎の家も、日本家屋もどこにでもある。そう思いながらアミが促す。
「庭に木とか植えてあって、玄関先に花がたくさんあった。」
「…そう。花はお母さんの趣味で、たくさん植えてあった。」お母さん、お花育てるのが好きだった…。
「どんな花だった?」アミが更に促す。
「黄色と赤と白」セピア調の暗い記憶の映像の中、何故かショウには花の色だけは鮮明に見えた。
「ヒマワリと…白い百合と…なんて言う花だろ?赤い大きな花…南国っぽい感じの」ショウは小首を傾げながら言った。
アミはセナに目線をやった。
・・・ハイビスカス。セナは自然と昔の事を思い出した。五年前、セナは丁度今のショウやカケルくらいの歳だった。
『ひまわりとハイビスカスは良いけど、そこに百合っておかしくない?』
私、いつもお母さんにそう言ってた。
あの年は全部重なって咲いて、お母さんは賑やかだって喜んでた。私は百合だけ浮いてる。合わない。変だ変だって文句言って…いつも生意気な事ばっかり言ってた。
『母さんはね、ひまわりを見ると元気が出るの。ハイビスカスを見るとやる気が出る。百合を見ると清らかな気持ちになれるの。だからこれで良いのよ。』それがお母さんのいつもの返事。いつも笑いながら口癖のようにそう言った…。
『セナ、ひまわりを見なさい。きっと元気が出るから。』
それが私が聞いたお母さんの最後の言葉。あの夏、あの日、おじいちゃんの所へ行く私にお母さんがかけてくれた言葉。でも…私はひまわりの花を見るのが嫌いになった。最後に見たお母さんを思い出すから。辛くなるから。泣いちゃうから。
「赤いハイビスカス」
セナは今にも泣き出しそうな顔で、か細い声でそう言い残すと洗面所へ駆け込んで扉を閉めた。すぐにセナの嗚咽する声が漏れ聞こえた。
セナの様子とその言葉だけで返事には充分だった。
夜、部屋を抜け出すセナを、アミは追った。セナが非常階段へ出た所でアミが声を掛けた。「どこ行くの?」
「アミ。どこにも。ただ眠れなくて」そう言ってセナは非常階段の手すりに肘を掛けた。
「そうね。私も」アミはセナの隣で手すりにもたれかかった。夜風が肌に心地良い。
「ねえ、どうして火は水を潰したんだろう…」そう言ったセナの顔にはもう怒りは無く、悲しみが感じられた。
少し間を置いてアミが話し出した。
「考えたんだけど。《火は水には敵わない》知ってるわよね?」
「うん。そう言われてた。」本当にそうなのかどうかは知らないけど。
「老師は、強い。私じゃ倒せない」アミはそう言うと、悔しそうに少し唇を噛み締めた。
「誰なら倒せる?」アミは何が言いたいんだろ?と思いつつセナは話を合わせる。
「病気になる前のお父さん。…と、もしかしたら、水なら倒せたのかもしれない。」
「え?…あ…《火は水には敵わない》」
水…お父さんだったら倒せたのかもしれない。お父さんが生きてたら…。セナはハッとしてアミを見て言う。「お父さんが生きてたら、水なら老師を倒せるに違いないから、潰しておいた。そういう事?」
アミは頷いた。「やっぱり、老師がやらせたんだと思う…老師なら出来る。老師がお父さんの命令だと言えば、弟子達は動く。」
セナは目線を落として黙っていた。
「あの後、水の本家が焼けた後、弟子達が次々と抜けたの。本家を出ていったの。」
セナはアミに目をやった。
「ショウやカケルみたいな内弟子よ。そう簡単にやめるはずないのに。あの時は、きっとお父さんの病状が悪化したからだって思ったんだけど。ショウの話が本当なら、自分達が水を潰してしまった事を後で知って耐えられなくて抜けた…そう考える方が納得できる」
そうなのかもしれない…
「でも…いくら不意打ちでもお父さんがやられるなんて信じられなくて。本当に火が水に敵わないなら、尚更…」
「ショウは、よろめいてたって言ったわ」
「あ…薬か何か?」
「さあ。とにかく普通の状態では無かったって事でしょ」
「その…老師は、火の本家を乗っ取るのが目的なの?」
