小さな泥棒
僕がその本屋を見つけたのは、本当にたまたまだった。
その日初めて訪れた町の書店に営業に訪れ、その帰り道に昼食を軽く済ませて駅へと戻るその道の途中で、たまたまその小さな本屋を見つけたのだ。
周りに商店の類は無く、住宅街の片隅にひっそりと姿を現したのは、いつも営業に向かうような書店などとは雰囲気からして違う。
店舗前に張られた大きめな日除けの下には申し訳程度の数の雑誌が並べられ、開け放たれたガラス扉の先の店内は、明るい昼の日差しのある路上からは奥が見通せないような薄暗さだ。
住宅街の角の一軒家の隅を店舗に仕立てたような、その小さな本屋にはやや端に錆の浮いたブリキ製の看板に「本」とだけ書かれた物が掲げられている。
今や大手ネット通販の売り上げの煽りをくらい、既に見かけなくなって久しい何処か懐かしい匂いのする町の本屋──まるで時代に取り残されたような姿に僕は思わず足を止めていた。
そこそこの出版社の営業を任されている一人としてか、それとも職業柄なのか。興味が湧いた僕はその小さな本屋に吸い込まれるようにしていつの間にか店内に足を踏み入れていた。
店内は僕が思っていた以上に狭かった。
店舗面積でいえば、僕の暮らしているワンルームより狭いぐらいではないだろうか。
壁沿いに天井まである本棚が立ち並び、店舗中央には背の高い両面収納の本棚が三つ、ぎっしりと書籍が並べられたそれら本棚だけでもう店内は一杯だ。
客が本棚の間の通路を行き交う事すら不可能なそんな窮屈な店内だが、外からの薄暗い印象とは異なり、置かれている書籍には埃なども無く綺麗に陳列されている様子が窺える。
これだけ窮屈な本棚の配置なら、万が一の地震の際にも本棚が倒れる事はなさそうだなと、そんんな場違いな感想抱きながらも、並べられた書籍の種類に目がいく。
並べられたそれらの書籍の種類などを見て、一言で言えばバラエティーに富んでいると言えるかも知れないが、悪く言えば節操がないように見受けられる。
児童書から小説、漫画なども置かれているが、そのライナップは売れ筋もあれば、いつもは見かけないようなマイナーなタイトルの物まで幅が広い。
その中で自分が受け持つライトノベルが並ぶ一角で、中規模書店ではほとんど見かける事が無い出版社レーベルの作品に思わず目が止まり手に取った。
「うわ、この規模の店で、このレーベル置いてる所、初めて見たな」
僕は思わず小声でそんな感想を漏らして、手に取ったその作品の表紙を見やる。
明るく淡い色調のタッチで描かれたそのイラストは、今ライトノベルで流行の女の子キャラを全面に押し出したような画面構成ではなく、何処かの絵本のような可愛らしい森の景色の中に少年と少女が描かれた懐かしい香りがするファンタジーな作風の表紙だった。
──このレーベルで、この絵柄、売れてないだろうな。
少し懐かしく、だけど何処かすごく寂しい気持ちで中身をパラパラと捲り、その作品を棚へと戻す段になって、全ての本にシュリンクが掛けられていない事に気が付いた。
シュリンクとは、今や何処の書店でもされるようになった本をビニールで密封梱包する事の総称の事で、かつての本屋に多く居た立ち読みの阻止や、それに伴う本の破損、汚れを防止する為の措置でもあるが、この業務は書店側の作業の為、結構な労力が割かれているのが現状だ。
しかし考えてみれば、店主の目が行き届くこの小さな店内で、堂々と立ち読みをしようと考える客は少ないだろうなと、一人納得して改めて店内を見渡すと、店の奥のレジ前に座っていた店員と目が合い、思わず肩が跳ね上がった。
「いらっしゃいませ」
その目が合った人物は小さな声でそう告げると、片手に持っていた本に視線を落として僕から視線を逸らせた。年の頃で言えば随分と若い──二十代前半ぐらいだろうか。
眼鏡を掛けた黒髪の女性で、一つに括った後ろ髪を肩に掛けている。座っているので背格好はよく分からないが、それ程身長は高くなさそうだ。
ラフな部屋着姿に、長めのエプロンを掛けた姿に、何故かドキリとさせられる。
こんな時代に取り残されたような本屋の外観から、僕は店主が年老いた人物だろうと勝手に想像していたので完全なる不意打ちだった。
僕は彼女の視界の端でぎこちなく会釈をしてから、先程不意に口から出た言葉が失礼にあたったのではと考えて一人青くなる。
しかし彼女はそんなこちらの事など構う事無く、手元の本に視線が向けられていた。
僕は正直内心ほっとしながらも彼女のそんな姿から、ここに置かれた本のラインナップが彼女の趣味嗜好を反映しているものなんだなと、漠然と理解した。
そう思うと、この店内にある雑多に並べられた本の種類にも一貫性のあるように思えてくる。
昔の小さな本屋はわりとこういった店主の意向が強く反映された品揃えが多くみられたが、大型店舗化や系列店化進んだ昨今ではそういった傾向はだいぶ薄れてきていた。
