第105話「記憶の片隅に」
敵対する魔物の全てが息絶えたとき、それを一度ゆっくり確かめたヴァッハは獣でありながら人間のように熱く息を吐いた。
『ああ、奥底で眠ってばかりいたせいで、有象無象にこの層を支配されていようとは、思わなんだ』
言葉から察するに、ここ……自然溢れる森林の階層は魔物が跋扈する危険な場所ではなかったらしい。黒炎から成された普通サイズの狼たちは嘆息する主の周りを囲むようにして集まると、そのままそこで不動となる。
『元は番の大狼を配置していたのだが、知らぬ間に魔素の濃度が増して魔物の巣窟となったのであろう。重ねて謝罪する』
ヴァッハが言葉を続けると、狼たちは彼の動きに合わせて一斉にこちらへ頭を下げ、私たちはその様子に面食らって「いえいえ」と逆にぺこぺこ頭を下げた。
しかしこれまでのことはまだ本題ではない。ここに来たのは彼の……ヴァッハの立場をはっきりさせるために、もとい同陣営に引き込むためである。
そうなると、このタイミングは逃せない。
「ヴァッハさん、実は、要はほかにもあって」
居佇まいを直して彼の目を真っ直ぐ見つめると、くいと顎で続きを催促され、促されるままに話した。
「通達は来たでしょう。私はその際に中立を選んだあなたに、こちらの味方になってもらいたい。理不尽に殺されるのは嫌だから」
言い終えると、ヴァッハは少し考え込む仕草をして、通達という単語の中身にようやく思い至ったのか目を細めた。これまでの流れを考えると突然襲いかかってくることもあるだろうから、少し警戒度を引き上げる。
するとこちらの身が僅かに強ばったのを察知したのか、くすくすと笑うように鼻息を荒くした。後ろに控えたマジムも巨大な獣の姿のままで殺意も神気も感じられないため、私の空回りか。
自分の呼吸音が気になるくらいに静かになって、私はヴァッハの回答を待った。待って、あんまり言わないものだから首を傾げると、再び笑われた。
そしてあっさりと、ヴァッハは言った。
『良い良い。誤解を解く手助けをしてくれたうえに、かわいい子孫らもお前たちを歓迎している。そんな者らの想いに答えずにはいられまい』
少し嬉しそうにしっぽを揺らす彼は、小さな声で『柱の神が仲間なら心強いな』と付け足す。……これは、今回の冒険の最善のパターンではなかろうか。
呪いを解くどころかむしろ加護に変えたうえに、秘宝も見つかり、獣神が味方になる。死力を尽くしての戦闘も無く、ただただ円満に進んだ会話。
私は詰めていた息を吐いて、きっととても情けない表情で笑っていることだろう。
「よかった……」
そして、気になった点を聞く。
「そういえば、今、子孫らって言いましたけど、それって……」
じいっとヴァッハの姿を眺めると、その赤茶色をした体毛はいかにも赤狼族の毛並みではないか。つまり、そういうことなのか。
毛色に釘付けになっていたのがあまりにもわかりやすかったからか、彼はその立派な毛の色艶を見せつけるように立ち上がり、僅かに神力を纏って空に向かって頭を掲げた。
『神になる前は先祖返りの獣人だったものでな』
そう言うなり大きく遠吠えすると、森を形成していた木々が一拍遅れて激しく揺らぎ、盛大に葉を散らした。竜人のハウリングと似たようなものなのか、空には黒い渦がたちのぼっていた。
気高く力強いその姿を見て、強さを求める者が憧れを抱かない道理はない。くらくらするような強烈な神気が、この時ばかりはマジムのものに匹敵するように思えた。
それから少しばかり神になるまでの強さを入手した過程について物語調に語ってもらったのちに、その最中に現れた討伐隊という単語から思い出されたことを質問する機会があった。
