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第201話「すべて」

 背に回されて私を押さえつけている腕が、震えていた。笑っている、とわかる。戸惑い、涙が溢れる勢いが少しおさまった私は、首を捻って主神のフレイズ様の顔を見ようとして視線を上げた。

 ……笑っている。

 フレイズ様は、笑っていた。

 晴れやかな表情だった。洞窟で生まれ育った幼子が初めて青空を目にしたような、開放感に満ちた、幸福そうな、感極まっているような笑顔だった。

 私は、その、あんまり場違いな表情に驚いて、涙が止まるのを自覚した。そのまま彼と私の目が合うと、慈愛に満ちた微笑と共にやわらかな声色で言葉をかけられる。

「よくやったな、小娘……いや、セルカよ」

 背中を押さえる手が移動して、頭を撫でられる。そのまま指先で髪の毛を梳くようにしている手つきの優しさにしばらく呆然としてされるがままになっていたが、ふと今なら離れられるのではないかと思い至る。

 が、短剣を握り締めている手はきつく抑え込まれたままで、ビクともしない。しかし腕を伸ばして体を離すことはできた。そのおかげで、白の衣装に広がり、私の腕や服にまで付着した赤が目に入る。

 短剣を抜いてもいないのに、血の勢いは凄まじく。私はどうすることもできずに狼狽えた。

 するとフレイズ様は、私を再び引き寄せて、一度短剣を私の手ごと掴んだまま引き抜き、再度、捻りながら自身の肉に割り入るように差し込んだ。ぐちゃりと不快な感覚が伝わり、体温が下がっていくように感じた。


「私は、君以外には傷つけることができないようになっていてね」


 ぐっ、と強く抱き締められて、私は服に大きく広がった血に顔を押し付けるような形になり、生暖かい血の感触と匂いに正気を奪われかけて呼吸が浅くなる。


()に勘付かれたのが予想よりも早かったけれど……ちゃんと、セルカが殺意を抱いてくれて良かったよ」


 フレイズ様は手首を何度か捻って、短剣で胸を掻き混ぜるようにした。手指に血やら肉片やらが絡み付いて、吐き気を催す。

 私が堪えきれない嘔吐感に体をひくつかせているのを感じ取ったのか、フレイズ様は少し腕の力を弛めてはくれたが、血濡れになった顔を拭うこともできず、胃が痙攣するのを感じながら唇を噛む。

 そのとき頭頂部に感じていた視線が外れ、フレイズ様が顔を上げたのだと思った。遅れて、神力の波に乗せて彼の声が拡がった。


「セルカに罪はない」


 庇うような色はなかった。ただ嬉しそうに、事実を告げる。神々に、妹に。



「これは私の、みんなを巻き込んだ、巻き込むしかなかった…………自殺だ」



 誰も動けないのだろう。駆け付ける者はいなかった。背後にいる女神でさえ、嗚咽を漏らすのみで何も手を出してこない。きっとフレイズ様が何かしているのだろう。皆、傍観者であることを強制されていた。

 自殺。私は、そのために必要だったのだろう。

 違和感は、何度もあった。どこまでが彼の仕業なのかはわからないが……彼の表情を思い出し、そこに浮かんでいた達成感のような何かから、私が知る以上の手回しをしていたのかもしれないと感じた。

 私の転生。

 ミコトの介入。

 マジムが強力な使い魔として味方についた。

 私を危険視する神々による干渉。

 バウが、女神によって送り込まれた。

 先程の女神との一騎討ちを邪魔していたのも、正体に勘付かれるのを恐れたフレイズ様が手を止めただけで、干渉者は彼だったのだろう。

「……死にたかっ……た、のです、か?」

 私はほとんど唇を動かさずに、掠れた音を洩らした。口の中が乾いて、舌も凍り付いたようで、その問い掛けが言葉になっていたかどうかも怪しかった。

 だが私を見下ろす彼はそれを確りと聞き取れたのか、はたまた心でも読んだのか、訊いてもいない、しかし知りたかったことまでも語りだした。


「私は……主神であるという以前に、原初の存在だった。この世界の枠組みで死ぬことなど、許されなかった。特に、此方…………我々との結び付きが強く、我々が直接治めているこの世界では」


 地球は、彼が治める世界とはいえ、主神やその他の神々がほとんど干渉せずに成長してきた世界だという。

 魔力や神力は根幹から全てを神々が支えている世界だからこそあるもので、地球には当然のように存在しなかった。


「だが、世界が異なるだけでは無意味だ。人型で、知能の水準がほぼ等しく、完全な管理下にない世界の魂……それも、ひとつでは足りなかった」


 私は、ふと、思い出す。

 奥底に眠る記憶と、先程見たフレイズ様の瞳を。

 それを察したように、主神は笑う。


「待っていたよ。強欲な現人神と、その魂を受け容れるやさしい転生者を」


 そのために、現人神というものをつくったのだと、彼の瞳は語る。全ては死ぬために。それが彼の生き様なのだと。

 転移によって生まれる現人神は第一段階。

 強欲な者が自我を保持した転生を目論むのが、第二段階。

 フレイズ様による地球やその他の該当する世界からの転生者が現人神を受け容れるのが第三段階。

 最後に、殺意を持って、……。


「私の肉を裂くことができる武器だって、限られている。妹が創ったものは、数少ない()()だ」


 手の内にある短剣と、しまってある弓がそうなのだと感じて、同時に背後の気配が揺れる。女神は、きっとフレイズ様を殺すつもりなどなかっただろうから。

 しかしそんな妹の嘆きをも、「必要ないからと捨てたお前が悪い」と切り捨てる様は、悪魔のようだった。

 ……何度、失敗したのだろう。これで、良かったの?


