第159話「爆弾落とし」
転移門の間……神力を持たぬ者は立ち入れもしない空間にて目を覚ました私は、随分と久しく感じられる地上の空気を目いっぱい吸い込んだ。海の香りがしないことが、ここまで嬉しいとは。
ひとつ深呼吸をしてから転移門の間を見渡したとき、ようやく約束の時間が近いことに思い至り、私は思わず右手で自身の耳に触れていた。
これから会う相手は、セルカの兄。呼び方はおにい様。大丈夫、覚えている。
転移門の間から外に出ると、私の姿はその場にいる者全ての目に晒される。そこには数名の聖職者がおり、教会の施設を掃除して歩いている最中のようだった。彼らにとって私をみかけるのは久しぶりではあるものの驚くようなことでもなかったようで、掃除の手は止まらない。
「……」
小さく会釈をしてから立ち去れば、廊下に出る。廊下は人通りが少ないが、奥から見知った相手がかけてくるのが見えて私は歩みを早めた。
「ジン」
「待っていてくれれば良いでしょうに……っ」
息を切らせているジンは、頼んでもいないのに私を迎えに来たらしい。何故だろうと思う間もなくセルカの持つ記憶がよみがえり、そもそも未婚でも何でも女性が一人で出歩くことは好ましくないとわかる。特に見た目の幼い私に神殿が従者をつけていないとなると、容赦無く兄に連行される未来が待っていそうだ。
クランの仲間は呼ばずにセルカ一人を、という注文故にトーマを連れてこなかったが、せめて途中までは伴うべきだったと反省する。
息を整えながらぴったりと私の横について歩くジンは、「一人で来たことを察知したときは本当に……」などと説教じみた言葉を投げてくるが、残念なことに私はその声を真面目に聞くよりもセルカの知る兄の記憶をひたすら反芻していた。
そうやって適当に相槌を打っているうちに、私たちは応接室なる部屋の扉を視界におさめていた。扉の隙間から漏れ出している煙のような魔力は、ひと目で誰のものかわかる。
ジンが戸を開くと、上質なソファに腰掛けていた兄の上半身がゆっくりとこちらを向いた。魔力の質が変わっているからだろう、その目はすぐに驚愕に見開かれることとなる。
私はその表情を見て悪戯が成功したようにニンマリと笑んで家族に対する略式の礼をすると、その笑顔に安心したのか兄の体の強張りが少し解けた。
「セルカが心配で、依頼に身が入らなかったよ」
「おにい様、大袈裟!」
一生懸命再現する訓練を受けた笑顔とおにい様呼びは効果覿面だったようで、兄の表情は敵情視察から授業参観くらいにまで和らいだ。いつ彼に居場所を知られたかもわからないが、ここはどうにか切り抜けてみせる。
「旅に出るとは聞いていたけれど、それから一度も実家に帰らず連絡手段もなかったんだ。心配し過ぎだということはないだろう?」
兄は眉尻を下げて微笑むと、私に座るように促した。逆らう理由もないので彼と顔を合わせるような位置に座ると、どこからともなく現れた神官服を着た男が私の前にティーカップを置き、すみれ色の茶を注ぐ。私が来た時には既に用意されていた兄のカップはまだは半分ほど茶が残っていたが、男は新しく湯気のたつ茶を用意した。
「連絡手段は……たしかになかったかも。修行の旅に出たつもりだったから、必要とは思わなかったけど」
そこで一旦言葉を切った私は、両親と祖父の顔を思い浮かべる。それから自身の貯金額を計算し、僅かに声を抑えた。
「おかあ様たちに何かあったときに連絡手段がないのは、困るかも。あとは……一応、家にお金を入れたいかな」
まだあまり大きな依頼をこなしていないとはいえ、上級の冒険者である私が持つ資金は普通の騎士爵位をもつ家の資産に迫るものがある。魔の森を治めている特殊なエルヘイム家は例外だが、あの家はお金が多くて困ることはないだろう。
私が考えていることを察したのか、兄は笑みを深めた。彼だって少しでも家のためになることをしようと思って冒険者業をはじめ、今では父同様に騎士爵を授かることを目的としているのだから、似たようなものである。
彼と私の違うところは、強さを求める理由がエルヘイム家の繁栄か長生きするためかというところだ。エルヘイム家は現在一代限りの貴族。長寿であるだけに爵位を得るための功績は残しやすいし、一代限りの爵位であっても長く務めることができる。二代続けて騎士爵を得られるような功績があれば、前例に倣って男爵位を授かる可能性も期待できるのだ。
