第98話「信心の芽生え」
黙り込んでいるトーマや仲間たちはそのままに、被害に遭っていない従魔二匹を伴って、私は神殿内にお邪魔した。
神殿といっても、ブラオの、愛の神の神殿は小さなお城のような見た目をしていて、一見しただけでは神の所在地には思えないだろう。実際、神々が下界で過ごすのは僅かな時間なので住居としての機能はほとんどないのだが。
まず入口を過ぎると神殿としての役割を持つ祭壇があり、その向こう側に神族や神力を宿す者の関係者にのみ認識できる空間が現れる。しかしそこにあったいくつもの分かれ道が目に入り、私は頭を抱えた。
「ブラオさーん」
呼び掛けると、どうやら『試練』を解除するのを忘れていたようで、直ぐにゴールへの一本道が見えてくる。どういう仕組みなのか、大地神の神殿攻略時から考えていたが、さっぱりだった。
それまで見えていたものに重なって隠れていた空間がはっきりと顕現したとき、奥からコツ、コツと足音がして、彼が迎えに来たのがわかる。
「こっちが出向くべきだったねッ!!!」
ブラオは艶々とした髪を靡かせて私の手を取った。よく見知った相手でないにもかかわらず不思議と不快感はなく、私は流されるままに彼の空間に誘われた。
体術から想像はできていたが、そこは薔薇に満ちた広間であった。外から見た神殿に絶対に収まりきらないであろう中庭然とした空間は、色彩・個性豊かな生花が溢れんばかりに花開き、アーチや動物を象っていた。
それらを構成するのは全てが薔薇。最も多いのは情熱的な赤だが、赤は赤でも種類がある。小ぶりの花弁が愛らしいものや、淡い赤が光に溶けるような色彩のもの、オーソドックスな薔薇も心做しか活き活きとしているように見える。
腕を引かれるままに歩きながらも私はその光景に釘付けになり、忙しなく眼球を動かした。これまで見てきた中で最も美しい光景のひとつに数えられることは間違いない。
そうしているうちに定位置についたブラオは、薔薇系の装飾が施された一人掛けソファに目配せし、その目の前に同じソファをもうひとつ用意して私に座らせた。
「ポット」
ブラオがくいと首を捻ると二人の間にガラステーブルが生えてきて、そこに同じくガラス製のティーセットが生えてきて、いつの間にか茶会の様相になっていた。
一応茶会主はブラオなので彼が口をつけるまで紅茶には手をつけないでいると、その液中に鮮やかなローズジャムが垂らされた。
「飲んでみて、ねッ」
ブラオがそう言うと、促されるままにカップに口をつける。しっかり混ぜていなくても薔薇の香りが口腔内を満たし、ほっと息をついた。
それを見てか、ブラオはにっこりと微笑んで緩く頷いた。何か話があると思ってきたのだが、私に飲み物を勧めた後に彼が口を開く気配はなく、ただ出された茶と茶菓子を頬張るだけの時間になってしまっていた。
しばらくそんな時間が続いて、そろそろ食い意地に気まずさが勝ってきた頃、彼は口つけていたカップを下ろし縁に付着した紅を拭うと艶かしい表情で呟いた。
「もてなす相手がいるっていうのは、新鮮ねぇ……」
先程まで健在していた強めの語尾もなくなり、せつなさを含んだ表情がより一層際立って見えて、私はただそれを聞かなかったフリをして黙ってもてなされることにした。
薔薇がブラオの気持ちに反応してか、そわそわと落ち着きなく揺れ、私たちの方へ顔を向けている。舞い散る花弁や花見といえば桜だが、これもまた良いものだと、心から思った。
静かな時間は入口からトーマ達の呼び声が届くまで続き、愛の神というものが一番愛に飢えているのかもな、というクサい台詞はどうにか喉元で留めることができたのだった。
「さらばッッ!!!」
ブラオが手土産として渡してくれた黒い薔薇の種を大切にしまってから、名残惜しさを微塵も滲ませない彼の姿を背に歩き出す。
下り道は奇妙なものに出会うこともなく馬車の使える拓けた道まで行くことができて、あっという間だった。それもあってか私には山中の出来事が夢のように感じられたが、若干数名にとっては黒歴史として記憶に刻み込まれたらしい。
また、逢いに行くことが出来ればいいな。