「最初はそう思った。何も出来ないシンを長に仕立てて自分が…って事なのかと。でも、おかしい。あのガラの悪い黒い集団、何の為?私を捕らえる為にあんな奴ら連れて来たって無意味なのは老師自身良くわかってるはず。あんな雑魚、何人居たって意味無い。老師と腕のたつ内弟子数人で充分捕らえられるはずなのに。あそこに居る内弟子は私よりも歳の若い子達数名だけだった。大体、私を捕まえてどうするつもり?殺しでもするつもり?本家から追い出せればそれで良さそうなものなのに。私を捕らえるって名目でシンを連れまわしてシンの心臓が悲鳴を上げるのを待ってるのか…とも思ったけど、それにしたって、あんな奴らは要らない。あの集団、私を追ってるらしかった。老師はその娘を捕まえろって命令してた…でも、あの集団の中で多分唯一私を捕まえる事が出来る老師自身は私を捕らえようとはしなかった。だから逆にこっちから向かって行ってやった。とにかく連れ回されてるシンの事が心配だったから…。それでシンと話が出来たんだけど…あいつらに邪魔されて一旦ひいたの。で、もう一度戻った時にセナにあった。」アミはちらっとセナを見て続けた。「今も追って来ないし。やっぱり最初から本気で私を捕まえるつもりなんて無かったって事。でも、だとするとショウのピアスは何の為?…老師が何をしたいのか…訳がわからない。」何より今は、シン、どこに居るんだろう…。セナの家に上手く転がり込んで、もう一度様子を見に行った時にはもうシンは居なくなってた。
「弟さん、田舎に行ったって事は?」アミの表情が変わった事に気づいてセナが聞いた。
アミは少し驚いた表情でセナを見たが、すぐに目線を戻した。私がシンの事考えてるってわかったんだ…。「うちに田舎は無い。おじいちゃんもおばあちゃんも私が生まれる前に亡くなってる。」
「お母さんは?他に兄弟は?」
「お母さんは私が小さい頃に死んだ。兄さんと私とシンの三人兄弟。」アミはセナの質問に淡々と答える。
「本家以外は?」
「分家?そんなのとっくに機能してない。ただの一般家庭。水だってそうじゃないの?」
「え。うん…。多分、水の方がダメだったんじゃないかな。お父さんが、火は偉い。生き残る道を見つけてる。って言ってたのを聞いた事がある。うちは弟子なんてもうほんの数人しか居なかったし。」
「水が潰れた後のうちも似たような物よ…内弟子もショウとカケルの後は居ない。それに今はあんなガラの悪い奴らがいっぱいで、もうめちゃくちゃ…」
「そう言えば、黒装束集団の事、TVのニュースで流れてたって、コウが言ってた。映像は無くて、気をつけてください。みたいなコメントだけだったらしいけど。」
「そう」そうよね。あれだけ目立つ集団がチンピラ並の事すれば…
「なんで黒づくめなの?この暑いのに」セナは最初に思った素朴な疑問をふと口にした。
「知らない。確かに真夏にあの格好は暑苦しい。一応あれは火の伝統的な服装ではあるんだけど。」そんな事どうでも良いと思いながらも、アミは答えた。
「へぇ、そうなんだ。何もしなくたって、あの格好だけでも目立つよね。」セナは何気なくそう言った。
あ!そう。そうだ。あの格好だけでも目立つ。あの目立つ姿のおかげで、私もあいつらをすぐに見つけられたんだった。今だって同じ様な場所をウロウロしているだけだし。…目立ちたいの?「もしかして、ガラの悪い集団として、目立ちたい?そのため?」アミはそう言って、セナを見る。
「え?」
「あいつらが何か事件でも起こして、捜査されれば、きっと火の本家にたどり着く」アミは目線を落としてつぶやくように続ける。
「うん」セナは頷いた。
「そうなったら?…火の本家を明るみに出したい?汚名を着せたい?…潰したい?…それが老師の目的?」アミは複雑な面持ちで頭の中の考えを口に出す。
「火を潰す…その為に水も潰したの?…でも、どうして?火への恨み?」その為に関係ない水まで?それとも水も恨んでるの?