もしかすれば彼女はただの店番で、これらの本の種類には何のかかわりもないのかも知れないが、僕はこういったその本屋の独自の品揃えを見るのが好きなのだなと、改めて思わされた。
狭い店内の本棚の上から下までをゆっくりと眺めながら、小さな発見や普段目にしないようなタイトルの作品に手を伸ばすのでして、久しぶりにただのお客としてその時間を満喫する。
せっかくなので、何か気になった一作を購入してみようかと、そんな事を考えていると、店内に一人のお客が姿を現した。
黒のランドセルを背負った小さな男の子で、年齢で言えば小学二、三年生ぐらいだろうか。
先に店内に居たこちらの様子をちらりと視線を向けたその少年は、店舗中央の本棚の一つに隠れるようにして店内に滑り込んで行った。
その少年の不意の視線に何かを感じ取った僕は、ふと店の奥の店主の女性に視線を向けた。
しかし彼女は顔を上げる事なく、本に視線を向けたままで顔を上げる気配はない。
そんな彼女から視線を移し、再び少年が入っていった所に目をやると、先程入って来た少年が再び出て行く所だった。
一瞬、その少年と再び目が合う。
少年の目には何処か怯えのようなものが見え、そのままこちらを振り切るようにして駆けだして行った背中を見送りながら、僕はそんな少年の行動に不信感を覚えた。
僕は素早く少年が店内に入って最初に向かった本棚の影に入り、その場をざっと見回すと、すぐに違和感の正体に気付いた。
僕が最初に店内に入って見かけたあのファンタジー小説──その一巻と二巻が本棚から姿を消していたのだ。少年が店内に入ってから店外へと出るまでに、レジの女性に声を掛けた様子も無く、先程まで本棚に収まっていた本が消えている──その事実を見れば答えは自ずと判明する。
──窃盗だ。
本屋の天敵と言えるその行為は、出版業に携わる端くれとしても、たとえ相手が年端のいかない少年だったからと言って許せる行為ではなかった。
特にここのような小さな本屋など、その損害だけですぐに経営が傾く危険さえあるのだ。
僕はすぐに店の奥で未だに本を読み耽っている女性の店主に向かって声を掛けていた。
「すみません! 先程の男の子、代金を払わずに商品を持って行きましたよ!?」
小さな店内に響いた僕の声に驚いたのか、女性はびっくりした顔でこちらに視線を向けた後、入り口のある扉にその視線を移してからやや肩を落として頷いて見せた。
「あぁ、はい。……その、大丈夫ですよ、いつもの事、なので……」
店主の女性は曖昧な笑みを浮かべてから、少し困ったような笑みを浮かべて僕の顔を見やる。
僕はその彼女の返答と態度に驚き、今出て行った少年の小さくなりつつある背中を振り返った。
「もしかして、お子さんなんですか?」
彼女のあまりにも普通な態度から、店の商品を勝手に持ち出す息子の可能性を考えて問い掛けると、彼女はその問いに首を振って「近くの小学校のお子さんです……」とだけ答えた。
僕は「それなら何故!?」という顔をして彼女を見返すが、店主である筈の彼女は困ったような顔をするだけでそれ以上は口を開こうとしなかった。
そんな彼女に苛立ちを覚えた僕は、居ても立っても居られず小さくなりつつあった少年の背中を追って、その本屋を飛び出していた。
小さな身体で大きなランドセルを揺らしながら走る少年だったが、大人の僕が本気で走る速さにはまだまだ遠く及ばないのか、本屋を出た時に角を曲がった姿を猛然と追い掛け、同じように角を曲がった際にはその距離が随分と縮まっていた。
僕の追い掛ける足音を聞いたのか、少年は後ろを振り返って僕の姿を見て再び怯えた顔を見せる。
走る速度を上げるが、所詮は小学生低学年の歩幅だ。その距離はすぐに詰まる上に、少年が手に持った薄汚れた手提げカバンが大きく左右に揺れて走る邪魔をしていた。
小学校の時に持たされた記憶があるが、恐らくあれは上履き入れなのだろう。
よく週末に自宅に持ち帰って、柄付きのタワシで汚れた上履きを洗った事を思い出す。そんなどうでもいい事を思い出しながらも、前を駆ける少年に僕は声を掛けた。
「君! さっきの本屋で本を二冊盗ったでしょ!? 聞いてる!?」
僕の出した声が意外に大きく、住宅街の中で大きく響き渡る。
少年はこちらを怯えた目で見返して、さらに走る速度を上げた。既に手を伸ばせば少年のランドセルを掴む事は出来る距離まで追いついていた。
しかしそれをするには色々と問題がありそうで、今一歩躊躇われる。そこで僕は、少年の自主性に訴えかけるべく、少年に並走する形で話し掛けた。
「ちょっと、君! 本屋でお金を払わずに本を持って出るのは泥棒だよ!?」
僕の今一度の声掛けに、少年は目尻に涙を溜めて言葉を詰まらせる。しかし、すぐにその涙を袖で拭うと、震えたような声で反論してきた。
「違うもん、借りただけだもん! 今度返すから……」
その少年の言い訳を聞いて、僕は呆れる事しか出来なかった。それと同時に親は子供に対してどういった躾をしているんだと憤りに駆られ、つい語気が強くなってしまう。