「ああ」


 心の中で零した問いを、肯定。見えないけれど、きっとそれはそれは綺麗に笑っているのだろうと思うと、何だか、悔しくて、悲しくて……引っ込んでいた涙が、決壊した。

 神様を殺すために、強くなりたかったわけじゃないのに。神様を殺すために、自分らしく生きようと思ったわけじゃないのに。

 セルカは神様を殺すために生まれた。

 ぐちゃぐちゃの感情は残っていたけれど、それも泣きじゃくっているうちに悲しみに押し流されていったようだった。

 死にかけたトーマは。苦しんだバウは。私たちは、最初から世界にとって正しくない者だった?

 私は、どうなる?フレイズ様がいなくなって、神々に憎まれる?

 何より、なにより。私が彼を殺してしまうのが、彼が死んでしまうのが、悲しい…………




 私はずうっと泣いていた。私がわからなかった。私は私らしく生きていたのかと、私を疑った。それでも少し落ち着いた頃、赤い血を流しながら私を抱き留めているフレイズ様の衣がほとんど赤く染まった頃、彼は再び口を開いた。


「ようやくこの世界が好きになれた」


 今までの、喜色を滲ませた声とは異なる、穏やかな声。それは終わりを予感させた。

 私の両手を拘束していた手が、指が解かれる。私の手が短剣から離れる。そして、短剣は空中に解き放たれた。

 はっとして上を向こうとした私は、金縛りにあったかのように動けないことに気付いた。膨大な量の神力が私を包んでいた。フレイズ様だとわかっていても、姿が見えないことに不安を覚えた。

 そして、短剣が造られた地面に突き刺さったとき。血で汚れて前髪が張り付いた額に、そっと唇が触れたのを感じた。

 いない。

 もう、そこに神はいなかった。


 支えるものを失って、地面に爪先が触れ、そのままへたりこんで、膝をつく。血痕はもうどこにも残っておらず、ただ……神力が、流れ込む。

 息ができなかった。

 全身が軋み、悲鳴を上げ、臓物を手で掻き混ぜられ骨と肉をでたらめに組み変えられるような痛みに、思考が止まる。

 痛い。いたい。

 覚えのあるような痛み。

 痛みに喘ぐ私の元に真っ先に駆け付けたのはマジムだった。使い魔の契約、その繋がりが何かを伝えているのだろうか……彼は何か言いかけて、くしゃりと顔を歪めた。

 痛い。

 痛い。

 いたい。

 何秒経ったかわからない。何分経ったかわからない。いつの間にか私の周りにはみんながいて、でも、とても顔を見ることは出来なくて。

 視界を塞ぎたくて、蹲る。背中を丸めて、地面に刺さったままの短剣の柄を握り締めて、眉間を擦り付けるように。

 マジムは私が彼の腕から逃れたように感じたのか、離れた手を再び伸ばすことはしなかった。

 代わりに、別の手が、赤い腕が、私を抱き締めた。




「神位と神力の受け渡しで、負荷がかかったんだろうな」

 意識を失ったセルカを抱き上げたのは、トーマだった。周囲に集まった神々の複雑な視線から守るように彼女を抱き締め、それから自らの外套を被せた彼は、目を細める。

 目の前に生まれた()()()()()は、きっと自らを責めるだろう。周囲の神々は、半ば強制的に代替わりさせられた()()主神に服従しようとする本能に戸惑う者ばかりだろう。女神の方のフレイズは、許そうとしないだろう。

 それでも、(トーマ)は……俺たち(幼女守護団)は、彼女の味方でいよう。義務感でもなく、これまで過ごした時間がそうさせるのだと、強く想った。


 神々の領域は元の真っ白で地面も空もない空間に元通り。空気に溶けるように消えていった風景は、フレイズ様が最期に見た彼の世界。

 トーマは皆がこの領域を去り、一旦大海神ウィーゼルの神殿に戻ったことを確認した後、セルカを包んでいた外套をほんの少しだけずらした。

 それからもう一度、誰もいないことを確かめて…………誰かが口づけた小さな額を乱暴に拭って、そのまま上書きしようとして恐る恐る顔を寄せてから、肌に触れる前に動きを止めて。

 ……何事も無かったかのように外套を元の位置に戻して、この場を後にしたのだった。

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