「でも、そうなれば老師自身、ただでは済まない…どうしてそこまで…何を恨んで…?老師は、おじいさんの代の時からの内弟子よ。若い頃から強かったらしいわ。強いだけじゃない。厳しいけどやさしくて、人望の厚い人。内弟子達はみんな老師に稽古つけて貰って育ってる。私だってそうだった。みんなが老師の言う事を信用したのもわかる。」
それはセナには意外な言葉だった。
「お父さんだってそうよ。老師の事、とても頼りにしてた。お父さんが病気がちになってからも、本家の為に尽くしてくれて…みんなそう思ってた。」
「そんな人がどうして…?」セナは呟いた。
「いつ頃からだったか、老師に違和感を感じてたのはきっと私だけ。お父さんが病気がちになっていくらかした頃だった…多分あの頃から老師の何かが変わった…。私も竜が居なかったらきっと何も気づかなかったと思う。だから、みんなが何も思わなかったのは当然だと思うし、老師の言う事を信用したのもわかる。」でも、…悔しい。
「竜って?」誰だろ?セナは首を傾げて聞いた。
「え、ああ。家の犬。竜王丸って言って、すごく賢い犬。老師にも懐いてたんだけど、いつからか老師に対する態度が変わって。竜の微妙な変化に気づけるのなんて私だけだったと思うけど。竜、元気にしてるかな…」
あ。
心の声を思わず口にしてしまってアミは慌てて話を変えた。
「でも、セナが水の娘だったなんてね。びっくり。強さの理由は納得できたけど」
セナはアミのその様子に少し口の端をあげた。犬、かわいがってるんだ。
「うん。不思議。あんな風に偶然出会うなんて。…そう。偶然出会って、偶然一緒に居る事になって、偶然火が水を潰したのを見ていたショウ君の話を聞く事になって…偶然なの?」セナはアミを見た。
「え。偶然…でしょ。まぁ、お金もなくなって来てたから、色々好都合だと思ってここへ転がり込んだのは偶然では無いけど。」
「そうだったの?」セナは驚いた表情になる。
「そうよ。あの時、コウが転がってるの見た時、上手く転がり込めそうって思って利用した。気づいてなかったんだ。セナ、やっぱり相当お人よしね。」アミはフッと笑った。
セナは少し頷いて目線を戻した。セナにはもうそんな事はどうでも良かった。
「でも、出会ったのは偶然だし。私は何もしてない。それにショウの事は…こんな手の込んだ事仕込めないでしょ。仮に仕込んだとして何になる?」アミはセナに視線を送った。
「そうよね…」何故か、あの道の脇に咲いていたヒマワリがふとセナの脳裏に浮かんだ。なんだろう…私に水の敵を討てって事なのかな…
私は、どうするべき?セナは答えを求めるように夜空を見上げた。
「おー。良い感じになってきた」朝食を終えると、コウはそう言いつつピョンピョン跳ねた。
「ちょっと、まだちゃんと治ってないでしょ?やめなよ」セナが慌てて制止する。
「大丈夫だって。俺、昔っからこういうの治り早いんだ。それにこう見えてもまだ成長期だしな。」そう言うと、ニッと笑って見せる。
「成長期って、いくつ?」珍しくアミがコウへ話しかけた。
「二十歳」
「それ、もう成長期じゃ無いし」アミが呆れたように言う。
「でもな、まだ身長伸びてるんだぜー。」コウが得意げに言う。
「は。化け物?」更に呆れたようにアミが言った。二十歳で身長伸びてる人なんて今まで会った事無い。
「俺を軽々と担いだお前に言われたかねーよ」全く、かわいくねーな。こいつの状況が状況だけに同情はするけどさ…。それに、ま、こいつには助けられた恩があるしな。一応。
「あ。そ。」アミはいつものそっけない口調でそう言って、パンをかじった。
少し間を置いてアミがポツリと言った。「じゃあ、そろそろ帰れば?」
「え…ああ…」確かにいつまでもセナの家にやっかいになってるわけにはいかない。俺が居ても何の役にもたたないだろうし邪魔なだけだな…ここ、かなり過密状態だし。
「セナ…セナは?どうする?」アミは無表情にセナを見て聞いた。
老師、水の本家を焼かせたのが本当に老師なら… セナは迷っていた。
「…アミはどうするつもりなの?」
「私は…老師を倒したい。」アミの目が鈍く光ったように見える。
「でも…」倒せない…アミは少し唇をかみ締めた。
倒すって、殺すって事か?また物騒な…アミなら本当にやりそうで怖いな。コウは内心そう思った。「おまえの兄貴、老師がやったってんなら、警察へ言えよ」
「証拠がない。もう事故で処理されてる。…シンを探さなくちゃ」そう。まずシンを探さないと。もう4日になる。無事ならどこに居ても、どう思っていても良いから。
