第189話「そこからは、もう、進むだけ」
俺は焦りを滲ませていたが、しかし以前とは互いの地位の差が大きく縮まっていることを思い出して、僅かに持ち直した。
憔悴した要因はただ一つ、セルカと記憶を共有できるミコトの耳に目の前の愛神ブラオが発する言葉を聞かせてはならないと思ったからだ。彼は此方の想いを知ってからかっていたから……。
「じれったいねッ」
何か口走りかけたら強引に封じてやろうと考えていたものの、ブラオはその警戒に触れながら俺の反応より早く接近し、そのまま情熱的な抱擁を強要してきた。
「ふゥん」
その抱擁に何かしらの意味があったのだろう。そのガッカリしたような反応から、おおよそ人の恋路がどれだけ進んでいるかを見たのだろうと見当がついた。薄く蜘蛛の巣のように身体にまとわりついたブラオの神力は、不快ではなかった。
彼からすれば、俺は神でないにもかかわらず、愛の力で術を突破した漢、といえばいいだろうか。親か兄かのような、視線が向けられている。
「セルカ様は居ないし、ガワを好きになったわけじゃないんだ。進展するはずもない。更に言えば、身分も互いにちぐはぐでバラバラだ」
仲間たちが先に神殿内に消えたあとの、砂を踏みしめる音に包まれた空間で、ブラオにだけ聞こえるように呟いた。抱き締められているのだから、それは簡単なことだった。
彼はそれを聞いて何も言わずに抱擁を解くと、神力も残滓すら遺さずに感じ取れなくなる。それと共に、自身の中にあった余計な昂りが、ふしぜんなまでにすっかり落ち着いていることに気が付いた。
愛の神は感情さえ左右するのか、と、彼の内で揺らぐ神力を見ると、やはり、強い闇色。厭に明瞭な思考は、考えるべきでないことまで透かしてしまいそうだった。
「……人の意識に干渉する魔法は」
俺がブラオの目を見つめ、何かに駆られて呟いた内容は予想されていたのだろう。言い切る前に相手からの返答が落ちる。
「本来のセルカはッ……闇属性が最も得意だった」
それはとても嫌な告白だ。
自分も、やろうと思えばセルカの肉体から魂までを辿り、本来の彼女だけが持っていた適性を覗くことができたはずだが、契約や、彼女を護るミコトの存在から、今はできない。
ミコトが守りを固めるより先にセルカ様に接触していて、きっと奥深くまで見透かしていたはずであるブラオに聞くことでしか、知り得ない。
闇属性は、精神に干渉する。強力な闇魔法は心を封じ、意識を奪い、脳死状態をつくりだすことも可能だ。
優れた能力をもつ者は、願っただけで魔法を行使することができるとも聞く。無意識のうちに魅了魔法を発動させて国家を混乱に陥れた魔女のお伽噺のように、術として発動させずとも、何かが起きることもあるのだ。
要するに、ブラオと俺の考えていた最悪のケースは同じ。セルカ様が、自分自身を、交代させるだけでなく、封じていた場合。
マジムが正気でなかった際に最も有効であるはずの手札が使えず、そのままセルカ様が二度と目覚めないという最悪の……俺にとっては世界の均衡が崩れ崩壊することよりも最悪の結末が待っている、かもしれないのだ。
思考のモヤ、答えに辿り着きたくない無意識が避けて通っていた穴。それが表に出ただけだ。
「落ち着いたねッ。では、最後にひとつ……」
ブラオは自信があるのか、無いのか、真偽も読み取れない声色で告げる。自分なら、この戦いを生き残ったときには手を貸してやれる。自棄にならず、生還し、会いに来い、と。
ただその言葉は心にあった苦々しい重みを取り払い、未来を想起させるには充分だった。
遅れてトーマとブラオが入ってきたとき、妙にすっきりとした表情をしていて神力も落ち着いていたため、私は彼らの恋バナは無事に終わったのだと勝手に納得した。
多少遅れて入ってきたとはいえ鬼神と愛神の組み合わせであり、また彼らの立ち話を他ならない主導者であるウィーゼルが黙認しているので、集った神々は誰も文句を言うことはなかった。
愛神は概念を司る神々を統べ、獣神などの種族神に関しては最も力が強く古い竜神が、大地と深く結び付いた神々は岩石の神、などといったふうにそれぞれこの件への関連度や統率者として相応しい能力を持つ者が代表者としてこの場にいる。
トーマに関しては例外で、彼は幼女守護団の団員として動く。十もいない代表者たちは、私たちをじっと見詰めていた。
その中でも竜神は一際目立っていた。何せ、小型化しているとはいえ竜であり、迫力がある。その目が追いかけているのはリリアただ一人。
剛竜王は竜王と呼ばれているだけあって、竜神にも認識されているのだろうかと思って見ているうちに、ウィーゼルが話し合いの開始を宣言する。
主導者がウィーゼルであるとはいえ、彼女はまだまだ若く感情的である。私や仲間の能力も把握した神々が作戦のほとんどを組み立て、それでも私たちにそれを強要することなく慎重に進められた会議は、幾度かの休憩やまとめ作業を挟みながら丸一日続いた。