第97話「涙は枯れない」
あっ、と口から漏れるのは、声になりきれなかった呼気である。一度手から離れた手綱は縛るものがなくなったのを良いことに、凝縮され複雑な魔法陣を描いていたものが空気を巻き込んで拡散し、その勢いは咄嗟に止めることが出来なかった。
意識を集中し魔力を統制しようと試みたものの、全くもって反応しないそれに、私は絶望してせめて生き残らなければならないという思いのままに、魔法障壁を展開した。
仲間にも同様に守護をかけると、暴走した大量の魔力と防壁に注いだたっぷりの魔力のおかげでくらくらするが、どうにか意識は手放さずに済んだ。
それでも右脚が動かなくなったおかげで立ち上がれない私は、じきにブラオの手で屈服させられる。その後どうなるかは……神のみぞ知る、というもの。
「は、ぁ」
障壁の向こう側、至近距離で吹き荒れる炎と水と、それらによって粉微塵にされた植物の残骸は、この防御が解ければ真っ先に私を蝕むであろうことは、深く考えるまでもなく理解できる。
また、すぐ近くにはブラオもいたはずだが、彼は神であるのだからこの程度では相討ちにはならないだろう。
罅が入った防壁は、それでも何よりも頼もしく見えて、私は薄く微笑んだ。
倒れていてもわかる。セルカ様があの嵐の中心部にいることは、この奴隷契約が俺に教えてくれた。限界まで弱められた契約が薄らと「主人を助けろ」と警鐘を鳴らすのが鬱陶しかった。
俺は契約なんかに態々言われなくても、彼女を守りたいと思っているし、救われた命は恩人の為に使うと心に決めていた。今にも損なわれていまいそうな彼女の命の灯火は、何よりも尊くて綺麗に見えた。
その光に手を伸ばそうにも、愛の神、ブラオが何かをしたせいで身体は指一本も動かせず、瞳だけきょろきょろと動かして、歯を食いしばることも筋肉に力を込めることも魔法を使うこともかなわずに、ただ脱力して地べたに這いつくばっている。
無力感に、心臓ばかりがどくどくと五月蝿く音を立てて、情けなくも涙が滲んできてしまった。
それでも彼女の気配と、そして目の前の防壁が消えない限りは救う術はあるはずだ。自分の命を削っても、最悪の場合は命を捨ててでも。
それで彼女が泣いてしまうとしても、命が無ければ泣くことさえ許されない……!
眺めることしかできないでいるうちに魔力の渦から先に出てきたのは、当然だがブラオだった。ピッタリとした衣服が破損し水に浸され草の汁で汚れ髪が焦げていても、彼が生きていることには変わりない。
それを見た途端、俺の赤い腕に、僅かに力が篭もるのがわかった。
それは怒りか何なのか見当もつかなかったが、その感情、または奥底に眠っていた力はブラオの忌々しい拘束から抜け出すための糸口となっているため、利用するほかに選択肢はない。
イヴァに手を掛けたまま脱力していた右手が遂に確りと相棒を握り締め、それから身体を温めるような柔らかい魔力が流れ込み、それを貪欲に取り込んで、身体強化の魔法を発動させる。
動かなかった身体は火をつけたように熱をもちながらも力を取り戻し、脳から出される命令を次第に受け付け始める。
「ぁ、あああ」
開きっぱなしの口に砂が飛び込むが、俺はいつの間にか声を上げていた。
「あああああああああああ……ッッ」
絶叫に呼応するように、溢れ出した魔力が身体を覆う。イヴァから流れる魔力の質が変わり、暴力的に尖ったものが体を侵す。幾ら激痛が走れど、呼吸が苦しくなれど、それでもそれは、救うための力。
立ち上がり走り出した俺を見て、ブラオは嫌らしく笑みを浮かべて「ブラボーッ!!」と言って俺からの攻撃に備えるような動きを見せるが、目指すのは別方向だ。
身体を覆うイヴァの魔力が次第に甲殻のようなものを成形していくのは、嵐から俺を護る為であろうか。
汚れた色合いの嵐に飛び込めば、暗く狭い視界にぼんやりと光るものが映り込み、それがセルカ様の展開している防壁であると直感的に理解した。
無数の罅割れが彼女の命の短さを表すようで、意識するまでもなく脚の動きが速くなって、半ば体当たりするように彼女の上に覆い被さることに成功する。
痛ましく身体中あちこちを茨に蝕まれた彼女は、瞳を閉じてはいたが浅い呼吸と体温が感じ取れた。