アミが苛立っているのが見て取れた。
「ねえ。家は?家に戻ってるって事は無い?」セナは思いついた事を口にしてみた。
「家…」アミも最初にそれは考えた。が、連絡した所で何も教えてくれるとは思えなかった。でも、今は状況が少し違うか。
「本家には誰が残ってる?」アミはカケルに向かって言った。
「えっ?あ…」カケルは急に聞かれて首を傾ける。
「電話してみる?」セナが携帯電話を取り出しながら言った。
「カケル。電話してみて。」
「え?僕が?」
「カケルが私と居るのが本家に伝わってるかどうかわからないけど、もし伝わってなければ、教えてくれるでしょ。私が聞いても答えてくれるとは思えない。老師に言われて電話してるってそう言いなさい。」
アミがそう言い終えると、セナはカケルに携帯電話を手渡した。カケルが緊張してるのが伝わってくる。
「俺が電話する」横になったままショウが言った。「おまえ嘘つくの下手だから」ショウはそう言って、カケルの方へ片手を伸ばした。
確かにショウの方が上手くやりそう。アミはそうなさいと言う風にカケルに頷いて見せた。カケルは安堵の表情を浮かべてショウに携帯電話を手渡した。
「はい。有難う御座います。」ショウは最後にそう言って電話を切った。
「シンは戻ってないのね。」それはショウの電話のやりとりから推測できた。
「はい。居なくなったって事すら本家には伝わってなかったみたいです。」
「電話、誰が出た?」
「拓未さんです。」
「拓未…」拓未が居るなら、きっと竜の面倒は見てくれてる。
「警察に捕まってる…って言うか、補導されてるって事は?カケルより年下なんだろ?」突然コウが口をはさんだ。
「だったらもう家に連絡が行ってると思う。シンは警察で何か聞かれて黙っていられるような子じゃない。私とは全然違うから。」
「そうか。…じゃ、病院は?」
「この辺りのは回って聞いた。どっちにしても家に連絡は行くでしょ」家に居ないなら、やっぱり老師の所へ戻るかどうか張ってるしか無いか…。他に行き場所なんて無いはず。
「…」ネタ切れだ。俺、ネタ少ないな。
「もう良いよ。ありがとう」アミは誰を見るでもなく言った。
へ?ありがとう?俺に言ったのか?アミが?俺に?
コウは驚いた顔でアミを見た。
俺にだよな?「い、いや。」コウは面食らっていた。
「もう、いい。コウ、巻き込まれて運が悪かったわね。火も水も忘れて。」アミは今度はコウをしっかり見て言った。
へ?全部忘れて帰れ。って、そう言う事か。
「俺の方こそ…いろいろ有難う」アミに向かってそう言うと、コウは、セナに目をやった。おまえはどうすんの?そう言う顔。
「私は…もう少し…考える」セナは迷いのある顔でそう答えた。「コウは関係無いんだし…ね」セナはそう言ってコウに微笑んで見せた。
関係ない…か。そうだな。セナは関係無くは無かったけど、俺は関係無い。コウは何故か少し寂しい気持ちがした。
「すまん。送って貰って」コウが申し訳無さそうな顔つきで言った。
「途中までだし」セナは微笑みながら答えた。
「色々、有難う。世話になったっきりで悪いな」コウはそう言って、少し頭をかく。
セナは首を横に振った。「コウの素朴さすごく和んだ。笑わせても貰ったし。有難う」
「え。いや。」
「自転車、乗れるようになったら取りに来て。勝手に乗って帰ってくれても良いけど。」
「とりあえず連絡してから取りに行く。改めて礼はちゃんとするから」
「うん。じゃあ、この辺りで。あとは駅までまっすぐだから。」
「あ。ああ。有難う。あのさ、何か俺でも役に立つ事あったら、遠慮なく連絡くれ。な」
「うん。ありがとう。じゃ、気をつけて。」
「おまえこそな。無茶すんなよ」本当にな。アミは老師倒したいとか言ってたし…。
「…仇討ちが許される時代じゃないんだからな」コウは最後に真顔でそう付け加えた。
セナは不明瞭に頷いて戻っていった。
コウは駅へ向かって歩きだした。自然とセナの言った言葉を頭の中で反芻していた。
素朴さ…?笑わせて貰った?それって、褒め言葉か?コウは頭をひねった。
「ま、いっか」褒められたって思っておこう。
セナは戻る道すがらコウが最後に言った事を考えていた。仇討ちが許される時代じゃない。うん。その通り。コウの言ってる事は正しい。でもアミは、老師を倒したいってそう言った。私はどうしたい?本当に水を潰したのは老師なのかな…ふと前を見ると、黒い集団がたむろしているのが目に入る。まだこの辺ウロウロしてるんだ…。セナは急にうんざりした気分になって、このまま真ん中をすり抜けていってやろうか、と無茶な考えが頭をよぎった。ああ、ダメ。そんなバカな事しちゃ。遠回りして帰ろう。そう思い直した時、老師の姿が目に入った。
