第124話「鬼の地の前に」
そのまま欲にまかせて満足するまで朝食を堪能すると、トーマよりは少ないがかなりの量を食べていたらしく思った以上に料理は減っていた。この体は私のものでないのに太らせるのは拙いので、これからは気を付けて栄養バランスやエネルギーの収支を調整しようと思う。
仲間内で分配しつつ残った食べ物を収納していると、最後に生ものだから食べきるようにという言葉と共に葛餅に似たデザートを出されて、もちろん全て胃に収める。この際カロリーは戦闘で燃やし尽くすことにして気にしない。
異空間収納内が充実すると、移動手段以外の用意は終わったことになる。すぐ動くとお腹が痛くなるかもしれないので少し休憩をはさみ、教会支部から出るとゆるゆると屈伸運動を始めた。
そのままひと通り身体を温めると、その頃には幼女守護団が揃いつつあった。ライライがいるので馬車を取り出すと、待っていましたとばかりに彼が寄ってきた。
「最近は体術ばかりだったから、虫達の活躍の場ができて嬉しいのです」
興奮を抑えきれぬ様子で触手をうねらせている彼は、魔族姿がとても堂に入っていた。犬のしっぽのようなものと思えば可愛いものだ。
体術を中心に戦うように戦闘方法を模索している彼の服装はひらひらと動きのあるローブから殆ど変わってはいなかったが、上から邪魔になる裾などをベルトで縛り付けている。ローブの虫使い適性が捨て難いというが、絞られた袖口から溢れ出してくる虫型の魔物群というのは中々壮観だ。
移動用の蟻以外にも周囲の警戒用に飛行する蜂などの魔物も次々と現れるので、ベルなんかは少し後退っていた。一生のうちで一度見るかどうかという規模の虫の大群はたいへん心強いのだが、これが味方でなかったらどうだろうと考えてみると恐ろしい想像しかできない。
「今回の蟻馬はひと味違うのですよ」
馬車に手綱を連結させながら、ライライは得意顔になって話した。
「僕がいなくても対応できる事態の項目を増やしたのです。例えば……あまり想定したくはないけど盗賊や人型で知能のある魔物なんかは獲物と見なした相手を逃がさないように機動力を奪おうと馬などを襲うことが多いことを考えて、最優先となっていた馬型の形成という命令の中に散開して回避する選択肢を組み込んだり」
彼の顔に浮かぶのは、あまり私がセルカじゃないとかそういうことを考えていなさそうな、打ち解けきった相手に向けるような表情。従魔術と少し勝手は違いそうだが気になる話なので聞き役に甘んじた。
ひとしきり説明して満足したのかライライが笑顔でうんうん頷きながら口を閉じたときにはもう私たち以外は出発する体勢が整っているようだった。私たちも御者台へ乗り込めばすぐに発つことができる。
「貴重な話をありがとう。久しぶりの御者だから先は任せるよ」
そう告げて御者台の端に腰掛けると、ライライは以前とは随分違う身軽さで台に乗る。手綱を握る手は骨張っていた。
闘うために人間を辞めた彼は、確かに強くなっていた。
途中まではある程度岩石を避けたり段差を削ったりして整えられた道が続いていたが、一際小さな鬼人の集落の脇を通り抜けたところでそれも消えていた。代わりに遠景に浮かび上がるのは角のように突き出た岩の群れ。
冒険者でも食料調達が困難なこの先の地にはあまり赴かないというので想像していたが、進むほどに緑が減っていくのはとてもはやい。村落地帯が植物のある土地との境界線ギリギリに位置していたのだろう。
平地での馬車の速度だと日が変わる頃に辿り着くという話だったが、凸凹の大地と蟻馬の組み合わせだとどうだろうか。
そう考えながら馬車に揺られていると、まだ正午には遠いが数刻経ったときにライライの蜂が一斉にひとつの方向に向かっていった。
虫の主に顔を向けるが、その表情は読めなかった。ただわかるのは一匹報告役として残された蜂が彼の眼前で踊っていることだ。それから何を読み取ったのか、彼の魔力は僅かに震えて……
「虫化解除、眼だけでも潰してほしいのです」
遠くの方で蜂の群れが様変わりしたのがわかる。数ミリほどに見えていた個々のサイズが激変し、魔物の形態にそれぞれ変貌しているのだろう、色や脚の形状にも差が出ているようだ。
ライライの目の前にいた蜂は三歳児ほどの大きさにまでなっていて、巨大な毒針と鉤爪が発達した一対の脚を擦り合わせていた。それもすぐに群れの方向に向けて飛び去る。
頼もしいではないかとその様を見ている私に気が付いたのかこちらを向いたライライは、そのまま馬車についた連絡用の小窓を開けて声を上げた。
「鬼が一体、感知技能持ちのようでこちらから視認できない距離から一直線に向かってきているのです!」
蜂の代わりに小バエのような、霧にも見える黒い群れを偵察に散らせながら報告を挙げた彼は、それでも手綱を握っていた。私は馬車との接敵ができるだけ減らせるように、彼と御者を交代する。いくら私でもどこにいるかわからない相手には無理だ!
