第119話「無為無気力の明け」
少し遅れました
朝、疲れの残る顔で挨拶を述べた私たちを見て、リリアやアンネたちは目を剥いていた。隈もくっきりとついていたうで何をしていたのか問い詰められるも、昨晩の出来事を話す気にはまだなれなかった。
私が話す気がないとわかると他の面々も口にすることは憚られると判断したのだろう、朝食時はこれまでにない静寂に包まれていた。
いや、それだけではないのだろう。朝起きて飯を出された時点で気付かないわけがないのだ……バウという、食欲魔人の不在に。流石にそこから彼が関係するということはわかっていて、だからこそ放っておいてくれていると思えるのだ。
そのまま一日中仲間の優しさに浸かっていれば、遂に出来事を語ることなく夕食を迎えてしまい、私は唇を噛んだ。気遣われるのは悪くないが、みんな、バウのことが気にならないのかと機嫌が悪い方に傾くのは、自覚できた。
空気に慣れた者は口を開き、舌を踊らせる。いつもは果実水を飲んでいる者が、ワインを口にする。普段通りといかないのはわかるが、どうにも妙で、居た堪れない気持ちになる。
カチャン、と食器のぶつかる音が響くと、しんと静まった。荒れた心のままに扱われた陶器は割れることはなかったが、珍しく大きな音を立てた私を見る周囲の目が何を思うかが全く読めず、なんだか、とても吐きそう。
「……昨日のこと」
私はこの目で見たものを淡々と告げていった。憶測や予想が混ざらないように、視界に映った事象をつらつらと述べた。感情なんか含めたら、言葉がばらばらになってしまいそうだった。
「慢心もあったと思う……彼なら平気だって」
今の私の顔は、醜いだろうか。
それきり口を閉ざした私はそれまで存分に迷い回っていた思考を止めて、空の食器を見下ろした。艶のある陶器にぼんやりと映りこんだ私の顔は、陰になってよく見えなかった。
自己嫌悪に陥って、その晩は目を瞑るのが嫌だった。眠る前の瞳を閉じている時間は、こういうときには消えてほしいと思えてしまう。いつもはすぐに温い微睡みに落ちるというのに。
情けなくて涙が溢れる。リーダーが、メンタル弱くてどうする。まとめるどころか掻き回すような動きをしてしまった。
布団に包まってぐっと涙を流している間は、見た目通りの精神年齢であるように見えただろう。そう、客観視する余裕があるのかといえばないのだが、余裕が無いときに限って現実逃避のように別のことが頭に浮かぶ。
自分も強くなっていると思っていた。実際、前よりは随分と成長したものだ。でも、神の使い魔と渡り合えるような実力を持っているというのは、正しく慢心の生み出した思い込みだった。
バウは私の魔法なんて痛くも痒くもないという風で、気にも留めずに魔法陣を構築した……それが実力差のすべて。
後を待たずに助けに行っていれば、間に合ったかもしれない。速さより威力を重視していれば、手を止められたかもしれない。神力の扱いを身につけていれば、魔法陣に何かしらの干渉ができたかもしれない。
かもしれない。でも、今に繋がらないifだらけ。私は震える吐息を毛布に染み込ませ、堪える。その限界がくるのは、すぐのことだった。
「…………っ」
なんで、と考えても仕方の無いことなのだ。そう割り切るには、私は子供だった。嗚咽が洩れ、元々流していた涙だけでなく鼻水も垂れてきて、咄嗟にティッシュ代わりの安い布に顔をうずめた。
すべてをそれにはき出して、眠ろう。そして一旦、自責の念に蓋をしよう。私を慮って我慢してしまう仲間がいるのだ、せめてリーダーに相応しくありたい。それまでの、眠るまでの時間は、存分に後悔しようではないか。
ばか。ばか。あのときにもっと慎重に動いていれば。
気付かれなければ。
逃げきれていれば。
早く追いつけていれば。
私が、強ければ。
そしたら、きっと、まだ彼はそばにいてくれたのに。
朝、腫れて赤みの残る目元を誰かに見られる前に手早く治し、トーマか来ないうちに髪を櫛通す。いつもより疲れた顔をしている気がするが、昨日の今日で突然元気になるのもおかしいので、それは放置だ。