老師…
セナは突然黒装束の男達の間を抜けて老師の前まで行った。
老師は一瞬眉間に皺を寄せたが、身動き一つせずセナを見ている。
「聞きたい事があるの」セナは老師を見据えて言った。
セナ!?馬鹿…集団を見張っていたアミはセナの方へ向かった走り出した。
「水を…水の流派を潰したのはあなたなの?」
やはり水の生き残りの娘だったか。こんな所で関わる事になるとは、奇遇だな。しかし、何故私が潰したとわかった?老師は何も言わずにセナを見ている。
「バカ。行くわよ」アミが老師を警戒しながらセナの腕をつかんで言う。
アミ、でも…
「答えて!」セナは老師に向かって叫ぶ。
「セナ!」セナの腕をつかむアミの手に力がこもる。
老師はフッと鼻で笑った。どうせあの時死んでいたはずの娘だ。『数年前に火事で家族を亡くした不幸な境遇の娘がまた不幸にも黒装束集団の犠牲者に。』マスコミが喜んで取り上げそうな話だな。
老師が不気味な笑みを浮かべた。
ドスッ
突然、何か鈍く重い音がした。
「アミ?」いつの間にかアミがセナの前に居た。
何がどうなったの?!セナには何が起こったのか理解できなかった。
「…邪魔するのか?アミ」老師は驚いた顔でそう呟いた。…どういう事だ。アミが?何故…しかし、面白い。老師はニヤリと口の端を上げた。そして男達に命令する。「行くぞ」黒い集団はぞろぞろと去って行く。
「待って!どうなの?!」セナは老師に向かって叫ぶ。
「ダメ。セナ」そう言ってセナの方を向いたアミの表情が険しい。
「アミ?」アミの腕から血が流れているのが見えた。
「アミ!大丈夫?」セナは驚いて、アミの腕に手をかけた。
あっ。腕だけじゃない。胸元も…「アミ見せて」セナは顔面蒼白になって、胸元を押さえているアミの手をどけさせようとした。
アミは、セナの手を払って、セナを一瞬睨みつけて目を伏せた。
「バカ、どうして…あいつがやったに決まってるでしょ!そんなの確めなくたって…」アミはそう言うと、悔しそうに唇をかみ締めた。
「ごめん、私…」馬鹿な事をした。馬鹿な事してアミに怪我させてしまった。
「怪我大丈夫?」
アミは何も言わずに行こうとした。
セナは慌ててアミを支えた。「アミ、アミ、怪我は…」
アミはセナを睨み見て、手をどけた。
「ひ、ひどい」セナの声が震えている。胸元からかなり出血している。
「死にはしない。鎖かたびら、役に立つ事もあるのよ。言ったでしょ。…2つ目の穴が開いたけど。」老師、本気でセナを…?
「アミ、ごめん。ごめん…」セナはただ謝る事しか出来なかった。
部屋へ戻り、アミはショウとカケルにあっちを向いてなさいと一言言うと、上半身脱ぎ捨て自分で怪我の手当てを始めた。
「やっぱり病院行こう。こんなの消毒だけで済まない」傷を見れば見る程セナにはそう思えてならなかった。
「ええ。消毒だけじゃ済まない。その袋取って」
アミはセナが指示されて手渡した小さな袋から針と糸を取り出した。
「アミ…縫うつもり?」嘘でしょう?「病院行こうよ。救急車呼ぶから」
「ダメ。この手の傷は病院行くとややこしい事になる」
アミは一度経験済みだった。鎖かたびらに一つ目の穴が開いた時だ。病院からすぐに警察へ連絡が行き、家にも連絡が行き、手当てが終わってからも事情聴取だの何だのと散々時間を取らされた。あの時ですらやっかいだったのに、今のこの情況では、間違いなくもっとやっかいな事になるだろう。それに、もし老師が本当に火の本家の事を潰そうとしているなら、そのきっかけを私が与える事になりかねない。
「でも、アミ、こんな…」
「もう黙ってて」そう言われて、セナはハッとして口をつぐんだ。しゃべってる余裕なんて無いんだ…当たり前。カケル達の方をチラッと見る。カケルもショウも言われた通り向こうを向いてはいるが、後姿からでも物凄い緊張感が感じとれた。
アミはそのまま自分で傷口を縫った。アミは声ひとつあげなかったが、歯を食いしばって耐えているのが見てとれた。
見てるだけでも辛い。でも、本当に辛いのはアミ。ごめん、アミ。
セナはただ見守っているしかなかった。
アミは縫合が終わって傷口をもう一度消毒しガーゼでカバーすると、さっきの小さな袋から薬を何粒か取り出して口の中へ放り込むと水なしで飲み込んだ。