それを皮切りに巻き毛の虫使いは次々に虫を呼び出しては魔物へと戻し、数秒後に再び叫ぶ。
「っ…………セッ、ミコト!」
短い声は危険を知らせるものだろう、私は有り余る神気をひと息に馬車の周囲に巡らせるとその全てを物理障壁と魔法障壁へと転換する。速度を重視したものの強度はセルカ以上と自負するその半透明の壁に衝撃が走ったのはすぐのことだった。
氷の膜を割るような音が響いて外側にあった魔法障壁が砕け散り、重低音が続く。一撃だけの衝撃だったが、それは物理障壁にさえヒビを刻んでいた。
それに重ねるようにして今度は丁寧に障壁を構築するが、暴れている敵が馬車の速度に追い縋るのが気持ち悪い。どこにいるかは蜂の群がり方でだいたい分かるのに見えないのは、そういう魔物だということ。
すぐに察したライライが米粒のような虫を向かわせ、魔物の体表に張り付かせることでようやく全貌が明らかとなった。
追いつくとか、速いとかではない……ただ大きい魔物がいる。これは逃げるという選択肢が中々選び難いものだろう。逃げ切れるように思えなかった。
そこにいたのは身長五メートルほどの、筋肉の鎧に包まれた体躯をもつまさに鬼といえる魔物だった。
虫に集られて視認不能というアドバンテージを失った鬼であったが、それを一切気にしない様子で障壁を殴り続けていた。
裸眼では見えない魔物の対策で最も有名な手段……魔力を視認しようと試みるも姿が浮かばないあたりは予想外だった。魔力無し、完全なるパワータイプの魔物らしい。
なるほどこの地に人が寄り付かないわけだ。
「近付くのは危険だし、このまま馬車を走らせるよ!魔法か弓で応戦、魔力回復薬はストックがあるから安心して!」
天使の声が使いこなせない私は、代わりに風属性の拡声魔法を用いて後方に指示を飛ばす。数瞬後にベルの魔法が完成して鬼に向かって飛翔したことを思えば、既に準備は終えていて待機していたのだろう。
魔法が鬼に着弾する前にライライの虫は全て避難しており、鬼の姿はわからなくなる。それでも炎は鬼にたどり着き、かの者を巻き付けるようにして肥大化する。
虫の次には炎で自身の身体を浮かび上がらせる羽目になった魔物の咆哮が力強く響くと、馬車内で詠唱が中断されるのがわかる。魔力無しの鬼のくせに魔力を乱す力はあるのか。
魔法の嵐が本格的になってくると、ついに虫の活躍の場が失われたライライが御者の交代を申し出た。有難く思って手綱と御者台を譲ると、同時に彼の虫たちは虫へと変化しながらローブの内部に消えていった。
見れる範囲が広がった私はまず全体の障壁の状態を確認する。補強すべき箇所はあるが、鬼がいる側はリリアの防御が間に合っているようなので私は攻撃にまわろうか。
折角ベルの炎があるのだから、得意ではないが私も炎属性を選択して低位の呪文で応援する。アンネは狭い馬車内部ではまともに支援できていないが、多少でも炎属性の強化が効いているようでベルの魔法は苛烈さを増していった。
これには流石に鬼の体力も尽きるのが早まったか、苛立つように豪腕の振るわれる回数が多くなってくる。殆どリリアと私の防壁に防がれてしまうが、それでももう幾つの壁を壊されたかわからないくらいには威力がある。
そのままある程度痛めつけた頃、鬼は突然大振りに打撃を浴びせるとその衝撃で守られている馬車までもが傾いたのを良いことに跳び上がった。一方向からの殴打はいくら繰り返しても無駄だと悟ったのだろう、馬車を跨いで跳んだ鬼はそのまま防壁の薄い側に体重の乗った一撃を放つ。
私の物理障壁は間に合ったものの尽くが破られ、それで威力が減衰した拳が馬車を掠めて、ついに馬車は横転する。展開が間に合わなかった防壁のひとつを緩衝材として馬車の側面に張り巡らせてどうにか大事を防ぐが、鬼はこちらに向かってくる。どうやら魔力の流れで目立ってしまったようだ。