普段より遅くやってきたトーマを迎えると、予想よりも私の表情が明るかったのを見てか僅かに片眉が上がったのがわかる。挨拶も忘れられている。
「……おはよう」
「ああ」
昨日の私は相当酷い状態だったのだな、と思うと困ったような笑みが浮かぶ。これは、無理をしているように見えるのだろうか。無理をしていないわけではないが、辛いのは私だけではないのだと改めて心に刻むと、幾らか気分は明るくなるような気がした。
それは空元気とも言うが……。
「今日はポニーテールでいいよ」
いつもの髪型を作ろうとしているのを見て、私は止めた。精神に気合いを入れるために、まずは頭髪からだ。私の指示に従って結われてくんと持ち上げられた髪と皮膚は、心をも持ち上げる。頭の重心がいつもと違うのも、今日くらいは良いだろう。
礼を言って諸々の身支度を済ませると、いつもより幾分早い時間だがいつも通りに部屋を出る。まだ教会内の神官たちは礼拝をしている時間なのか、やけに静かだった。
閑散とした廊下を過ぎ、誰から言葉をかけられる事もなく、会釈する機会すらなく食堂と化した一室に向かう。一部の朝訓練を行っている仲間もまだ戻ってきていないらしく、どこまでも音寂しい。
良い機会だ、と私は振り返った。そこにはさも当然のようにトーマが立っている。
「……今日から実戦形式での訓練も再開するよ。トーマは付き合ってくれるかな?」
ぐっと拳を握り締めてしまったのが気合いが入りすぎているように見えたのか、彼の視線がそこに向かった後に吹き出されてしまう。力み過ぎ、だろうか。
「仰せのままに」
大袈裟に恭しく手を差し出してきた彼は言外に無理はするなよと声を掛けているようで、緊張の紐が緩まったのを感じた私はそっと手を取った。これからすぐに朝食なので意味の無いような行動だとは思うが、トーマは満足気にしていた。
そのままベーコン目玉トーストと野菜のクリームスープを用意して、食卓にまであたたかくほっとする香りを乗せた空気が届く頃、既に腰掛けていた者に続いて椅子に座れば、私の顔を見た数名が小首を傾げる。
何かと思って聞いてみると、どうやら私は随分と明るい表情をしていたらしい。ポニーテールに驚いたというのもあるだろうが、周囲には昨日のような気遣う雰囲気もほとんどない。
できたての朝食とやさしい空気に、私は思わず笑みをこぼす。まだ割り切れてはいないけれど、ずっと後悔するより今は進む方向に意識を向けて正解なのだろう。
「「今日も、我々に生きる糧を与えてくださったことに感謝します」」
風が動く。言葉が交わされる。ひとつの空席は気になるけれど…………ひとつの空席?
不意にマジムの椅子はどうしたっけ、と顔触れを確認する。さっと視線をめぐらせると、そこには青い髪の女の子。もちろん、ライライではない。お代わり用に置いてあったトーストを取ってきたのだろう、美味しそうに頬張っていた。
「ウィーゼル?」
「ん、ちょっとあとにしてね」
大海神は、あくまでも自分のペースで朝食を食べ進めていった。
朝食後、改めてウィーゼルと話をする時間をとった。彼女はいつの間にか背後にふたつの武器……三叉の矛と女神の殺意を控えさせて、服装も以前よりは露出が少ないしっかりとした装備を身につけていることから、重要な話があって来たのだと思われた。
あまり深刻そうな顔をしていないウィーゼルと反対に、女神の殺意はものは言わぬがこちらに敵意を向けていて、空気はぴりりと張り詰めた。
「要件はひとつ。大きな神力の塊が少し前に消失したことだよ。個体数は弐。世界のバランスも対立する神々のパワーバランスも崩れたって話よ」
頭の動きに合わせて深い碧の髪がひょこりと揺れ、私は無意識的にそれを目で追った。彼女が話しているのは、おおよそマジムとバウの話だろうとは理解出来たが、ひとつ飲み込めない内容があった。
「……消失した?」
僅かに身を乗り出すと、ウィーゼルは肩を竦める。
「いや、それがさぁ、生きてるのに誰も気配を感じられなくてさ。……そのぶんの力がごっそり、世界から消え落ちたわけだ」
軽い口調と表情、明瞭な声音。されどその言葉の重大性はするりと頭が呑み込んだ。ウィーゼルの瞳が、こちらを射抜いていた。