004「夢の虜囚」
クリスマスイブのオフィスには、20時を過ぎたばかりだと言うのにもう誰も残っていなかった。 私は一人きりで残業雑務を終わらせて、帰り支度をしながら届いたばかりの健康診断レポートを机の引き出しの奥にしまい込む。
私は子供の頃から病弱でこの手の検査では必ずと言って良い程何かしらの要再検査の診断結果を受けていた。 医師によれば代謝機能が弱いのだそうだ、アレルギーにも弱くて小学校の頃は喘息持ちだった。 身体が病弱な事を言い訳にして、運動が出来ないのも、勉強が出来ないのも、友達が出来ないのも仕方の無い事なのだとずっと諦めてきた。
それからオフィスの戸締りをして、ビルの守衛さんに部屋の鍵を返して、帳簿にサインする。
宏治:「お先に失礼します、」
守衛:「よいクリスマスを、」
今年は良い感じに雪も降っていて、イルミネーションが溢れる街角には沢山のカップル達が繰り出している。 皆楽しそうで、皆幸せそうで、概ね世界は平和らしい。 それで私はと言うと何時もと何も変わりなくコンビニで弁当とお茶を買って、一人きりの暗い部屋の鍵を開けて、昭和な蛍光灯の電気を点けて、着た切りのジャージに着替えて、卓袱台の傍の煎餅布団の上に腰を下ろす。
明晰に覚醒する程に思う、どうして私はこんな処に一人きりで居るのだろう?
そんなのは疾っくに分かり切っていて、受動的に積み重ねてきた必然の連鎖を言い訳にして能動的には何もしないで来たからだ。 現実の世界には私を承認する者など居ないとさっさと諦めてしまったからだ。
それならばどうして私は一日に24時間ずつ寿命を使い果たしながらこんな風に何時までも一人きりで何にしがみついていると言うのだろう?
私は面倒臭い現実から目を背けるみたいにして再び「明晰夢」の世界へと潜り込む。 最近では自転車に乗るのと同じ位当たり前の様に「明晰夢」を見られる様になっていた。
其処で目に映る風景は不思議と懐かしく、肌に触れる大気は相変わらず穏やかでほんの少し涼しげだ。 どうやら私が立っているのは東の端の城壁の傍にある今では誰も住まない屋敷の中の猫達が集まる小さなパティオの様だった。
其処には、あの赤銅色の髪の少女が居て子猫たちと戯れていた。
宏治:「もしかして此処に住んでるとか言わないよね、」……僕は彼女を驚かさない様に少し離れた所から声を掛ける、
みほの:「やあ、君か、」……彼女は地べたに寝っころがってお腹を晒す子猫の首の横をコチョコチョと人差し指で撫ぜてやりながら、僕の事を振り返る、
みほの:「どうして君は何時も僕の事を気にかけてくれるの?」……どうして?
宏治:「だって、君、授業にも出ていないだろう、」……そう言えば彼女は僕と同じ学校に通うクラスメイトの筈なのだけど、一度も学校で彼女の姿を見掛けた事が無い、
みほの:「それじゃあ答になってない、」……彼女はすっと立ち上がって、問い詰める様に僕の方に一歩近づく、
宏治:「何だか落ち込んでるみたいだったから、少し心配してる、」……でもこれもきっと本当じゃない、
何故僕がこの子を気にかけるのか? それは僕が彼女に恋をしているからだろう。 でも、どうして僕がこの子の事を好きになったのかは僕にも分らない。 何故だ?