「何それ?」セナが口を開く。
「抗生物質…化膿止め。痛み止め」化膿するとマズイ。これ持ち出せてて良かった。
「何か服、貸して」セナは慌ててタンクトップを取り出してアミに渡した。
アミはタンクトップを着ると、ベットに横になって目を閉じ、大きく一回息を吐いた。今まで緊張していたアミの全身の力が抜けたように見える。
「セナ、腕の傷、手当てして」思い出したように目を開けてそう言う。
腕の傷はそんなに大した事は無いようだ。腕はかすった程度だったんだろう。
「う、うん」セナはうわずった声で返事をして、ベットに横になったままのアミの腕の傷を手当てし始めた。
こんな事出来るなんて、するなんて…アミ、本当にすごい。セナの表情はこわばったままだ。
「私だって、こんなの初めてよ」セナの思いを読み取ったようにアミが言った。こめかみに汗が光っている。
セナは小さく頷いて呟いた。「ごめん」
アミは目を閉じた。疲れた。とにかく、休もう。ああ、コウみたいに化け物並の回復力が欲しい。…何を変な事考えてるんだろ…私。
アミはすぐに深い眠りに落ちていった。
「セナさん、大丈夫?」カケルが心配そうに声をかけた。セナは眠っているアミを見ていた…はずだが、いつの間にか目の焦点が合っていなかった。
え?あ。カケルの声にハッとする。「うん。大丈夫」カケル君に心配されるなんて。
「あの、一体何が…」カケルが遠慮がちに聞く。
「アミ、私を庇ってくれたの。」そう。あれは私を庇ったんだ。あの時は一瞬で何が起こったのか良くわからなかったけど、老師は私を狙ったんだ。「老師よ。」そう言いつつセナはあの時の不気味な笑みを浮かべた老師の顔を思い出していた。あの顔…やっぱり老師がやったんだ。老師が水を潰したんだ。そうに違いない。
老師…やっぱり老師が…。カケルは少し悔しそうな、それでいて悲しそうな顔をする。
「私が悪いの」セナはアミに目をやった。
そう、私が最初からアミの言う事を信用していれば、老師がやったに違いないって言葉を信用していれば…私があんな馬鹿な行動取らなければ、アミがこんなになる事はなかった…アミ、ごめん。「私…一瞬で良くわからなかった。気が付いたらアミが目の前に居て…老師、何か手に持ってたのかな…こんなになるなんて」
「老師くらいになれば、本気を出せば、手自体がもう鋭い刃物と同じだって…」話を聞いていたショウが横になったまま口を開いた。
「え?」セナはショウの方を見た。
「そう聞いた事あります。」ショウはセナの方へ顔を向けて言った。
「そう…」アミが庇ってくれなかったら、私…どうなってただろう…。セナはもう一度アミを見た。
「俺の…」ショウが小さい声で何か言いかける。
カケルもセナもショウの方へ目をやった。
「最初の一撃も…左足への…老師がやった」ショウはたどたどしくそう言い終えると、かぶっていたバスタオルを引き上げて顔を隠した。
ショウの左足は折れてこそいないがひどく痛めていた。『この子達、あんたより強いかもよ。』アミがコウへ言った事はあながち嘘ではなかった。
そうだ。いくら相手が複数でも、ショウがチンピラまがいのあんな奴らにやられるわけないんだ。足が…最初に足をやられて動きを奪われていたならわかる。老師が…。
カケルの中で、尊敬する老師の姿はどんどん崩れて行っていた。
この子達、老師のこと信用していたのよね。ショウ君、その老師にそんな事されて、こんなになって…ショックで無い訳ない。カケル君だってそう。この子達だって辛いはず。
私、しっかりしなくちゃ。
アミは夢を見ていた。
火が、炎が迫って来る。爽やかな音を立てて流れている目の前の小川のせせらぎが一瞬で蒸発して消えて無くなる。
アミは目を覚ました。アミの寝ているベットに突っ伏して眠るセナの姿が目に入る。
老師はセナを殺そうとした…火は水には敵わない。でも、たった一滴の水、火にさらされれば消えて無くなる。
アミはさっき見た夢を思い出した。
セナ…私はどうしてセナをかばったんだろう。出会ってまだたった数日なのに…。どういう訳か最初からセナには惹かれていた気がする。セナのあの動きに興味があるんだと思っていたけど、そうじゃない何かがあったような、そんな気がする。セナが水の娘で似たような境遇だとわかった今だからそう思うのかもしれない…セナだけが私の事を信じてくれたからそう思うのかもしれない。けど、もう自分でもわからないし…そんな事はどうでも良い。ただ一つ確かなのは、今、私にとってセナは特別な大事な存在だと言う事。セナを今すぐ田舎へ帰らせた方が良い?でも、セナは私の弱み。いつの間にか弱みになってた。それは老師も気が付いたはず。何かセナを利用しようとするかもしれない…?一緒にいた方がまだ安全?シンもみつからないって言うのに…問題ばかり増える。とにかく、回復しない事には何も出来ない。まずはそれ。