このまま馬車を巻き込むことははばかられるので大きく馬車から距離をとるように動いた私は、直ぐに水を浴びせて魔物の鎮火を図る。
「ベル、炎は消すよ!物理耐性の高い人だけでいいから前衛頼む!」
私の声は届いたようで、トーマとステラが馬車の影から出てきた。アンネは前に出ずに後衛達の護衛役をつとめるようだ。手綱を握る必要もなくなったライライは半分液体のようなクリーチャーを身体に纏わせてこちらに加勢する。
一度完全に見えなくなった鬼に今度は闇属性の拘束をまとわりつかせると、良い塩梅に姿がわかりつつ動きが僅かに鈍る。禍々しさは割増しどころか倍以上だ。
トーマはイヴァを手に駆け出すと、鬼の緩慢な動きで繰り出される破壊力抜群の拳をすり抜けて肉薄する。彼自身は血魔法を使っていないようだが魔剣の色合いが変わったところを見ると剣の方が自身を強化したようだ。
彼の確かめたいところは刃が通るかだろう。鬼の股下で振るわれた黒剣は魔力の残滓を遺しながらかの魔物の内腿を大きく滑る。
「いける!」
トーマの声に伴って鬼の絶叫が響いた。決して深くはないが無視もできない切り傷を刻まれた鬼は、おおきく振りかぶって足元のトーマに向かって腕を落とすがそれは地面を抉らせるのみ。
物理攻撃がしっかり通るのを確認した彼はそのまま速度の優位を利用して、鬼を間合いから外さないように、しかし自分に打撃が加わることのないように足を止めずに斬る。
そこに半物質、半ば幻影のように顕現したステラが夜の闇を閉じ込めたようなナイフを投擲する。関節を狙って投げられた刃物は私の拘束魔法に触れると融けだして、関節部分の束縛を補強していく。
ライライは触手を器用に扱って高度を稼ぐと本来護身用である短刀を鬼の眼球に目掛けて刺突する。結果として浅く突き刺さった刀を駄目押しとばかりに蹴りつけると、鬼の動きが一層鈍くなる。ステラの支援も効いているようだ。
鬼は鬼で触手を掴む千切るなどしているが、元々それを予想していたのかライライはすぐにそれを切り捨てる。多少の痛みより動作を阻害される方が面倒なのだ。
魔力を持たない鬼の攻撃はどうやってもステラに衝撃を通すことができないし、皮膚は硬いものの確かにダメージは溜まっている。どちらが有利かは明白で、次第に膝を曲げることすら困難になった鬼の肩にトーマが着地した。
「拘束をキツくしてくれ」
「わかったよ」
指示に従って神力を注ぎ込むと、ピクリとも動かなくなった鬼の上で彼は自身の手の甲を傷付けた。そこから溢れ出す血液は魔剣に吸い込まれるように流れ、やや時間はかけて刀身を覆い尽くし、そのまま鬼の首幅を超えるまでの長剣となる。
そのまま彼は実戦ではなかなかとれないような、隙の大きい構えをとる。これから大振りに剣を振るうと宣言するかのように大胆な構えだが、鬼は対処しようもなく硬直している。
研ぎ澄まされた一閃は、たしかに大きな隙を作った。しかしそれを突く者はその場に居らず、斬られる相手の抵抗も無い。それ故まことに美しい断面を残し、闇の束縛すらも断ち切ったために鬼の首はごとりと落ちる。
その途端に色を取り戻した鬼は、はじめて視認できるようになる。魔石や角なんかは有効活用できそうなので、素材の剥ぎ取りがしやすくなって丁度良い。その骸はどす黒く濁った血色の肌を黒い体液で汚していた。
鬼の身体が支えを失って倒れるより先に地面に降り立っていたトーマは魔剣イヴァがもつ漆黒の刀身をひと撫ですると口の端を吊り上げた。
「実戦向きではないが、こりゃいいな」




