第164話「性格の悪い悪魔」
アルステラの呟きから一拍遅れて、大海神の神殿領域全体を震わせるように神力が波紋を拡げる。私にはこれが何の合図なのかはっきりとはわからなかったが、目の前に転移してきたウィーゼルの様子から、私が知らないだけだと察する。
状況が変わったことに気が付いたスイは取り込んでいた水分を一息に放出して手の平サイズに戻って固形化し、私の髪に潜り込んだ。残りの従魔二匹も集合し、ステラとウィーゼルは視線を交錯させる。
それから私を一瞥したウィーゼルが、よく通る声で言った。
「天空神の侵攻が激化!アルフレッドは撤退中!……あたいの感知能力は敵方によぅく知られてるから、気付くのが遅れたみたいだね」
それぞれ散らばって訓練や趣味に興じていた幼女守護団メンバーは、彼女の声を拾うと手を止めた。そしてウィーゼルのもとに集結し、皆が戦闘準備を整える。
「あたいは総大将が出てこない限りは手出しできないから、アンタらに天空のの部下による愚行を……大海を切り取っているのを止めて貰いたい」
未だ枢軸神同士の戦争を視野に入れた備えが万端と言えぬ今、天空神が直々に手出ししてくるまでウィーゼルの参戦は危険。私たちは彼女の言葉に頷くと、そのまま彼女の神力に包まれる。
「送るよ」
周囲に満ちた神力が一瞬にして複雑な術式の形態をとると、転移魔法と水生の魔法が発動する。転移先は荒波の権能が及ばない海中で、そこまで追いやられたアルフレッドが抵抗を続けている真っ最中だった。
彼の双斧は、一見すると何も無いように見える空間を何度も執拗に斬りつけているが……その空間こそ、敵だった。大空に淡く薄く広く満ちている天空神の力を凝縮させたようなソラのカタマリが人間や魔物を形作って、海を喰らっていた。
喰らわれた海は空になる。
その表現はおかしいと思うが、自分ではそれ以上に適した言葉を見つけることができなかった。
大口開けた空色の蛇が泳ぎ進んだ軌跡には、空。海がそこだけ切り取られ、青空と入道雲が垣間見えた。恐る恐るその空間に手を伸ばすと、そこには水が無くあたたかな空気がある。
侵攻だ。
私は不気味なあたたかさを振り払うように手を海水に浸すと、従魔たちに指示を出す。
「勝てる個体を選んで!敵は散り散りになってるから!」
既に私たち以外は闘っている。神力を持たないメンバーも、ある程度は攻撃が通る。ベルはほとんど牽制役としてしか動けていないが、そのぶんアンネが奮闘する。リリアは海を喰らおうとする者共を物理障壁や魔法障壁で妨害し、ライライは水中に対応している虫たちを使役しながら肉弾戦、己の力を十全に掌握したトーマはイヴァを振るい攻撃的な神力で空色の怪物を散らす。
私が動き始めたとき、ステラはアルフレッドをに群がる有象無象を海の魔力で包み込み丸ごと飲み込んで蹴散らし、ニタリと笑む。
何やら言い合っているようだが、私はそれを横目に神力を練る。増加し続けている私たちの神力を存分に発散できる場は、なかなかないだろう。水魔法も得意分野だ。
セルカよりも繊細で複雑でスムーズな術式の構築。セルカの知らない古い知識。女神フレイズに与えられただけの力を私は女神フレイズと関係深い神への攻撃に使う。本当は死んで失われた力。ズル。チート。今だけ私が主人公に戻ったような気持ちになって、気分が高揚する。
無数の水の槍が、剣が、放出される。水中に飛び込んできていた空色の怪物たちは全身に私の武器を纏っているようなもの。避けることも儘ならない。突如として出現した切っ先に貫かれ、傷口からカタチが崩れていった。
私が視認している範囲だけでなく、探知に引っ掛かった雑魚も含めて風穴をあけて散らす。近寄ってきた怪物は、女神の短剣で切り裂いた。大き過ぎる怪物がいてもトーマがすぐに駆けつける。そもそも近寄れない。
小さな獣を蹴飛ばして、神力を蜘蛛の巣のように広げる。僅かに頭の奥が痛むが、セルカよりも効率的な方法で神力を広げているため、長くもつはずだ。糸を通して治癒魔法を味方に、誤爆しないように威力の高い攻撃魔法を敵方に。
