第197話「危惧と、不愉快」
私は僅かに眉をひそめて、初めに違和感を覚えたのがいつだったかを考える。その間も手を休めることなく魔法陣を描き続けいくつも術式を構築していったが、互いに「なにかがおかしい」と感じているため、積極的に動けなかった。
しかしそれでも女神フレイズは迷いを捨てるように大きな術式を展開させる。これまでの攻撃がおふざけだったのだと感じた私は不愉快に思いながら、最低限の応戦とともに少し距離をとった。
それでも女神は明らかに魔法の発動速度が神力の強さや練度の高さに見合わない様子で、攻撃を続ける。私はこのようにあからさまに隙をつくる様子が気持ち悪くて、同時に、初めの一撃で私を殺さなかった理由が気になってきた。
たとえ不意討ちでも、彼女らには彼女らなりの大義名分があり、勝ちは認められる。そもそもあのときの光の波は、神力の塊ではあったが女神のものか。
……というか、私は現実が見えているのか?
そして、私はふと思い至る。自身にかけられていた能力強化の魔法たちは、その瞬間、僅かに弱まった。
「神力を遮断する壁で、周囲を囲うことは」
私がそう言いかけると、女神は一瞬だけ感情的に口を開きかけるが、彼女も違和感に悩まされていたのだろう……遅れて答えに辿り着いた彼女は、冷たい表情でこちらを見下ろしながら石をばら撒いた。
撒かれた石は瞬く間に光の粒へと変貌し、四方八方に散らばっていく。あっという間に当たりを包んだ光たちは、個々の隙間を埋めて砂粒ほどの穴さえない壁をつくりあげた。
ゴミのように投げ落とされたが、どれほど高度な技術で造られたかわからないほどの……完璧な結界術が仕込まれた魔道具だった。
その魔道具が効果を発揮すると共に、私たちは面倒な妨害から解放された、はずだ。感覚的には正常だった。
一切の干渉を許容しない空間であれば、どうにかなる。神力の放出で打ち消しきれないほどに妨害が強いのなら、環境を変えるしかない。
これでも違和感が消えなければいよいよ主神を疑わねばならないところだが、どうにか消えてくれた。私は安堵と共に戦意を取り戻した。
「邪魔が入っていたようですね。双方ともに、とは不思議なものですが……」
女神も同じような違和感に襲われていたのだろう、魔道具が効果を発揮してからは表情がより研ぎ澄まされた氷の刃を思わせるものになっていた。
マジムはセルカの元を離れた後、彼にとって誰より憎い相手であるバウと対峙していた。バウの本来の姿は獣にほど近いが、今の姿はそれよりも獣臭く、人間らしさを留めていた理性的な目も失われつつあった。
力も体躯もマジムのほうが大きいだろうが、油断して足元を掬われてはかなわない。マジムは眼前の、獣神によく似た獣を睥睨する。
『魅了に特化しているようなので……セルカ様に無様な姿を見せないようにしないと』
好きな人がいようがいまいが関係なく魅了し思うままに操る能力に振り回され、主人の元を離れてしまったマジムは、それを酷く気にしていた。だが、今はセルカに貸している腕から主従の繋がりが濃く強く感じ取れる。
もう、見失わない。
マジムは大きく吠え、身体の奥から湧き上がる神力を……長い間使われることなくただ貯蔵されていた強大な力に身震いした。
大地神である彼は、その位に相応しい力を持つ。当然のように、バウは本能から来る恐怖に後退る。それでも女神のために、愚かな獣は大地神から目を離さずに瞳に殺意をたたえ、絶叫した。
『僕はぁぁァぁぁぁああああアアあアァああああ!!』
同時に突進。どれだけ強化されているのかはわからないが、手足の長さの違いも無かったかのようにマジムも追いつけない速さで駆けてくる。
その間も魅了の魔法を垂れ流しにしているようで、どうしようもなく魅力的に見えてしまうが、マジムにとってその魅力はセルカに遠く及ばないのだろう、特にセルカに程近くほぼ触れている状態であるのだから、術に惑わされることはない。
濃い神力がその身を包んでいることもあって、バウの魔法がマジムに届かないことは明白だった。
それでも、どう見たって勝ち目がなくても、バウは主人への忠誠を叫びながら喰らいつく。その牙が通らなくたって、噛み付いた彼の方が血を流していたって、獣の誇りである牙が折れたって、彼は気にしない。
バウは獣人族に見棄てられたと思った。獣神に呪われていると思った。そこで拾ってくれたのが女神で、セルカへの気持ちも嘘ではなかった。出会う順番の問題、とでも言えようか。
マジムはバウの心情はわからなかった。主人の元を長らく離れてセルカを監視していたのも、マジムを攫ったのも、それらを知っても本来の心情などわからなかった。
バウはマジムをきっと理解している。マジムはバウの想いを理解しない。
その差は、戦況を覆すようなものではない。ただ、バウにとってはマジムに殺されることも救いとなり得るのだ。バウは、全力で、死ぬ気で戦えば……すべてのためになる。
マジムにとってただただ素早く鬱陶しく、誰よりも憎らしかった敵は、自ら向かえば逃げられるものの相手からの突進を利用すれば簡単に爪や牙を喰い込ませることができる敵だった。
牙を折りながら喰らいつき血を吐きながら離れまいとしがみつく彼を爪で薙ぎ払い肩口を噛み千切る。決着がつくのは、予想通りすぐのことだった。
殺すことは望まないし、マジムにはこの制約によって神の死が縛られた戦場で命のやり取りはできない。神域で神を殺せるのはそれこそセルカくらいで、バウは特殊な存在。
それに女神が彼を庇護しているのだから、マジムの勝利と共に意識を失うバウは、動けるうちは他の敗者よりも酷い傷を負いながら戦闘を継続させられて、動けなくなれば他の敗者と同様に地上の自陣へと転送される。
『……セルカちゃん』
呟きは誰にも届かなかった。
マジムはただ、優しい主に出会えず消耗品のように己をすり減らす行動を強いられたバウに同情し、セルカに困難を押し付けたバウに敵意を向ける。
その敵意に対するバウの反応は、獣の口をわかりにくく歪んだ笑みの形にして、大地神を煽るのみ。
その表情が完全な笑みをつくるより先に、彼の姿は見えなくなった。