「君ねぇ、そんな言い訳が通用する訳ないのは分かるでしょ!? このまま本を返さないっていうなら仕方がないなぁ。警察に連絡して、お父さんやお母さんに事情を話すしかないよ? そうしたら学校の先生にも連絡しないと駄目かも知れないなぁ」
僕はわざと大袈裟な物言いで少年を脅す文句を並べて、本の代金をきっちりと本屋で支払うか、今すぐに回れ右をして本を返却しに戻るか──選択を迫った。
しかし、少年はボロボロと涙を両目から零して、しゃくりを上げ始めると、そのまま嗚咽を漏らしながら古い集合団地の敷地へと真っ直ぐに入って行く。
泣いて誤魔化すつもりなのかと、そんな少年を見やりながらその後を追い、心中で「泣きたいのはこっちだ」とばかりに溜め息を吐いて、自分が何故こんな事をしているのかと頭を抱える。
やがて少年は一階の部屋の扉の前に立ち止まると、俯いた姿でぼそりぼそりと話し始めた。
「ボクの家貧乏だから、本とか買うお金もないし……、家に本をしまう場所もないし……」
そんな少年の子供じみた──いや、実際子供なのだが──その言い訳に大きな溜め息を吐いて見せると、少年は肩をびくつかせて肩越しにこちらを見上げた。
「あのねぇ、本を買うお金がないなら図書館とか利用すればいいでしょ?」
自分も子供の頃はお小遣いが少なく、読みたい本はもっぱら図書館で探してあれこれと読み耽っていたものだ。それこそ市立図書館などに足を運ばなくとも、学校にも図書室はある筈だ。
そう少年に言うと、彼は俯いたままの姿で小さく「……でも、図書室利用してる所を見つかったらまたイジメられるし……」とまた涙を零し始めた。
少年の背負うランドセルはまだ低学年にも拘わらず、すでに年月が随分と経っており、誰かのお下がりだというのはすぐに察しがつく。よく見れば、着ている服も袖や首回りが擦り切れていて、確かに贔屓目に見てもあまり裕福な印象には見えない。
小学生というのは、そういった些細な所からイジメに発展する事など、かつて小学生であった事のある僕にも容易に想像がついた。
少年の常におどおどした態度に加えて、この身形では格好の餌食なのだろう。
どうしたものかと、小さく溜め息を吐くと、少年が再び肩を震わせた。
「あ、あのいつもちゃんとあの本屋さんには本を返してて……でも、その今日はちゃんとお金を払うので、少しだけ待っていて貰えますか?」
その少年の言に、僕は同じ事を繰り返していた常習犯である事を知って、再び大きな溜め息が出そうになってぐっとそれを我慢する。
そして子供の手に一度渡った本が本屋に戻された後、それが汚れなどで出版社に返本されたりなどしていたら、出版社もいい迷惑だなと考えるも、そんな事を今目の前の半べそ気味の少年に言っても仕方がないと頭を振った。
自分のその態度が、許さないと取られたのかこちらを上目遣いで見上げる少年の目尻にまた涙が溢れ出しそうになり、僕は慌てて言葉を発した。
「わかった、わかったよ。ただし、もうこんな事を二度とするじゃないぞ?」
若干疲れたような僕の声にも、少年は何度も壊れたおもちゃのように頭を上下に振って頷いた。
そして「ちょっとお金を探して来ます……」と言って、ポケットから鍵を取り出して部屋の扉を開けて中へと入ろうとする。
僕はここで扉を閉められて居留守を使われてはたまったものじゃないと、その扉が開いたところを押さえて少年に急ぐように言おうとして固まった。
扉を開いた先の狭い団地の玄関、それ程広くないそこには所狭しと物が積み上げられ、さらに奥に見える部屋も同様の有様だった。
いや、物と言ってしまえば聞こえがよすぎるだろう。扉から先、目の前を埋め尽くすのはどうみてもゴミの山だった。奥から独特の酸えた臭いに、思わず顔を顰めて鼻を押さえる。
潔癖症ではないが、それなりに綺麗好きな身としては、こんな環境で暮らすなど、考えただけでも寒気がしてくる思いだ。
僕は思わずこんな部屋に住んでいるのかと、傍らの少年の方をを見やると、彼はそんな僕の態度に少し寂しそうな顔を向けて慣れた様子で黙って玄関の中へと入っていく。
まだ昼間だというのに、玄関から奥に見える室内は薄暗く、積まれたゴミの山で何処に何があるのかさえ判然としない。
そんな中を少年がゴミを掛け分けて入って行くと、奥からゆらりと大人の人影が姿を現した。
ぼさぼさの髪に少年と同じく擦り切れたTシャツ、そして男物トランクスを穿いただけの女性。少年の姿を見つけるなり「帰ってきてたの?」という言葉に、恐らく少年の母親なのだろう。
だらしがない身体つきに、だらしがない恰好。女性の半裸姿であるにも関わらず、そこには何の色気もな無く、ただ小汚い中年の女性という以上の感想しか出てこない。
僕は思わずその女性の姿と、少年を育てるにはあまりにも酷い惨状の室内に我慢がならず、まるで何処かのネジが緩んだかのように怒鳴り込んでいた。
──僕は今、何故見ず知らずの他人の家を掃除しているのだろうか?