兄は私の目的を知らずに嬉しそうに目を細める。そして、言った。
「王都周辺でも、魔の森に関する依頼が大量にある。セルカ、家に帰る気はないのかい?」
それが……私を家に連れ戻すことが彼の目的だったのかと疑ってみるが、彼はあまり私の返答に期待していないようだ。少しの沈黙が過ぎるとすぐに「まぁ、難しいだろうね」と、今度は寂しそうに眉尻を下げる。
「本題は別だよ。まずは祖父からの伝言」
空気をさっさと変えたかったのか、兄は私の返答を待つことなく話し続ける。
「『緑の付き人とはよくやっているか』だそうだ。次に個人的なお話が……」
緑の付き人と聞いて、私は少しだけ驚いて眉を上げる。ただ、祖父が森の全てを把握していると考えると、彼がマジムを知っていてもおかしくはない。特に、実家にいた頃はマジムは神位を持っていなかった。
運命とは実に非情なもので、セルカとマジムは現在引き裂かれているが、私が勝手にそれを伝えて不安にさせるのも悪いので、返答を託す気は起きなかった。
私が物思いに意識を沈めているうちにも兄は話し続けていたようで、ぼうっとしていた私を包み込むようにジンの神力が充満する。顔を上げると兄は言葉を区切り、入口側に控えているジンは僅かに顔を顰めていた。
いつの間にかジンが盗聴防止の結界を何重にも張り巡らせている。先程神力が充満したのは、これを発動させていたためだろう。しかし、わざわざ話の途中で結界魔法を展開する意味があったとは思えない。
「……ごめん、何を話していたの?私ちょっと聞いてなくて」
恐る恐る、兄に声をかける。彼は結界魔法に気付いてはいるだろうが、特に反応することも無く口を開いた。
「ベルリカ家のティルベル嬢からね、手紙が届いたんだ」
私はそれを聞いて、彼女の貴重な話し相手でもあったベルを仲間として迎え入れたことに対する礼だと思った。それ以外にティルベルとセルカの繋がりはない。
だが、兄は私の表情がさほど変化しないことが不満だったのか、笑みを消す。そして、極々僅かに黒い微笑を見せた。
「『貴女の容姿はベルに聞いていましたから、よく存じております。ベルの友人となってくださっただけてなく、私に関しても、礼をさせてください。セルカ様と、もう一人の方と、二人きりでお話する機会があればと思っております』と……少し、意味の掴めない部分はあるが、そう綴られていたよ」
私がセルカとしてティルベルに会ったことはない……と、そこまで考えたところで一気に体温が下がるような心地がした。秘匿された現人神としてなら、会ったことがある。
「何をしてティルベル嬢と関わったかはわからないけれど……王都に来たなら、家にも寄ってほしかったよ」
兄の黒い笑みはただ実家に帰らなかったことを責めているだけのようで、その点に関しては安心した。それよりもティルベルに正体がバレていることと、もしかするとミコトとセルカがひとつになっていることまで知られているかもしれないという事実に肝が冷える。
彼女の技能についての情報がなかったことと、治療してすぐに立ち去ったにも関わらず見た目をしっかりと覚えられていることを考えると、誤魔化すことは難しい。ジンが険しい顔をしていたことも結界魔法使用したことも、この話題で察したからだろう。
「……次に寄ったら、お土産を持って帰るよ」
演技でもなくしょんぼりと落ち込んだ様子を見せると、兄は言質をとったことに満足してか頷き、それから私の落ち込みようを見て慌ててお菓子を差し出してきた。
異空間収納から取り出したのだろう、突然目の前に現れたクッキーに面食らっていると、彼は最後に笑う。
「セルカが料理をしていると知ってね、母さんが焼いたものだ。今度は焼きたてを食べに来なよ」
そう言って席を立った兄は、ジンの横を通って廊下に出る。私は皿に盛られた大量のクッキーを見て呆然としていた。
「……ミコト」
そんな私に声をかけたのは、ジン。もちろん、次の言葉は決まっていた。
「ティルベル嬢の技能がまさか……魔道具を無効化するものだったとは思わなくて。ごめん……」
先手を取られて謝罪されると何だか責めるのも違う気がしてきて、私は曖昧に笑って首を横に振った。
「言葉を選んで手紙を書いてくれたってことは、きっと他の人にバラす気は無いんだと思うし。仕方なし。そんな顔しなくていいよ」
ジンは眉根に皺を寄せ、ほんの少し潤んだ瞳を揺らしていた。元々気の弱かった彼が今回泣いていないことが、時の流れを感じさせた。