みほの:「ふーん、それはありがとう。」
人はどうして誰かを好きになるのだろう? 可愛いから?綺麗だから?傍に置いて身に着けて羨望の眼差しを得たいから?きっとそんなのは「恋」とは違う。 じゃあ優しいから?慰めてくれるから?世話を焼いてくれるから? そうかも知れない。 どんな時でも一緒に居てくれるから?こんなだらしなくて救い様の無い僕の事を赦してくれるから?受け容れてくれるから? でもそんなのは出会ったばかりの今の僕達には当て嵌まらないだろう。
多分余り深い意味なんか無くて、この夢の中では彼女は僕にとって特別な存在と言う設定なんじゃ無かろうか、
宏治:「何をしてるの?」……だからこんな風に彼女の事が気になって仕方が無いのはきっと当たり前の事なのだ、
みほの:「秘密を打ち明けるに程には、僕達はまだお互いの事をよく知り合っていないと思わない?」……それなのに彼女は悪戯な眼差しでニヤリと笑いながら僕の瞳の奥を覗き込む、
宏治:「そうだね、」……何か間違えたのだろうか? まるでパズルみたいだ。 何と答えれば良いのだろう? 何しろ僕は現実世界では30年間一度も女の子と付き合った事なんて無いのだから、こんな時に何を話せば良いのかなんて分かる訳が無い、
彼女は一寸困り顔でたじろぐ僕の事を見て、ヤレヤレと苦笑いする。
みほの:「それじゃあ、先ずは君の好きな食べ物を教えてくれるかい?」……彼女はそう言って僕の方へともう一歩近づく、
宏治:「食べ物?なんだろう、ヨーグルトかな、」
みほの:「じゃあ、暇な時は何時も何してるの?」……もう直ぐ其処に、手を伸ばせば届く所に赤銅色の長い髪が有って、
宏治:「寝てる、かな、」……僕は胸の鼓動を聞かれてしまうのが怖くて、思わず一歩後退る、
みほの:「ふーん、意外に消極的なんだ、」……だからこうして、見てる事しか出来ないのだ、
宏治:「そういう君は?」……僕は自分の心の内を見透かされるのが怖くて、質問を返し、
みほの:「これまで誰にも話した事は無かったけど僕はピスタチオが好き、それから謎解きが好き、」……それなのに彼女はその瑠璃色の瞳で真っ直ぐに僕を見透かす、
宏治:「謎解きって?」
みほの:「だから僕が今してる事だよ、真実の探求、」……それから得意げに人差し指を立てる、
みほの:「君は、この壁の向こう側に何があるのか知っているかい?」
宏治:「壁の向こう?」……この街は全体をぐるっと高い城壁に囲まれていて、城壁には北と南に一箇所ずつ外へ続く大きな門があるのだけれど、僕はこれ迄に一度だって門が開いている処を見た事がない。 僕はこの街の外にある遠い別の街から此処へ来た事になっているのだけれど、以前住んでいた街の事は良く思い出せない。 そもそも何時も気が付くとこの街の中にいるから今まで気にした事も無かったのだけど、確かに言われてみれば城壁の向こう側は一体どうなっているのだろう? 城壁の四隅には見晴らし台の付いた高い塔が立っていて、城壁自体構造的には上に登る事も出来そうなのだけれど、誰かが上に居る処を見た事もないし上へ登る階段を見かけた事も無い。 全く外との交流を無しにしてどうやって沢山の人達の生活が成り立っているのかも不明だけれど、いや、そんな難しい事を考える必要なんか無くて、これはただの夢なのだ。
宏治:「君は面白いことを考えるね、」
みほの:「そうかな? 君は気にならない?」
宏治:「確かに気になるけど、君は見た事があるの?」
みほの:「未だ無いわ、でも未だ諦めてもいない、」
みほの:「僕の名前は「海老名みほの」、君は?」……彼女はしなやかに僕を迎え入れる様に手を差し伸ばし、
宏治:「町田宏治、」……僕はその細くて柔らかな彼女の指先に、まるで壊れ物に触れる様にして握手した。
宏治:「丘の上の教会の塔に登れば、壁の外が見えるかな?」
みほの:「かも知れないね、でもこれ迄に調べた街の塔は全部階段が封鎖されていて登れなかったんだ、」
宏治:「何か、手伝おうか?」
みほの:「ありがとう、でもその前にもう一つ教えてくれるかな?」
宏治:「なに?」
みほの:「君はこんな風に感じた事は無い?「この世界は現実とは全然違っているのに何だかとても懐かしい気がする」って、」……彼女はまるでこの世界の秘密を知っているかの様に、得意げな顔で僕を見つめる、
宏治:「うん、この「夢」を見るたびに何時もそう思うよ、」
みほの:「へぇ、君は「夢の中」でこの世界を見ているの?」……まさか「夢」の登場人物からそんな風に聞かれるなんて思わなかった、
宏治:「そうだね、これは僕の見ている「夢」じゃないのか?」……なんだか不思議な禅問答みたいだ、
みほの:「それなら君は未だ大丈夫、」……それから彼女は目蓋を閉じて、ほっと一つ溜息を吐く、
みほの:「やっぱり君とは一緒には行けない、だって君は、」……彼女はそこで一旦言葉を詰まらせた、
みほの:「君は直ぐに元の世界に帰らなきゃならない、そして二度と此処に来ては駄目だ、」……それから又、僕の瞳の奥をじっと見透かすようにして、
宏治:「それって、どういう事?」
みほの:「だって此処は、死に行く魂が審判を受ける場所なんだから、」