僕は何度目かになる自問自答を内心でしながら、少し前の自分に文句をつける。
あの後、少年が行った行為を彼の母親に話して聞かせ、今暮らす環境の劣悪さを滔々と語り、本屋の経営が如何に大変かという話を経て、母親に事態の改善を求めたのだ。
そして出た結論は単純明快。少年の住環境を改善し、少しでも彼が理性的に暮らせる場所を作るという事で事態の決着を見た。が、少年の母親は現状をどうやって回復すればいいのか見当が付かないと言う事から、乗りかかった船とばかりに僕が指導する事になった。
要らない物を大ナタを振るうが如く決断し、果敢に外へと放りだしていく。
うず高く積まれたゴミの山を、部屋の中から引っ張り出して外へと運び出していると、近所の人達が何事かと野次馬にやって来るので、そんな彼らを言葉巧みに操って近隣住民の問題改善として色々と手伝いをして貰ってからは、随分と作業が捗った。
そして開け放たれた窓から傾き始めた日の光が入って来る頃になってようやく、室内の清掃に一通りの目途が付いていた。
何かと優柔不断な少年の母親から「いらない物」の言質をとって排除した結果、あれ程埋め尽くされていた室内はむしろ物がほとんどない殺風景な姿を晒していた。
書店営業の際に書架の整理や、バックヤードの清掃の手伝いなどで掃除関連にはわりと手習いがあった部分も今回は大いに役立ったとは思う。
近隣住民らの協力にも一人一人、営業仕込みのお礼と笑顔で対応して額の汗を拭う。
傍らにいる少年は、自身の家でもある室内の変わりように目を見張って喜色を浮かべている。
そんな少年に僕は、手提げカバンに上履きと一緒に放り込まれていた二冊の小説を取り出して見せ、それを少年の手に渡した。
そんな僕の行為に、少年は驚きの目を向けてこちらの顔を見上げた。
「この部屋なら自分の好きな本数冊ぐらい置けるでしょ? 今回は僕が本屋さんに代金を払っておきますよ。いいですか、今後本屋であのような行為は一切しないように。いいですね?」
僕は謎の充実感から気が大きくなっていたのか、その場であの小説の代金を肩代わりする事を約束し、少年にも今後泥棒をする事のないように注意を促した。
少年はまた何度も壊れたおもちゃのように顔を上下に振って頷き、手に持った小説を大事そうに眺めて、広くなった部屋で早速とばかりにページを開き始める。
僕はそんな少年の姿に安堵の溜め息を漏らして、同じくその様子を眺めていた母親に対して、今後はきちんとした生活を送るようにキツく言ってから、その団地を後にした。
帰る際には、団地の近隣住民から「お疲れ様でした」の労いの言葉を受け取り、すっかり予定が狂った今回の出先での件を、どうやって会社に弁明するかを考え始めていた。
とりあえず未来の本の顧客が増えた事にはなるだろうから、全く営業をしてなかった訳ではないよなと、自分自身への言い訳をして、憂鬱な社への帰路に着くのだった。
このお話は、ある日ふと見た夢をそのまま文字に書き起こしたものです。
時々あるこうしたわりとしっかりとした物語のある夢を、何故突然脈絡も無く見るのかは分かりませんが、文字に書き起こしてみるのは面白いかもと思い、書いてみました。
もちろん原作が夢なので、細かい状況描写や整合性などには目を瞑って頂けると幸いです^^