第103話「みどりの瞳の狼」
祠、すなわちそれに納められた秘宝は、無機物なので表情こそないものの、神力の波形でなんとなく感情を表しているようだった。
バウは神気の矛先が自分であることを察知して書くの違う気配に毛を逆立てているが、当の秘宝はというと、神力をもぞもぞと動かして人型……それも狼の獣人を形取り、彼の方へと歩き始めていた。
慌ててバウには神力が見えないことを伝えようとするが、その前に彼のもとに到達した神力の塊は、総量がさほど多くないせいで低い身長で、必死に背伸びをして彼の頭を撫でた。
『ただいま、ない?』
その声と感触を受け取ったバウは、すぐさま返答する。何年ぶりなのであろう、契約者との邂逅を果たした秘宝は、のっぺらぼうながらに体で歓喜を表現していた。その身体を構成するのが魔力ならば全員見られるのに、勿体ない。
人型を保つのも消耗が大きいようで、それから何度かバウの瞳に自身が映っていないのを確認した秘宝は、僅かに肩を落として神力を霧散させた。
「見えなくてごめんね」
バウが何を察してか呟くが、秘宝は黙り込むばかり。
すると後方からマジムが寄ってきて、この場の誰よりも秘宝をはっきりと認識することができる彼は祠の周りを何周かして、ため息をついた。
「秘宝、あなた、無意識に認識を阻害する結界を張っていたんでしょう。そりゃ、赤狼たちがいくら探しても見つかりませんよ」
彼の言葉通り、周囲に巡らされている認識阻害の障壁は神力をベースに構築されているようだった。これではたとえここに辿り着く赤狼がいたとしても、秘宝を見つけることなどかなわずに森で命を散らすばかりであろう。
一方本体にはその自覚がなかったようで、突然大きくその場を満たしていた力が乱れたと思えば、結界が揺らぎ、そのまま薄れていく。
結界の術式構造に疎かったのか慣れない手つきで、一歩間違えば大爆発……なんてことも有り得たので、私はそれを見て背中に冷たい汗が流れるのを感じた。これでいい?とばかりに『できた』と聞こえてきた声に嘆息する。
幼い子供を見ているようなこの気持ちは、恐らく秘宝の精神成熟度が著しく低いことに起因するのだろう。きっと、言葉を覚えたのなんてつい最近で、自我が芽生えたのもここ十年以内。
私はみんなに与えていた神力を返してもらって、それでもしっかり全員が祠を視認しているのを確かめると、改めて言葉を発した。
「十中八九、何かに見つからないようにって思考した結果が反映されたんだろうね。ここ周辺の警戒対象といえば……」
当たり前のことである。秘宝が恐れていたのはこの神殿の主である獣神ヴァッハなのだ。
神力で築かれた魔法だからこそかれに発見されることを防げていたようだが、結界が解かれたことで突然に現れたアーティファクトは警戒すべきものであるため、意図せず主を呼んだ可能性が高い。
身を固くして来訪を待っていると、それから直ぐに濃厚な力が何もない空間に渦巻き始めた。それに注目が集まると、獣形態のマジムのものよりもひと回りもふた周りも大きな獣の前脚が生えた。
そして、その前脚が完全に地面についたとき、一気にその全貌が明らかになるのだった。
その個体は完全に獣……それも狼で、獣人やマンビーストとも違う様子だった。その瞳に理性的な光があることを除けば、強大な魔物にしか見えない。
頭から尾にかけて白から赤みの強い赤茶に変わっていくグラデーションをもつ毛並みは、柔らかさより鋼のような硬質感と鋭さを有し、透き通った翠色の瞳の輝きは目を奪われてしまうほどに美しかった。
そのどことなく赤狼の色彩を感じさせる獣を見て、誰もが理解したことであろう。ヴァッハだ。
『ずっとここにあったようだな、これはそちらの物か』
祠に草が絡み蔦のまとわりつくのを見て判断したのか、ヴァッハは鼻先をそれにつきつけて声を轟かせた。耳は獣の唸り声を認識しているのに脳が受け取るのは大陸言語であるという点に驚く間もなく、ヴァッハは言葉を重ねた。
『正しくはその受け皿の一族のものだろうか。ふむ』
赤狼族が仕方なくこの周囲に留まっていたことはこちらが説明するまでもないようで、巨大な尾がみるみるうちに垂れ下がっていく。
緊張で言葉を忘れたバウはかくかくとひたすら頭を縦に振り、それを見て巨狼は目を細めた。
『早とちりしてしまってすまなかったな、呪いの受け皿よ』
呪いの受け皿とはバウのことだったらしく、飼い主に叱られた犬を想像させる仕草でヴァッハはぺたりと伏せてしまう。それでもその体の高さが三メートルを超えていた。
『ひとつの独立意思をもつ生命として生み出されるより早くに干渉してしまったため、今更普通の獣人にすることもできないのだ……』
半ば独白のようにぽつぽつと呟くかれは、神力でバウを包み込むとそのまま彼を自身の鼻の手前まで引っ張り、動けなくなった彼にこつんと乾いた鼻をぶつけた。
『呪いから祝福に書き換えることは容易いぞ』
その言葉を認識した途端、ヴァッハの抑えられていた神力がいくつもの光の玉をつくりだして不規則的な動きをしながらどこかに消えていく。そのうちのひとつはバウの体に吸い込まれるように溶けていった。
「いま、の、は?」
絞り出された彼の声は、期待に満ちていた。
鑑定なんてしなくてもわかるほどに、バウの雰囲気は変わっていた。
『無論、実行したまでだ』
おそらくレベル相応かそれ以上の能力を手にしただろう、ヴァッハの言葉にバウは何度か手をグーパーと動かして感覚を確認していたが、すぐに頭を下げた。
礼を言う彼の声には、涙が滲んでいるようだった。