回復を終えると糸の形状を解き、すうっと頭痛が収まるのを感じる。全体を回復・支援できる者は限られる。このままの速度で空色の怪物を減らせれば、全体攻撃と全体支援を繰り返すうちに神力を幾らか余らせながら争いを終結させることができよう。
そうなれば良いが、と不吉な予感が脳裏を掠めた。口に出すまでもないので、私は自らの不安を紛らわすために喉をならした。
ミコトの大規模な魔法が続々と敵を葬り去るのを、アルフレッドは荒く息を吐きながら眺めていた。彼は海上に立って戦っていたうちは荒波の権能を利用して数多の眷族を生み出すことができていたが……その眷族たちを遥かに上回る空の軍勢が押し寄せたことで、権能もほとんど届かない海中に逃げる他なかった。
元々魔法に通じた人間だったわけでもなく、権能の及ばない場に来てしまえばただの魔法初心者。武器があるとはいえ魔法を活用できないのなら、物量で押されてしまえば神力を持つ神でも苦しいものだ。
同じく権能が届きにくい場所に来たアルステラは元々魔法に特化した人物で、彼は水属性を扱い慣れないとはいえ魔力や神力を操作する技術はかなり上。アルフレッドは自身の弱点をありありと見せつけられたような気持ちになっていた。
そこで彼がめげるかといわれれば、全くそんなことはないのだが。
「さぁさ、アルフレッド。空に喰われたところを意識してみろよ」
アルステラの深い笑みと黒々とした神力を真正面から受け止めたアルフレッドは、悪魔の囁きだ、という感想を抱く。だがこの男の言葉はよく聞くべきだと、素直に受け入れる気持ちが強かった。
生きてきた時間の違い、種族の違い……挙げればきりはないが、ただわかるのはアルステラの方が天才だということ。それ故にアルフレッドは従う。
そして空に喰われた部分が海面と認識できることに気付いて、悔しいような、嬉しいような感情と口に広がる苦い味に顔を顰めた。彼は自身の様子を確認しながら魔術式を展開しているアルステラを見て、悪魔だと感じた。
競うような心持ちでずぅっと睨んでいた相手だが、知る度に格の違いを思い知らされる。アルステラはそれを知っていて、それでも手を貸す。これが、強者の余裕なのか。
「……あぁ、ありがとう」
切り取られた海が、その境界線が大きく揺らいだ。海を取り返したわけではなく、ただ波が荒れたというだけだが……それが徐々に大きくなり、様々な生命を形作る。
眷族が生み出され、ミコトの攻撃魔法を掻い潜った空に噛み付く。空色の怪物と揉み合いになりながら、相手の身体を蝕んでいく。
こんな泥臭い争いが神どうしの戦いだとは思いたくないくらいの、野性的な戦い方だ。
魔法が苦手なアルフレッドは自嘲気味に笑う。自身の魔法適性の低さが、元々の魔力量が、足を引っ張っていると強く感じていた。波が荒れる。
いくら回復したからといっても無謀に見える突撃を繰り返し始めた彼は、それでも無数の眷族を散らしながら無傷で帰る。神力を込められた双斧は敵に叩きつけられると同時にいくらか海色の神力を弾けさせていた。
その切っ先に焦りはないが、代わりに苛立ちが滲んでいた。アルステラから見てもそれはわかりやすく、彼は自身の言葉が影響を及ぼしたと察した。
「魔法ぐらい、あとで教えるさ」
アルステラはへらりと笑う。彼の頬のすぐ横を水の槍が通過する。
「僕なんて魔力が切れたら、お前頼りになんだからさぁ」
悪魔は珍しくきれいにわらっていた。アルフレッドはそれを見て息を詰まらせる。
それ以降言葉を交わすことなく、それぞれが力を尽くして海を取り戻すために行動した。定期的に広範囲を埋め尽くす水槍や剣が空色の怪物を多数葬り、その合間を狙って現れた空の援軍はアルステラが消し去った。
いつもなら誰よりもペース配分に気をつけていて飄々とした態度を崩したがらないアルステラだったが、この日彼は神力不足で倒れる。
意識を失うまではいかなかったものの無防備な姿を晒したアルステラを護衛したのは勿論アルフレッドだった。そうなっても初級魔法でちまちまと敵を倒そうとするアルステラにはミコトも呆れていたが……。