朝になると、アミは、カケルに黒い集団を見張るように言った。シンが戻ってないか、戻らないかどうかを。「カケル、無理するんじゃないわよ。わからなかったらわからないで良いから。絶対見つからないようにして。」今、カケルにまで怪我されたら大変。
「はい。…ショウの事…」カケルはそう言って心配そうな顔つきでセナを見る。
ショウは元々騒がしいタイプではない。感情もあまり表に出さないし無口な方だった。が、ここへ来てからは愛想笑いの一つすら目にしていない。カケルはそれは単に怪我の所為だけでは無いと思っていた。カケル自身もそうだったが、やはり色々とショックを受けているに違いない。ショウは一見淡泊なように見えるが実はかなり繊細だと言う事をカケルは良く知っていた。カケルはそんなショウの事が少し心配だった。
セナはカケルに向かって微笑んで頷いた。任せて。とそう言っている顔だ。「いってらっしゃい。気をつけてね」
「はい。行ってきます。」カケルは少し安心したような表情を浮かべて出かけて行った。
アミは、自分の傷の様子を見る。
うん。大丈夫そう。
アミは傷を消毒しなおして新しいガーゼで覆う。
「痛む?」その様子を見ていたセナが聞く。
「痛いわよ。」アミは痛みなんて感じて無いような口調だった。
だが、痛くないわけがない。実際痛み止めを飲んではいてもかなり痛みはあった。
「本当に病院行かなくて大丈夫?」セナが心配そうに尋ねる。
「大丈夫」アミは無表情に即答する。
「…ごめんね。私が…」セナは申し訳なさそうに下を向いた。
「…もういい。心配しなくても治るから。」
「アミ、庇ってくれたんでしょ?私、老師の姿、見えなかった。だから一瞬何が起こったのかわからなかったけど、後で考えてわかった。」
アミは何も答えなかった。
「最初の時もそうだった。私には老師の動きが捕らえられない」セナは悔しそうだった。
「…そう。5年…5年もブランクがあって、あれだけ動ければ大した物だと思うけど。」アミは慰めでは無く、本心でそう思っていた。
「ずっと、体が鈍らないようにだけはしてたから。こっちに出てきてからはそれもあまり出来なくなったけど。」
「セナ、火事の時、どうして助かったの?」アミは何気なく聞いた。
「家に居なかったの。私、あの日、田舎のおじいちゃんの家に居た。」
水の本家に居ればセナも一緒にやられてたに違いない。運が良かったのか、悪かったのか…アミはそんな事を思った。
「私、訓練好きだった。強くなるのが楽しかった。物心付いた時にはもう訓練づくしで、ううん、きっと物心付く前からそうだったんだと思う。辛いと思う時もあったけど、でも頑張れば頑張る程強くなって、体が面白いくらい思い通りに動くようになって、それが嬉しくて。」セナは聞かれもしないのに突然自分の事を話し出した。
「ああ、私もそうだった。」アミは同意した。
「あの夏。私、練習中に相手にひどい怪我をさせてしまって…水は避けが基本動作。動きが流れるようにみえるのはそのせい。ガード一つしないでひたすら避け続けるから動きがほとんど止まる事が無い。それで流れるように見える。」
そう言えば、最初にセナとやりあった時、そんな動きだった。私が攻撃をしかけてもイライラするくらい避けて。それでつい深追いしてしまったんだった。アミはセナの動きを思い出していた。
「勿論、避けるだけじゃ相手を倒せないから、避けながら急所を狙えるタイミングを待って一撃で決める。水は本来はそういう武術。」
「火とは随分違うのね。火は攻撃型。最初から攻めて攻めて攻めまくる。」
「うん。そんな感じ」セナも最初にやりあった時のアミの動きを思い出してそう答えた。
「あ、もしかして、火は水に敵わないって言われるのはその所為?火は攻撃重視な分ガードが甘い。その上攻撃を避けられたら隙も出来やすい」アミが思いついた事を口にした。
「ああ…そうかもしれない。でも、水は人を守るのには向いてない。…火はSPみたいな仕事やってるんでしょ?」
「え?ええ。知ってたんだ?」アミは少し驚いたように言った。
「お父さんが言ってた。火の本家はあれで生き残れるって。」
「ええ。まあ、そうよね。避けてたら人は守れないか。」アミはそう言って軽く頷いた。
