第202話「それは不完全で、尊い、」
目が覚めると、淡く水の碧を吸い込んだ太陽光が窓から降り注いでいた。
ウィーゼルの神殿だ、と気付いて起き上がろうとするが、関節が軋むような感覚がして上手く動かせない。長く眠っていた……少なくとも丸一日は寝ていたのだろうとあたりをつけて、自身の状態を確かめていると、ふと部屋の中にいたトーマと目が合った。
驚くでもなくただ嬉しそうに頬を綻ばせた彼は、私の上体をそっと抱き起こして背中にクッションをあてがうと、私が倒れないことを確認してから水の入ったグラスを渡す。
手指こそ油を差していない機械のようにぎこちなく動いているが、神力は有り余っていて、私は実体化させたそれを腕の代わりに扱った。
グラスは独りでに傾き、私は冷えた水を喉に流す。渇ききって舌が張り付くようだった口内も潤い、ようやく声が出せるようになった。
「……おは、よう」
「あぁ、おはよう。とりあえず人を、呼んでくる」
私の声はものすごく小さかったけれど、静かな部屋で聞き逃すほどのものでもなかったようで、トーマは咳払いを混ぜながら返答した。
扉の向こうに去る彼の背を見届けて、私は虚空から取り出した柑橘を神力で圧し潰し、ほのかに甘く目が覚めるほど酸っぱい果汁をグラスに落とした。
そのまま再度グラスは傾き、飲み込んだ液体は頭にモヤがかかったような寝過ごした朝のような感覚を押し流す。
人が集まる前に最低限動けるようにと身体強化の術式を丁寧に全身に行き渡らせているうちに、トーマはウィーゼルとマジムを伴って戻ってきた。
「セルカちゃん……」
眉尻を下げて、普段は束ねている髪を下ろしているウィーゼルがトーマを抜かして私の前に来ると、なんだか随分と彼女が弱々しく見えて、私は小さく首を傾げる。
その動作で身体が動くことを思い出し始めたのだとわかり、私はのろのろと体勢を変える。とりあえずは、立ちたいとは言わないが床に足をつけたかったので、ベッドに腰掛けるような体勢を選ぶ。
「ねえ、セルカちゃん。あの時……」
ウィーゼルは不安げに瞳を揺らしながら、視線を合わせるためにしゃがみ込んだ。何を話し出すかなんて事情を知る者ならば誰でも察するだろう。
だから、心を整えた。そして、耳を傾ける。
「感情的になって、酷いことを言ったんだ。あの時どこまで聞こえていたのかはわからないけど、あたいがセルカちゃんに求め過ぎてた……今になってわかることだけれど、セルカちゃんは巻き込まれて利用されただけだったのに」
記憶に残っている、怒気とそれを孕んだ声、射殺すような視線。あれはそもそも作戦とはいえ無対策のうちにマジムを攫った女神フレイズに向けられるべきだったのだと語るウィーゼル。
でも、私が間違ったのは本当だし、弱かったのも事実だ。大きな存在の神力が失われることが、どれだけ拙いことなのかもわかっているから、取り乱すのもわかるのだ。
逃げた私が弱かっただけ。手を差し伸べてくれたミコトがいて、それに私が縋っただけ。ずっと、耳を塞いでいただけ。ミコトの記憶も覗かずに眠っていた私にとっては、勝手に過ぎてくれる時間だけが救いだった。
「結局、セルカちゃんは主神を受け継いだよね。フレイズ様が巻き込んで、騒動全ての尻拭いも、セルカちゃんに押し付けられたようなものでしょ……」
涙を浮かべるウィーゼルは、私が一言も発さずに話を聞いているのをどう感じたのか、数秒の閉口の後に抱きついてきた。
「無責任にも、今、あたいは、セルカちゃんに跪いて頭を垂れなければならないって、主神に対する態度をとれって、あの時のセルカちゃんに対してじゃない謝罪をしそうになってた。でも、ちゃんと謝りたくて」
しゃがみ込んだのではなかったのだと気付いたのは、その言葉を聞いた時だった。もしかして、仲間にもそんな態度を取られるのかな、とか、トーマはいつも通りだな、とか、申し訳ないけれど謝罪よりもそっちに動揺した。
でも、ウィーゼルは、膝をついた理由を話したときに私の肩が震えたのに目敏く気がついたようで、落ち着くまで言葉を重ねることはしなかった。
私がトーマから視線を戻すと、ウィーゼルはその場に両膝をついて、私を抱き締めていた腕を外し、私の手を両手で包み込んだ。そして彼女の瞳から涙が零れ、私の手が引き寄せられ、大海神は私の手を胸に抱きながら小刻みに鼻をすすり泣いた。
「心無い言葉を、ぶつけて、ごめん……。戻ってきてくれて、よかった……ありがとう」
私はそんな彼女の旋毛に視線を落とし、穏やかな気持ちで微笑んだ。
「こちらこそ」
結果的に、ミコトの行動力がなければ解決しなかった部分もあるだろう。私が責められずにあのままいても、空元気で動く抜け殻のようになっていたかもしれない。
どれも憶測にすぎないけれど……トーマとその横に立つマジムに視線を向け、それからもう一度ウィーゼルを見ると、やっぱり、生きているから良いという気持ちになる。
私が主神フレイズの名を継ぐことになるとしよう。実際世界の主神はフレイズとされているので、私は二代目フレイズになったのだ。私は世界を創った特別な者でなく、死のうと思えば死ねるのだと本能が教えてくれている。
私はフレイズ様のように壮大な自殺を計画する必要も無いし、もう、これが最善の形だったということで、良いんじゃないかと。
「きっとこれで良かったんだよ。私は、良いと思う……」
そう呟いた私がどんな表情をしていたのかはわからないが、私を見ていたトーマとマジムが僅かに目を見張る。
私はウィーゼルが泣き止むまでの間に主神の権能を確かめて、無条件で平伏されるような『神威光』という項目を見つけるや否やそれに割いていた神力を打ち止める。
権能でよかったと息をついてから、途端に肩の力が抜けたウィーゼルを見つめていた。