そして、幼女守護団一行が山を登り始めた頃、魔法国家アズマのエルヘイム領では、セルカを見張らせていた熟練の執事たちが彼女を数度見失ったという報告を得て、かの兄は怒り狂っていた。
「せっかく、事故から少し様子がおかしいからと見守っていたのに!!攫われたこともあったらしいな!?」
それを直接執事たちにぶつけることはなかったが、傍でその怒りようを見ていた者達は恐れ慄いた。何せ相手は、若くして多くの功績を挙げている、今や王国民のほとんどが知っている魔剣士・スラントなのだから。
その妹が馬の暴走に巻き込まれた結果命を喪いかけ、奇跡の生還を果たしたものの事故前と性格が変わって強くなることへの執心もなくなり、『まとも』になった。
それをはっきりと認識したスラントは、淑女としての成長か、はたまた悪魔に乗り移られたか、次期当主として見極めるべきだと警戒していた。
それが学園で予想以上の躍進を見せ、単身では記録に残っているものの集団では前代未聞の実力認証による卒業までしでかした。鼻が高いといえばそうだが、不気味にも思えていた。
それでも妹のことは大好きなスラント。大変そうなら初対面を装って助けてやれ、という命令とともに監視を義務付けられた数人の執事たちは、トーマに施された教育よりかなり厳しいものを受けていたにもかかわらず、スラントの期待を裏切る結果をもたらした……。
もし彼が普通の貴族であったなら、雇われ人たちは仕事を失うと同時に信用信頼も消し飛んで転職もままならなかっただろう。
そのところを雇用し続けている温情は有難く思っていても、訓練場で破壊行動に勤しむ主人を見て恐れを抱かないことはできなかった。
それに、彼らは知らないが、見失った原因は全て人智を超えたモノが原因である。
神力を原動力とする隠蔽された転移装置やウィーゼルがもたらしアルフレッドが扱った神器、それによる誘拐……常人に足取りを追えと命じても、無理があった。
そして、スラントはそれを多少は感じ始めている。
彼はセルカをよく知り、魔力の質も、量も、見た目も、大体の潜在能力やポテンシャルも把握していると思っていた。
それが、事故後にはまず魔力量が増えていた。これはまだそこそこある事例だとはいえ、その後がまずかった。ガイアを返り討ちにして神力を手にしたセルカの魔力は神力を含んで変容していたのだが、魔力変質など有り得ないのである。
だが死体が悪魔に乗っ取られた場合、医師はそれを判断できる上に、セルカは教会にも祈りに行くし闇属性魔法が得意なわけではない。そもそも変容していたといってもベースはそこまで変わっていないから、悪魔、つまり全くの別物に成り代わられた可能性は限りなく低かった。
今ではスラントは、セルカのことを妹として見ていない。
「……現人神」
執事たちにも聞こえぬように呟かれた言葉は、当たらずとも遠からず、セルカの正体を推理したものだった。種族が進化していたのも、ただのクォーターエルフの身には宿ることができなかったのではないか、と推測していた。
旅先での出来事から本国公認の現人神と仲睦まじい様子も確認されていて、迷宮なんかで助けられた冒険者たちは一部が畏れに近いものを彼女に抱いていた。
妹は現人神になられた。
そう結論付けてしまうのも、無理はない。
「狙われることはないか」
スラントは不安だった。
「美人の集まりの中でも、一際愛らしい」
そんな妹のことが、
「あれほど可愛くて優しくて強くて利用価値のありそうな子が狙われないわけがない……!」
心配だった。
一度は救えても二度目はあるか。彼の心配事はそれに限る。他国故に多少は連絡も遅れるが、それでも次々と入ってくる情報。自分だけの大切な秘密として、現人神を見守っていることを、スラントは父と母にも伝えていないからこそ、自分だけで解決しなければいけないという思いに駆られていた。
音は聞こえなくとも唇の動きでなにかしら呟いていることに気付いた執事たちは、不気味に思いながらそれを見ていた。すっかり変わってしまった、と思われているのは自分もだなんて思いもよらずに、スラントは苦悩に堕ちていく。