「うん。…なんか話それちゃったけど。勿論、練習で決めの一撃なんていれない。手前で止める。」
アミは当然そうでしょうと言う風に頷いた。
「なのにあの日、魔が差したって言うか…練習中に、避けてる最中にふと思ったの。これ最後決めたらどうなるんだろう?って。」セナはうつむき加減になっていた。ショウ君にも聞かれたって構わない。そう思っていた。
アミは無表情にセナを見ている。ショウはただ話を聞いていた。
「あれは止め損なったんじゃない。わざとやったの。急所には入ってないけど、ひどい怪我だった」セナはまるで懺悔でもしているかのように続けた。実際セナにとっては懺悔に等しかった。《わざとやった》今まで誰にも言わなかった…と言うか、言えなかった話だ。父親にも母親にすらも。何故アミに話そうと思ったのか、話せたのかセナ自身もわからなかった。
「死んだわけじゃないんでしょ?」まぁ、相手はまさか攻撃が来るとは思ってなかっただろうし、ひどくもなるだろうな。アミはそんな事を思いつつ聞いた。
セナは頷いた。
「何か恨み言でも言われた?」
セナは首を左右に振った。「『もういいですから。心配しなくても治りますよ。』って。…さっきの…アミと同じ事言った」セナはチラッとアミを見た。
アミは黙っていた。
「…それまで自分の手があんな事出来るなんて、思った事すらなかった。急に怖くなったの。初めて怖くなった。色々考えてしまって…人を傷つける為に訓練してたのか…とか。それ以来、まともに練習できなくなったの。それで、お母さんの田舎に行く事になった。ちょうど夏休みだったし、一度環境を変えてみたらどうかって。私がおじいちゃんの所へ行った、その日の夜中だった。…火事」そこまで言って、セナは黙ってしまった。何か思い出しているのか、考えているのかそんな様子だ。
アミは何も言えなかった。何と言えば良いのかわからなかった。
「一人生き残ってしまった。私も一緒に死にたかった。どうしてあの日、田舎なんか行ったんだろう。」しばらくしてセナはポツリと口を開いた。「そう思った。最初の頃は本当にそう思った。でも、いつまでもそんな事考えてても仕方ない…って、頭ではそう思っても考えてはしまうんだけど」セナはその頃の事を思い出したのか辛そうな表情をした。
アミは心の中で相槌を打っていた。
「そういうのは時間が経つと薄れて行ったけど、お父さんがあんなに大事にしていた水を、本当に私はどうにもしなくて良いのか。ってそう言う思いは心のどこかにずっとあって。実際問題、私一人ではどうにも出来ないんだけどね」セナは少し苦笑した。
「それでも、何て言うか、そういう煮え切らない思いがずっとあった。もう普通の子と同じ生活をして良いのに、何か夢を持ってそれに向かって行ったって良かった。でも、出来なくて。とりあえず体が鈍らないようにだけはしてみたりとか。なんかどっち着かずで全てが中途半端で」セナは首を小刻みに横に振った。小さく溜息をついたようにも思えた。
「私…アミにこんな風に出会ったのとか、ショウ君からあんな話を聞いたのとか、偶然には思えない。家の…水の事、きっちりかたを付けろって事なんじゃないかって。お父さんやお母さんがそう仕向けたような気がしてならないの。私一人じゃきっと無理だから、アミと一緒に頑張れって、そういう事なんじゃないかって。そんな気がして…」
セナの頭には何故かひまわりの花が浮かんでいた。
「アミ、私、足手まといかもしれない…きっと足手まといだと思う。アミにこんな怪我までさせて。けど、」セナは顔を上げてアミを見た。
「一緒に居て良い?私も…老師を倒したい。」セナは、アミをしっかり見つめてそう言った。何故か頭の中ではコウの言葉が思い出された。『仇討ちの許される時代じゃない』わかってる。コウ、そんなのわかってるけど…。
アミは、ずっと黙ってセナの話しに耳を傾けていたが、最後まで聞き終えると、セナをじっと見つめ返して、頷いた。
そして言った。
「セナに一緒に居て欲しい。」
どうしたんだろう、私。人に対して、こんなに素直になれるなんて…いつぶりだろう。セナだから?
そのアミの顔は、セナにはどこか優しげに見えた。
セナは嬉しそうに微笑んだ。
アミは不思議な感覚に襲われた。なんだろう、この感じ。傷の痛みなんて忘れるくらい胸の辺りが暖かい。
アミは問いかけるように自分の胸に手を置いた。
私…嬉しいんだ。
セナが一緒に居てくれる。嬉しいんだ。
アミも自然と微笑み返していた。