「イヴァ、助けてくれよ……」
情けない自分の声が、轟音の中で微かに聴こえた。
私を包む灼熱が、まだ眠りたがっている意識を叩き起した。地獄にでも堕ちたかと思って身動ぎするが、拘束があまりにも余裕のないものであるおかげで動けなかった。
暗闇に鎖された左眼はそのままに、無事であった右の瞼を持ち上げると、そこには黒い、装甲のようなものを被ったナニカの姿が見えた。
ブラオの追撃も無く、拘束さえ解ければ動かせそうな身体……何があったのかはわからないが、この化物に助けられたことは確実であろう。
と、そこまで考えたところで、その黒い装甲から見慣れた深紅の魔力との繋がりが私に絡みついているのを感じ、息を飲んで、恐る恐る口を開いた。
「トー、マ?」
私の声に反応してか、黒い鎧は僅かに動いた。そのときに漏れ出た吐息、それに混じった甘く低い声は、完全にトーマのもので。
「…………ぅ」
最凶な失敗の産物を一身に受けてまで守ってくれた彼の体熱にあてられて、私はこれまでになく不細工で、しかし見た目年齢相応の泣き顔を晒した。
負けちゃったよ。みんな、ついてきてくれたのに。
ひとしきり泣き喚いた私は、目を真っ赤に腫らしながらようやく冷静に言葉を紡ぐことができるようになった。
どういう理屈か魔剣イヴァから生成された装甲はまだ身につけたままで、トーマの特徴である赤い肌がほとんど隠れてしまっている。
それを装着している間はイヴァを手に持つことはできないようで、しかしその代わりに身体中から生やすことができるらしく、泣き止んだ私の横で使用感を確かめている。
戦闘は継続中かと思いきや、ブラオは完全に警戒を解いて、そのうえ泣き止んだ私に近付いてきて、笑った。
「いいものが見れたよッ!!」
彼が指を鳴らすと私の視界が拡がり、右脚に感覚が戻る。僅かに冷たくなっていた体が熱を取り戻した。魔力酔いによる諸々の体調不良も終息して、わきわきと指が滑らかに動くのに感動した。
合格だったのか、と恐る恐る彼の顔を見上げると満足そうな表情で頷かれ、私はもう一度襲い来た涙の波を堪え「ありがとうございます……!」と深く深く頭を下げた。
それから十秒くらい経ってから顔を上げて周囲を確認すると、トーマが動いているので解かれていたのかと思っていた金縛りは解除されていなかったようで、皆が倒れ込んでいる状態なのが目に入る。
不思議に思っていると、ブラオはすぐに魔法を散らし、マジムやバウなど身体能力の高い者からじわじわと起き上がり始めた。
「……トーマはどうして?」
私は疑問を口にして、愛の神は軽やかな足どりで目の前にやってくると片目を瞑った。
「愛の力、だねッッ」
…………察するに、愛する人への想いが誰よりも強かった者が拘束を抜け出すことができた、ということか。そのように魔法をかけたのなら、なんとも悪趣味なものだ。
黙り込んだ私を理解していないと思ったのかブラオは魔法の効果を説明してくれるが、予想と大差ないことがわかる。精神に強く結び付いた魔法ほど難しいため、彼の魔力操作技術の高さがうかがえる。
家族愛、いや、主人愛か。トーマの顔を覗き込めば、彼は色恋の方の「愛」を想像したようで気まずそうに目を逸らし、肌の赤みが深まっているように見受けられる。
それにしても、だ。
マジムって、私のことが好きで使い魔になってまでついてきたのではなかったのか……とそんな疑問が浮かんでくる。見れば、ブラオの説明を聞いた彼は打ちひしがれたような顔をしてその場に立ち尽くしていた。
まけた、たかが鬼人に、とうわごとのように呟いている様は貞子も逃げ出す恐ろしさ。彼の内から発される神気が今までにないくらいの哀愁を伴って、冷気を放つようだった。
そんなマジムを見て悪戯っぽく笑うブラオは愛の神というより遊戯の神のようで、私もつられて笑ってしまった。
「じゃあ、落ち着いたら中においでよッ」
カッとヒールを打ち鳴らし、ブラオは立ち去った。
残るのは、戦闘前のような微妙な空気。
「トーマ」
私が呼びかけると、彼はイヴァを手元に戻してやっと素顔を見せてくれた。それを見てなんとなく安心して、力の抜けた笑みが零れた。
「ありがとう」