第160話「干渉」
面会を終えてどことなく沈んだ空気が立ち込める中に、そとから声がかかる。声の相手を知らないのでジンに目配せすると、彼は「最近昇格した上級神官です」と既に現人神の仮面を被っていた。
そのまま神官を部屋に招き入れると、ひとつに束ねられた長髪が目に入る。黒い。
「こちらの部屋は次にも使用予約が取り付けられていますので、清掃をさせていただきます。追い出すようなかたちとなってしまい、申し訳ありません」
そう告げられては長居する気も起きないので、私はさっさとクッキーをまとめて異空間収納に投げ入れると、残りのお茶をくいっと飲み干して立ち上がる。
私はジンの背中を軽く押して歩くように促し、すぐに部屋を出た。何にせよ、地上に顔を出して話している内容がどこで悪く作用するかもわからないため、細かい話は神殿に戻ってからでも良いだろう。
特にティルベルには、偶然にも彼女が私の姿を見破る力を持っていたことで知られてしまったが……そもそも不特定多数と出会い見破られる可能性が潜んでいるこの場には長居すべきでないだろう。
ジンは仕事があるため常に神殿に滞在することは困難だが、彼も休息・睡眠時間は海中の神殿を訪れていたくらい、この世界は信用ならない。
「ジンはこの後予定ある?」
「いいえ、ありませんが……何、もう戻りたくなったの」
早足に来た道を戻ろうとする私に、ジンは懐疑的な視線を向ける。彼は自信を守る術を持っているからか常に余裕を持ち過ぎているのではないかと思うくらいに、天空神への警戒が薄いように感じる。
「アレの権能が届く範囲は、空から地面海面のスレスレまで。今手出しされたら、キツいよ」
私が彼を睨みながら告げると、彼は「そこまで急ぐことないのに」と口の中で小さく呟く。今まで手出しされていないから少し気が抜けているのではなかろうか。
互いに不服そうな表情をしながら早足で歩き去る私たちは、教会に勤める者たちから生暖かい視線を向けられていたが、結局ジンは私から離れずに転移の間までついてきた。
そこでようやく立ち止まると、私はウィーゼルに呼びかけて立ち入りの許可を得、転移を発動させる。天空神が突入できないように、神殿への直接転移の許可を貰うには個別に対応してもらう必要があるため、ジンは私から一歩離れた。視界は光に包まれて、すぐに海中の楽園にたどり着く。
…………と、思われたが。
私はその場に立ち尽くしていた。白を基調にした実用的な家具が並べられた空間が、瞬き程の間見えた。それがあまりにも強く脳裏に焼き付いてしまって、転移のために引き出した神力が風船を割ったような音とともに散った。
それはあまりにもわかりやすい異常だったため、ジンは速やかに私の傍に寄ってきた。ふらついたつもりはないが、そう見えたのだろう、左肩に手を添えられるのがわかった。
そして、ため息。
「……今、発動させたら、拙かった」
歯の根が合わない。周囲を落ち着かない様子で見回して、そこが転移の間だと確信できるとようやく手足の震えがおさまる。
今、私が見たものは、あまりにも、酷い。
「ジン、許可は貰ったから、ちょっと、一緒に、連れてって」
周辺を警戒して感覚を澄ませていたことが災いし、セルカにとってはただ懐かしいだけの、しかし私にとっては未知で異質な空間を強く感知する羽目になった。
私が縋るように左肩に乗せられた手に触れると、ジンは目を見開いて承諾した。
ジンの神力が二人を包み、ようやく深く息を吸えるようになった頃には、もうウィーゼルの神殿へ転移し終えていたが。私はその途中の光に包まれる過程を認識できないほどに、狼狽していたのだろう。
セルカが起きてこなかったことが意外に思えるような、彼女にとって衝撃的な光景だった。
「誰か、……」
セルカが誰にも主神フレイズの間であったこと……転生前の経験を話していないと知っていても、私は相談する相手を欲していた。それほど、意味がわからない。私には、わからなかった。
しばらく精神的に不安定になってしまい、私は神殿中を歩き回った挙句にその片隅で胃の中身をひっくり返した。本来なら私がそこまで影響を受けることはなかったと思うのだが、きっとセルカの体が見たものを拒んでいたのだろう。
意味もなく泣き続けて、結局落ち着いたのは何時間も後。よくよく考えれば、転移を発動させる前からあの光景が見えていたのだから、それらは全て私を動揺させるための幻惑だとも思える。そこまで考えて、ようやく全身から緊張が抜けた。
その夜はスープだけもらって、あとは母のクッキーを数枚つまんだ。私にとってもこの体にとっても初めてであるはずの味だったが、何故か懐かしいような気がした。
翌朝、私はひりひりと痛む喉をいたわりながら、小声でトーマを呼びつけた。セルカの声なら何でも聞き逃さないとばかりに駆けつけた彼は既に雑炊を用意してくれていて、程よく冷まされたそれは疲れた心身に染み渡るようだった。
一晩おいてから昨日のことを思い出すと、心がざわつく感覚は残っていたが気持ち悪さや思考が混迷してくることはなかった。そのことに安心すると同時に、セルカが心配になる。
呼びかけても何も応えない彼女の安否を憂いていると、余程難しい表情を浮かべていたのか、ベルとアンネが話しかけてくる。
「私を思っての行動が、負担になってしまったと考えると……申し訳ないな」
「ジン……様によると、様子がおかしくなったのはその後だったはずよ。何があったの?」
頭を下げるベルと口元に手を添えて首を傾げるアンネだったが、私がすんなりと謝罪を受け取って「セルカに聞いてから、話すかも」とアンネに返すと、彼女らは私の口から情報を引き出すことを早々に諦めて、明るい話題に転換してくれた。
セルカはこの日以降、うっすらと意識を取り戻すこともなくなった。
白い空間。壁はあるように見えるが、どうにも距離感がつかめない。机や椅子、ベッドなどの家具はすべてゆとりのある大きさで、質も高い。その空間はセルカのはじまりのばしょ。
しかし異質なものがそこにある。ツヤがなく朧気な印象を受ける白い髪、薄く橙に色付いた瞳、そしてつくりものじみた傷汚れがひとつも存在しない真白い肌。長髪は白い空間に溶けるように先端が隠れており、均整のとれた体つきは誰が見ても美しいと感じるだろう。
その女は、この空間の主ではなかった。
その女の足元には、両腕両脚を失って赤に汚れた緑髪の青年が横たわる。無残な姿は、白い空間ではよく目立っていた。
その女の顔には、薄く笑みが貼り付けられていて、深く傷つけられた青年の存在を除けば女神らしい容貌だといえる。
その女は、私と言葉を交わしたことがあった。
その女は、主神を名乗っていた女神。偽物が、マジムを見下ろす。
女神の目の冷たさがその光景を記憶に強く残し、私は青ざめ、転移魔法を破棄した。
そのときの記憶が、何度も夢に出る。