第191話「祈りと短剣を」
朝陽が昇り、水面から僅かに光が届く海中の砂浜。私は大海神の神殿に仮設置されたヒト用の宿泊施設で目を覚ました。青白く、少し表面がざらついている岩で構成された四方の壁、それぞれにある採光窓には硝子はなく、涼しい空気が流れていた。
伸びをしてベッドから降りるとその気配を感じ取ったのか名前を呼ぶ声がした。決戦の朝だというのに平和なのは、双方の陣営に加勢している勢力がほとんど同程度であり、どちらかが一方的な攻撃を繰り返すと中立の神々までもが私たちの味方につきかねないという話をわざわざこちらが話し合いの際に伝えたからだった。
これを伝えたおかげで、無関係な人々に影響を与えずに、さらにマジムのいる場所で戦うことができる。マジムが寝返っていた場合のことを考えて戦力を増やす方が重要だと主張する者も一部いたが、中立者まで参戦し争いの規模が大きくなることは望ましくない。
そうして、この朝、私たちはいつも通りの朝のルーティンを終わらせてから、ウィーゼルの案内で神域へと向かうことになっている。
「とーまぁ」
呼ばれた方へ歩くと、そこには朝食の準備をしているトーマがいた。彼は黒髪を揺らし、一瞬こちらに意識を向けるが、振り向くまではしない。そして玉子焼きをくるくるとフライパンの上で転がして、皿に移した。
「おはよう、ミコト。できたてのほうが美味しいから、先に食べててもいいよ」
彼はそう告げるとそのまま他の人の分を焼き始め、私は台に置かれた皿を手に取る。シンプルな玉子焼き。最近は作り置きや最後に火を通すだけの状態で保存していた食べ物を食べる頻度が高くなっていたので、いちから調理している姿は久しぶりに見たし、玉子焼き自体久しぶりに思えた。
私がじっと玉子焼きを見詰めているのが不思議だったのか、トーマが「食べないのか?」と声をかけてくるので、私はさっさとテーブルとイスを用意して食べることにする。
ひと切れを消費し終わる頃には匂いに誘われてか幼女守護団の仲間が揃い、私は次々にトーマが仕上げていく料理を運び、手が空いたら食べることを繰り返す。そのうちにトーマが何か思い出したように声を上げる。
「ああ、そうだ」
朝食にしては豪華な、重そうな料理群が皆の胃袋に吸い込まれていく中で、彼は私を調理台に呼び寄せた。
「ミコトは好きかわからないが、セルカ様のために、願掛けのようなものだ」
彼がそう言って作り始めたものは、まぁ、聞かずともわかる。まだ熱の残っている玉子焼き用のフライパンを引き寄せて、彼は鰻を用意した。
セルカは鰻が大好きだ。それを思い出した私は少し笑って、これに釣られて表に出てきてくれないものかと思った。
手際良くう巻きをつくったトーマが熱々のそれを食べやすい大きさに切り分けて皿にのせ、私に差し出す。鰻をと玉子の間には大葉のような香りがする薬草が挟まれているようだ。
私はセルカほどではないが鰻が好きなほうだ。しかしセルカの記憶を少し思い出したからか、目の前のう巻きがとてつもなく美味しそうに見えて、その勢いのままかぶりついた。
セルカが目を覚ましたら作ってあげてほしい、と頼もうかとも思ったが、そんなことわざわざ言わなくてもトーマは作るだろうな。
食事を終え、皆が武器の手入れをし、軽く運動をして身体を温め、それが一段落すると、声をかけずとも神々と幼女守護団はウィーゼルの前に整列していった。
「取り返すよ」
ウィーゼルがいつもよりも少し低い声で、鋭い目を味方に向けて静かに告げると、皆がそれに応えて声を上げる。私はその声の嵐の中で、ウィーゼルと同じように静かに「うん」と言葉を落とした。
声が鎮まると、自ら神域に入ることができる神々は数を減らし、いつの間にか私たちとウィーゼルだけになった。私は戦いの最中に従魔を呼び寄せるのも、神域に従魔を直接呼び寄せられるのかもわからなかったのでアルトと黒助、それからスイを召喚して、彼らの状態を確かめてからウィーゼルに声をかけた。
「行けるよ。……お願いします」
私の意識が切り替わったことを読み取ったのだろう、そのまま全員がウィーゼルの元に集まると、目の前に巨大な穴が出現した。大型バスくらいならそのまま飲み込めるほどの大きい穴は、そこが見えない。
「ここに落ちればすぐつくよ。怪我なんかもしないから安心して」
そう言ってひらりと手を振ったウィーゼルが穴に消えていくのを見て、私たちも穴の上に足を踏み出した。まるで床が見えなくなっただけでその場にあるかのような感覚が靴の裏にあったが、身体全体が穴の範囲に収まった途端に浮遊感が身を包み、それが消えて地に足がついた感覚を取り戻したときには既に見知らぬ世界にいた。
視界のほとんどは白と黒だけで覆われていた。白く硬い地面にはほとんど障害物もなく、明らかに急拵えであろう真新しく家具なども殆どない家が数軒建っているだけだ。
それを眺めているうちにも次々に家が生え、植物が生み出され、元々は何も無かったはずの神域が、ずっと居れば気が狂ってしまいそうな真っ白い空間から遠ざかっていく。
ずっと遠くには敵対勢力の神々が並んでいるのが見えて、私は反射的に目を細めながら、瞳に身体強化を集中させて視力を強化しつつ顔ぶれを眺めた。見てもわからない神が多いが、それでも力の強さは読み取れる。
私は本当に作戦が上手くいくのかという不安を胸に抱き、その思いのまま女神の短剣を握り締めた。それから何度か手の中と異空間収納とを行き来させて、素早く短剣を取り出せるように感覚を確かめてから、女神の天弓を用意した。
場所の準備が終われば、きっとたたかいが始まる。
すぅ、と息を吸って、吐いた。まだ、マジムは見当たらない。セルカならばマジムを引き戻せる確率が高いと思っていても私ではそのセルカを起こすこともできなかった。ならば、私は完璧に代役を務めてみせよう。彼女の主人公としての立場が揺らぐくらいに、格好良く、主人公らしく、華々しく。
そう思えば、神を踏み付けて進むことも、気負わずにできるような気がしてきたのだった。