第167.5話「まほう」
海中に在る神殿……大海神ウィーゼルの住まう空間におおよそ引きこもっていた数週間。魔力を全て神力に変換してセルカの身体に馴染ませ終えた私は、神殿前の砂浜に寝転んで海を眺めていた。
このハイエルフの身体はウィーゼルを優に超える豊かな神力を蓄えていて、この世界との繋がりを絶たない限り世界を支える存在だ。生きているだけで世界を救っていると言えば、聞こえはいい。
ただ、それ故に、私が死んだりして現世を去ることは、ウィーゼルが最も避けたい事態なのである。彼女は毎日のように魔力変換の進捗を尋ねてくるほどだった。
毎度私が「まだ終わってないよ」と答えてウィーゼルは素っ気なく「そっか」と返すだけだが、彼女の周囲を漂う神力の揺らぎが目に見えて落ち着く。そして今日、私は同じ答えを返すことができない。
視線の先に広がる海は、以前なら数種の魚類や力のある魔物が周囲を泳いでいたが、少し前からそれらの姿も見なくなった。千切れた海藻やら何やらは流れているが、他の生き物が距離を置いたおかげで栄養過多なのか海水は僅かに濁っていた。
そんな海を満たしていた神力の流れを目で追っていると、その視界を遮るものが現れた。
鮮やかな紺色の髪が揺れ、白い水着と健康的な肌色のコントラストが眩しかった。寝転んでいる私の上で浮遊しながら顔を覗き込んできたのは、ウィーゼル。
「ミコト。変換は終わってる?」
彼女の目が細められ、涙袋がくっきりと浮かび上がる。口角は緩く上がっているが、彼女らしくない薄い笑みだった。
私は一瞬言い淀み、それから素直に答えることにした。
「朝食後くらいに、終わったよ」
絶対に彼女が求めた言葉ではないが、終わったものは終わったのだから、誤魔化す意味もないだろう。ウィーゼルの笑みが硬直し、私はただその表情を見つめていた。
「……別に今すぐ天空神を攻めようとは言わないから」
「…………そっか」
私の補足を聞いたウィーゼルはふっと顔を背けて、小さく返事を落とす。それからそのままこちらを向くことなく空気に溶けるように消えてしまった。既に何処かに転移したのだろう、彼女の気配は近辺には無かった。
「はぁ」
周囲に誰もいないことを確認した後、私は盛大にため息をついた。
この身体での準備は全て終えたつもりでいる。神力は潤沢にあり、身長や体重に大きな変化は無いがトーマやライライ、アンネとの近接戦闘訓練を通して能力は鍛えたつもりだ。魔法の構築速度は身体に覚えさせることができていれば良いのだが……結局はセルカの技量次第。
そう、セルカだ。問題なのは、セルカからの反応が一切見られないことだ。私は主人公補佐をしている筈だったのに、今日になっても主人公が表に現れることはなかった。
てっきり身体が神力に満ちれば、私の役目は裏方へ戻ると思っていたのに。
リリアは同じ魔法職であるベルと共に、岩ばかりの無人島で魔法の練習をしていた。護衛としてついて行くと強情に主張していたアンネはあまりに何も無い島で退屈になったのだろう、周囲に気を張り巡らせながら剣舞を型に沿って舞っていた。
魔力の込められていない舞は美しく、支援効果はない。にもかかわらず、舞によって集中力を高めた結果なのだろう、彼女の剣筋は一挙手一投足舞を重ねる度に鋭さを増しているようだった。
陸全てがゴツゴツとした岩石に覆われていて渡り鳥が運んだ種から発芽したほんの少しだけの植物。生命の気配は他にはなく、アンネの舞を邪魔するものは無い。
リリアはひらひらと空を飛び回りながら、無数の煌めく盾を創造しては消し、創造しては消しを繰り返していた。ベルはその盾が消える前に炎を当てようと奮闘するが、彼女に近い位置に創造され発射される炎槍は毎度速度が追い付かない。全てリリアの剛竜王の矛を正面からけしかけられて相殺されている。
「くっ…………セルカといい、ミコトといい、リリアといい……離れた場所に障壁を展開すること自体が困難だというのに、息を吸うようにこなすなど!純粋な魔法職でない奴まで……」
文句を垂れながらも炎魔法を幾つも使用するベルは、それでも練習を初めたばかりよりも術式を構築できる範囲が拡大していた。
魔法を習い始めた者は指先や杖の先に術式を展開させ、慣れてくると手の届く範囲に魔法を創造する。その先に軽々と進んでしまうのはエルフや妖精といった種族が元から持っている適性も関係しているのだと頭ではわかっているので、ベルはやる気を失わない。
自分は人間にしては才能があるだろう?と、同じ人間であるアンネと共に笑い合うし、互いに互いを称賛し合うのだ。
そんな彼女をおちょくるようにちょこまかと動き回るリリアは、ベルの欲する機動力まで持っている。小さい体は当たりにくい的だ。ベルが狙っている盾自体は人の頭よりも大きいが、もしリリアと戦うことになれば……小さく素早いうえに攻防どちらにも長けている彼女に一人で勝つことは不可能に近い。
「は、ら……たつぅ…………」
ベルは、ケラケラと笑っているリリアをひと睨み。その怒りが成長を促すのだと、リリアは能天気そうな笑顔を浮かべながら煽り倒す。
へらへらと笑っているリリアは、特に前例があるわけでもないが自らの勘に従ってベルをおちょくり続ける。そこそこ短気な彼女は、リリアの煽りの成果か着実に実力を伸ばしていた。