第152話「嘘と研ぎ澄まされたもの」
ジンを除いた全員が大海神の領域に避難し終えると、私たちは神殿内部に招かれる。教会を突然去ることの報告と謝罪、詫びの品はジンを通して大司祭あたりに渡しておくように頼んだから、それが終われば彼もここに来る予定だ。
流石に彼までもが教会を空けるのは不安が大きいため、話が終われば彼だけは地上に残ることになっている。地上に残るということは洗脳されている可能性のある大地神と敵対する天空神の影響が及ぶことと同義なので、私は幼馴染のことが心配だった。
不老長寿を羨み妬んだ過去が消える訳では無いが、幼い頃から共に過ごしてきたことは大きい。それに、一応改心しているのだ。死者ができるのは過去を悔いるより生きている者を助けること。
用意された大きい長方形のテーブルと椅子にはそれぞれ座る者が指定されているようで、私はウィーゼルの真正面……所謂お誕生日席に導かれた。それらすべてが水で形作られ半固定されているようで、座るとやわらかく包まれるようで、テーブルの天板に触れると氷のように軽く硬い音がする。
ウィーゼルだけは流水で成形された立派な玉座に座っていて、この場の支配者らしく堂々としている。
申し訳程度の挨拶として目礼をすると、人目のないここまでいい子ちゃんを演じる必要もないので、私は頬杖をついてジンを待った。
しばらくするとジンがやってきたことをウィーゼルが伝え、神器・女神の殺意が人型をとる。久し振りに見た長髪美人(男)の顔にはまだ傷が残っていて、ストレートの銀髪でそれを隠すような仕草を見せる。
「あたいはここにいるから、案内してらっしゃい」
ウィーゼルのその言葉に無感情に従う彼は、ひらりと身を翻してジンを迎えに行った。身に纏うひらひらとした布の重なりの隙間から、夥しい数の神代語のようでいてもっと古い文字列が見えた。それは私もセルカも見たことのないものだったが、視覚以外のどこかで既視感を感じた。
見たことは無かった。正確には、似たものは見たことがある。ただしそれは神代語なんかではなくただの古語で記された契約だ。かつての私がアルステラと交わしたもの……。
神器が何かと契約を結ぶ必要があるのか。その機会があるのか。契約は神器に刻めるものだったか。そもそも神代語なんてマジムより若いウィーゼルは知っているのか。
なんとなく覚えた違和感は、気持ち悪いもやもやとした気分にさせる。しかしそれを言語化する前にジンを伴った神器が帰ってきた。
「遅れました、ウィーゼル様。あまり長くは居られないので、要件は手短に」
長年現人神として君臨してきただけあって、ジンの礼は美しく伝統的で形式に沿ったものだった。そこまで畏まられるとは思っていなかったのか面食らっている様子のウィーゼルだが、彼女はジンが座るのを見届けると表情を切り替えて口を開く。
「天空神がついに動き出したということは察したと思う。天空神はあたいの二倍は生きているし、強い。神力を持つ者から離れず、絶対に一人にならないことが重要だね」
それから、天空神の容姿について言及される。
「天空神は元が男女それぞれ一人ずつで、今は女が男を喰らってただ一人になった。赤橙に黄色の混じったような髪が特徴的で、肩に届かないくらいの長さにバッサリ切り揃えているはず。男の姿をとるときは、髪の色の比率が逆転する。瞳は薄灰色」
その姿に縛られているから、髪と目にさえ気をつけていれば気付かぬうちに接近されることはないという。ジンは特に熱心にその情報を書き留めていて、彼も一人残るのは不安なのだとわかる。
ウィーゼルはそんなジンの手が止まるまで言葉を切って待つ。筆記が終わるとすぐに続けた。
「気になるのは、主神フレイズ様がどちらにつくか。代理であった女神フレイズが敵の総大将である以上、できれば味方であってほしいけれど……セルカちゃんの記憶から、何かわかることはない?」
それは私に対しての質問だったのだろう。私は瞳を閉じて思考を巡らせてから、椅子の背もたれにだらりと寄りかかる。
「アレは不干渉を貫くんじゃないの?使い魔のマジムの逃亡とセルカへの執着も、バウからの洗脳も気付いたはずなのに無視した。私のことも気付いておきながらセルカに任せるように放置した」
「それは……そうかもしれないね」
引きつった表情での同意に、思わずつられて苦い表情になってしまう。何より不確定事項の多さに頭を抱えたくなった。
「セルカを殺すのが目的というのも、納得できないけれど」
その呟きには皆も共感しているのか、空気が少し重くなる。敵対勢力の中核にいるバウは行動が早かった。いつからそのような不穏な計画があったのかも、わからない。
考え込んでしまったウィーゼルから視線を外すと、幼女守護団の面子を見る。へらりと笑っているリリア以外は一様に難しい顔をしていた。どんな話し合いのときも大抵こうなる。
不意に視界に入った神器は、抜け殻のような表情でこちらをじっと見詰めていた。それの何が気にかかるかと訊かれれば、ただ彼が私やその仲間に憎悪を向けていたことを思い出してあまりの変貌に驚いただけなのだが。
「…………ねぇ、女神の殺意サン」
いたたまれなくなって声を掛けると、彼は顔色を悪くして軽く仰け反った。それが驚愕を表しているのだということはよく理解できたが、その理由はうかがい知れない。
