第88話「ひそむもの」
閑散とした広い通路を進む私たちの足音が、反響している。海の音がゆったりと鼓膜を揺らす。そこは生きる物の気配の薄い、ある種の神秘性を感じさせるような城。
目の前を行く銀髪の男もそれはそれはこの世のものとは思えない美貌の持ち主で、偶に振り返って私がいることを確認するその顔に刻まれた一筋の傷痕は、罪悪感を感じさせてくる。
あのような神々しいものにすら傷をつけることのできる女神の短剣は、そういえば彼……女神の殺意と同じ言葉を頭に持つ。これもそういう類いなのだろうかと緩く首を傾げた。
私の格好は、攫われたときから変わらず。肩には黒助がちょこんと乗り、少し距離を置いて影に潜みつつ付いてくるアルステラはまだ具合は悪そう。悪魔がこのような神の領域と思われる場所で生きられることから、彼の位の高さがうかがえた。
心配に思いながらも歩幅の違いで置いていかれないようにと必死に神器に縋り着けば、彼はようやく、仰々しい扉の前で足を止めた。
「さぁセルカ、神判の刻だ」
彼の言葉を合図に、重そうな扉が音もなく開いた。
そこにいたのは深い碧の短髪を雑に後頭部上でまとめた女性。癖が強いのか毛先があちこちに向かっていて、髪型だけで元気そうな印象を受けた。
気の強そうな眉にはっきりとした目鼻立ち、ツリ目だが性格の悪そうでないので、見た目だけなら頼れるお姉さんキャラに見えてくる。
彼女は動きやすそうな、比較的面積の少ない服装をしていて、右手に持つ飾りもののような三叉の矛は、女神の殺意なんかよりも圧倒的に強く濃い神気を纏っていた。
「よぅ、セルカちゃん」
はつらつとした笑顔で呼びかけられるが、動けない。そんな私を見た女神の殺意は、私を引き摺るようにして碧のお姉さんの前に連れて行った。
「さっちゃん、それは流石に扱いが乱暴だよ」
窘めるように言ったお姉さんは、ひょいと距離を詰めると女神の殺意の肩を小突いた。それだけで彼は神気を霧散させて無骨なひとつの武器に戻ってしまう。
がらりと冷たい音を立てて床に転がった女神の殺意を爪先で蹴り、お姉さんが近付いた。
「フレイズ様のお気に入りで、女神様が目の敵にしているんだってね?」
確認するような声色だったが私はわからず、頭の中に大量のはてなマークを浮かべるのみ。そんな私に気を悪くすることもなく、お姉さんは歯を見せてニシシと笑う。
「あたいはウィーゼルってんだ。今のところは中立派。天空の、は女神派だから気をつけるんだよ」
頭にぽんと手を置かれて、私は少し頬を赤く染めた。強大な神力を纏うとても綺麗な女性で、海底の城に住む……海の女神なのだと本能的に察した。
「……えっと、あまりその話を詳しく知らないのですが」
遠慮がちに彼女の瞳を覗き返すと、ウィーゼルは少し考え込む仕草をした。
「知らないか。ふぅん」
考えながらの返答はやや冷たく、背中の毛が総立ちする。友好的に思えていたが、実際はどうなんだ?ごくりと唾を飲み込むと、優しい笑顔のままでウィーゼルが小悪魔的に首を傾げて微笑んだ。
「………………無自覚なら怖いね。本質の善悪は、戦えばわかってくるよね?」
その瞬間、咄嗟に距離をとる。頭の上に置かれていた彼女の拳が握り締められているのが見えて、肝が冷えた。まさか、こんな流れになるとは思っていなくて、それに城の主に不敬ではないかと思って武器は出していなかった。
急いで短剣を取り出すが、彼女の三叉の矛とはどうにも相性が悪そうだ。短剣と女神の天弓を入れ替えると、見えない弦を引き絞る。
「あーぁ、そんなのまで手に入れて。危ないね」
一度手を離せば、数十の魔法の矢が放たれる。私の特殊な神力の混じった魔力でできた矢は、一応効くようで、ウィーゼルは防御する。ひとつ残らず弾き、余裕がありそうだ。
「大丈夫、ここなら生き返れるよ。あたいも本気じゃないし、かかっておいで」
そう言った彼女は何かの固有技能を発動したのか、変な光が彼女と私を包み始めた。害のあるようには感じられなかったし、彼女の目が「払うな」と訴えてくるので、放置する。
魔法より圧倒的に少ない魔力で多くを紡ぐ天弓の矢だが、次々に撃つうちに、気付く。中級以上の魔法に込めるのと同じくらいのたくさんの魔力を使わないと、防御されないことすらある。つまり、効かない。
防御するまでもない、そんな威力の矢に混ぜて効力の強い矢を放つが、それはそれで瞬時に見極められてしまう。雨のように降る矢にも顔色ひとつ変えずに対処されてしまう。
そこで私は矢だけでなく魔法も織り交ぜ始めた。外から見たらさぞかし煌びやかで美しいことだろう、色とりどりの光が私を起点に海神ウィーゼルに向けて飛翔する。
彼女の視線がほとんど空中に固定されたのを確認して、私は爪先で二回、床を叩いた。
(……クエイク)
ドン、とひとたび大きな揺れが伝わり、その後床が割れる。地が揺れ、地割れのちょうど上にはウィーゼルが立っており、彼女は唐突に起こった地震に目を見開いたようだった。
私は私でその威力に驚くが、そのまま魔法攻撃を続ける。絶え間ない魔法と、消えた足場……それでもウィーゼルは直ぐに冷静さを取り戻す。彼女は神の一柱、落ちてくれれば幸いと思ったが、どうやら彼女は飛行能力も持っているようだ。
空中に浮かんでにっこりとやわらかであたたかな笑みをこちらに向ける彼女は、私からすれば悪魔のように思えた。
ただただ矢と魔法を放つ。避けられ、弾かれ、流される。その攻防はしばらく続いた。しかし、終わりは唐突にもたらされるのだった。
「セルカちゃん、よくわかったよ」
一瞬にして肉薄したウィーゼルは、三叉の矛を私の腹に突き刺して笑う。
「あなたにはよくないものがついていて、それが無ければ絶対に神に仇なす者になりやしない」
よくないものと聞いて、私はビクリと肩を震わせた。それは、どれのことだ?私が目覚める前のセルカか、それともわたし……?