神器を持ったヒトの軍人、だなんてそうそういるように思えないので、その連想ゲームはとても簡単なものだった。
「そういえば、私もそんな感じの軍人に会ったんですよ。その方は最後に私に忠告をしてくれたのですけれど」
バウたちにはこの話をしていないため、彼も、少し距離を置いているメンバーも、少し不思議そうにしている。
『ほう、話してみよ』
褒め称えられてすっかり良い気分だったのか、ヴァッハは耳をこちらに向けてぴくぴくと動かした。目を細めているのも口角が上がっているおかげで楽しげな表情に見える。
この機嫌が悪くならなければ良いが、と思いながらも、ここまで来たら言うしかない。
「ええ、はい。内容は確か……獣に気をつけろ」
尻すぼみになった声は掠れて「でした」という音は空に呑まれた。
ヴァッハはそれを聞いて耳をピンと立てたが、それは驚いたときの仕草らしく、彼の大きな瞳がキョトンとしてこちらを見ていた。
『獣、か。そなたが言われたのだから、獣神と考えてしまうのも仕方なかろう』
だが実際、彼はとても友好的でありマジムの警戒も薄い。そもそも獣神と大地神の力量の差は大きく、何か重大な問題がない限りはマジムが私から離れることは無い。
そもそもマジム以上の相手なんて限られていて……。
『もしかすると、敵対勢力の女神フレイズ様の使い魔の獣のことかもしれん』
そのヴァッハの予想は外れていないだろう、とは思った。だが、その前に、私は違和感が拭えない。
フレイズは……男に見えたのだけれど。
言い間違えたような様子もなく、それにフレイズは私をこのように転生させた張本人なのでむしろこちら側の最高戦力とも思えるので、敵対勢力のフレイズとは別者なのだろうか。
人間側が知らないだけで神の間でのみ伝わってきた何かがあるのかもしれないが、あまり深く訊くのもはばかられるためそこでは追及することはやめ、ヴァッハの冒険譚への興味が尽きないバウやライライなどの質問攻めが始まると、普段通りの明るい空気が広がった。
私はフレイズのことはジンにも質問してみようと心に留めて置いて、質問攻めに加担した。ヴァッハの嬉しい悲鳴が聞こえてくるような時間だった。
その後、祠……もとい赤狼族の秘宝をマジムに載せてヴァッハと共に神殿から出ると、頭を垂れる一族郎党を目にして反応に困った。
流石に赤子など幼き者らは抱えられていたり集中力に欠けるのか列から外れるものがいるが、それ以外は皆一様に綺麗な従臣の礼をとっているのだ。原因はおおよそわかっていようとも、身構えていない限り驚くものだ。
マジムとヴァッハ、そして高位貴族であったベルはそんな様子も見慣れているのか動じていないが、どう考えてもかれらのは慣れと育った環境に因るものなので私の反応が普通なはず。
ここで発言したのは、最も相応しい者。
『面を上げよ。長年、迷惑をかけたな』
重低音の獣の唸りに混じって響いた声に、赤狼族一同は狼狽えながらもそろそろと顔を上げた。そして赤狼の特徴がよく表れた外見をしているヴァッハにさらに狼狽し、視線が忙しなく動く。
普通の村ならここでざわつきそうなところだが、彼らは無言のままに目で会話でもしているのか、静か。それでも収まらない混乱を見るに見かねて、最初に挨拶をしてくれた長老のような者だった。
彼が手を挙げるとその指先に視線が集まり、落ち着きを取り戻したのを確認し終えると重々しく口を開いた。
投げかけられた賛辞と歓迎の言葉に気を良くしたヴァッハは、やさしく告げた。
『我が子孫らよ、これからは自由にここで暮らすとよい』
もちろん、その夜は宴となった。
学校行事の準備の関係で今週分の執筆が間に合わず、報告なく更新を休んでしまいました。
申し訳ないです。
次の土曜には今週分を含めた2話を投稿させていただきます。