「何の契約をしているの?」
私が聞きたかったのはそれだけだった。答えられないものならそれで良かった。だからこそ軽々しく口にした。
「あ」
視覚情報が頭の中で整理されるより先にウィーゼルの声、そして液体が零れるような音が耳に入った。瞬きをすると、次にようやく生首が床に落ちた音とその光景が脳に焼き付く。
椅子に腰掛けたままのウィーゼルの身体の首元からは真っ青の液体が血の代わりとでもいうように流れ、私はその身体がバランスを崩して床に落ちるのを夢心地で眺めていた。ウィーゼルの生首は見えない。ただ視界の端には銀髪を体液で青く染めた神器・女神の殺意がいた。
彼は歯の根が合わないようでガチガチと音を立てていた。右手に刃を生やしてそれを振り抜くことで首を切り落としたようで、右腕はすべて青だった。立ち上がり右腕を横に伸ばした体勢のまま彼は微動だにしない。
「……ジンッッ!!!」
私が咄嗟に名前を呼ぶと、彼は瞬時にウィーゼルを囲うように結界を展開した。遅れて私たちそれぞれを個別に護る魔法を発動させると、その完成を待たずに私は動いた。
女神の天弓を構えて研ぎ澄ませた神力を矢の形に整え、弓を引いた。放たれた光の矢は微塵も動かずに立ち尽くしている神器に吸い込まれるようにして命中した。彼の頭部に新たな傷が刻まれるが、以前とは違い彼が発狂することはない。
ただ彼は、顔に恐怖を貼り付けて震える。
「殺してない、殺していない……セルカも、殺さない…………我が主よ、海神よ、気付いてくれ」
大海神の神力は拡散していなかった。それはウィーゼルが生きていることの証明だった。そしてそれは、神器がそのようにした、ということなのか。
「制約は、果たされても消えなかった。彼を蝕んだ。不用意に触れた私めの、落ち度で」
女神の殺意が口を開く度に、服の下に潜んでいた文字列がじわじわと広がっていく。それを目にしたトーマが低く呟いた。
「あれは、アルフレッドの腕にあった……」
思い出すのは、女神の殺意がアルフレッドに課した制約を解いた場面。彼が服越しに腕に触れて、アルフレッドは呪縛から解き放たれた。その直後、私の騒動があった。
「これは我が主に向けられた罠。身代わりとなれたことを光栄に思う。大丈夫、殺さない。殺させない。人間にできて神器にできないことなど、あってはならない。抵抗など、造作もない」
いつになく流暢に喋る神器は、あきらかに余裕がない。
「獣の罠だ。セルカの味方を潰すための罠だ。罠はこれで終わり。騎士と、神器と、味方に潜んだ獣だけだった」
私は弓を構えたまま言葉を聞いた。
「我が主、海神、大海神ウィーゼル。この神器を誰から賜ったか、思い出せ」
そう告げた女神の殺意の全身が文字列に覆われると、両腕が一センチ四方のブロック状に細切れになって散らばった。もとが無機物なので血はなかった。体は砂のような粒子状態を経由して武器の姿に戻るが、肝心な刃の部分は消失していた。
誰もが混乱し言葉を失っているときに、トーマは静寂を打ち破るようにはっきりと声を上げる。
「アルフレッドは秘密を口にすると両腕を失うと言っていた」
それは、まさに先程の光景を思い起こさせる。その契約はウィーゼルたちによって結ばれたもののはずだったが、契約満了時にも紋は消えなかったという。
アルフレッドから神器に呪いがうつった。そういうことなのだろう。
そこまで理解して弓を片付けると、神器周辺に飛散していた青い液体がすぅっとウィーゼルの体に向かって流れていくのが目に入った。椅子やテーブル上に散ったものも引き寄せられるようにして、戻っていく。
私は急いでウィーゼルの体と頭が見える位置に移動して、何が起きているかを見ることにした。そしてそれを後悔した。
「なるほどぉ」
生首が笑顔で絞り出すようにして発した声を聞いて、私は硬直した。ウィーゼルはたしかに死んでいなかったが、その生首と体がどろりと溶けて真っ青なスライム系の魔物のような状態になったのを見て、彼女の正体を知った。
すぐに元の快活な美少女に戻ったので、私は彼女が口を開くのを待った。怒りからか歪んだ笑顔を見せて、ウィーゼルは言った。
「女神、フレイズ…………」
それが、神器・女神の殺意をもたらした者。そしてその神器の想定外の忠誠心によって計画をひとつ潰された者。ウィーゼルを操ってセルカを害そうとした者である。
そんなことは既知の事実であるのだが、実際にその悪意に晒されたのが初めてであるウィーゼルは、改めてかの女神を敵だと認識したのだろう。
他の神に大きく干渉してくるなんて、予想していなかった。神同士の全面対決がはじまっているのだ。
「現人神。とりあえず、アルフレッドを連れて来て」
何事も無かったかのように椅子に近寄ったウィーゼルは、今度は足を組んで座る。厳かな空気はそこにはなく、先程まではあった焦りもなく、ただただ不機嫌な笑みを浮かべた神がいた。
彼女は若い。彼女よりもっと歳をとっているマジムがあれほどまでに感情豊かだったのだから、彼女がどれだけ感情的であっても仕方の無いことだ。感情に任せた言動はセルカを傷つけて以降注意しているし、今のウィーゼルは無謀でもない。
理不尽に殺されそうになっていたひとのための怒りが自身の怒りに変わったというだけだった。