視界が狭まるような感覚がして、呼吸が浅くなる。矛はどのような神器かわからないが、私は痛みを感じなかった。それどころか血すら流れず、私は矛の突き刺さるさまを不思議な表情で眺めた。
すると、湧き上がってくるのは、黒い魔力と別の意識、感情。憎い、神が憎い。私を独りにした。仁を独りにした。特別だったはずの私は、ジンの特別にはなれなかった…………。
魔力が溢れ出し、遂に身体の感覚もそちらの意志に支配された。女神の短剣を取り出したセルカは、私の想いを置いて動きだす。
それを見たウィーゼルは、予想通りだとでも言うように頷いて三叉の矛を抜き取った。セルカはその武器に視線を注ぐが鑑定不能という文字が視界に浮かぶだけだった。
「女神フレイズはどこよ!!雪音の記憶には男神のフレイズしかいないわよ!女神フレイズは誰?私を見殺しにしたあの女神はっっ……!!!!!」
ぼろぼろと涙を零し、セルカは叫んだ。駄々をこねる子供のように手足を振り回せば、手に持った女神の短剣から魔力の刃が四方八方に放たれて美しい謁見の間はあっという間にボロになる。
それをみて私は慌てるが、セルカは止まらない。遠目に見ていたアルステラが焦り、髪の中の黒助が慌ててしがみつくのも気にしない。ウィーゼルはそんなセルカを見て、眉を顰める。私の中の彼女を表に出して本心を聞くつもりだったのだろうが、その結果ウィーゼルの心に迷いが生じたのだった。
「…………男神が、起きている?」
そのつぶやきは、私からもセルカからも不可解に感じられるものだった。私にとってこの世界の主神は、私に新たな人生を与えてくれた男神フレイズただひとり。しかしセルカの発言から予想すると、彼女は女神フレイズに何らかの形で干渉を受け、人生を狂わせた。
ブツブツと呟く内容からは、セルカが女神フレイズの手で友達と共にこの世界に来たことが分かる。そしてその友達の名前が「ジン」だということも……。
(私が転生して上書きしたこの身体は、ジンの友人の転生体…………?)
混乱していると、そのうちにセルカはウィーゼルに拘束される。水でできた蔦のようなものが体に巻きついて動きを阻害し、また魔力の収束を邪魔する。あっという間にセルカは何も出来なくなってしまった。
はじめは喚き散らしていたものの、次第に落ち着いたのか落ち込んだのか、セルカはぐずぐずと鼻水と涙を流しながら項垂れる。私の顔がぐちゃぐちゃになっている……。
泣きじゃくるセルカは見た目相応の年齢の子供のようで、私は何とも言い難い気分だった。自分が異物なのではないか、と思ってしまった。
ウィーゼルはウィーゼルで、同情したわけではなさそうだが傷つけることをやめ、セルカの前に目線を合わせるように膝をつくと、そっと頬に触れながら微笑んだ。
「ごめんね、苦しかったね。君の本心は十分に伝わった」
その仕草に私は胸がきゅうと締めつけられた。自分の体なのに他人の人生を覗くかのような気持ちになって、私の中にいたセルカの生きてきた環境を知った。
「セルカちゃんがあなたを受け入れたから、本当は消えるはずだったものが残ったんだ。消えるはずだった……というより、消せなかったから上書きしようとしたものが、かな」
なにか決意した表情になったウィーゼルは、三叉の矛で一度床を叩く。音が響くと、謁見の間は瞬く間に新築同然の美しい様相になり、そして私に身体の主導権が返還された。
唐突に戻った感覚には慣れなくて、へたり込む。駆け寄ってきたアルステラが支えてくれるが、むしろ彼を支えたくなるほど、その悪魔の気配は希薄だった。無論、それは神域にいるからであろう。
そんな彼に配慮してか、ウィーゼルは神気をそっと抑え込む。それだけで顔色がマシになり、私はひと安心。そのせいでさらに力が抜けてしまった。
ウィーゼルが背を向けると、すらりとしたそのシルエットが異様にハッキリと視界に刻まれた。
「やることができたよ。セルカちゃんにもお迎えが来たようだし」
そう言って彼女が一歩踏み出すと、その姿は数えきれない無数の泡と小魚になって海に消えていった。三叉の矛も消え、残されたのは私たちと行動権を奪われた神器・女神の殺意のみ。
息をつけばうるさく感じるほどに響き、なんだか可笑しくなって、私はアルステラの腕の中で笑った。
私の中にいるセルカは、これまでにないくらいに存在感が無くて、ただひたすらに泣いていた。