001「魔法使いの夢」
ある所に一人の冴えないおじさんが暮らして居た。 幼少の頃からどちらかと言えば病弱で、頭の回転も悪く運動も苦手、中肉中背のしょぼくれた風貌にモブ感溢れる目立たない顔立ち、小学校では友達も少なくクラスでも目立たない存在で、中学生の時に勉強で落ち零れ、高校ではまるで透明人間の様に誰からも気にされなくなって、やっとこさっとこ神奈川県にある小さな会社に就職して、これと言った成功体験の一つも無い侭今に至る。 おじさんの名前は「町田宏治」、何を隠そうこの私の事である。
会社での私の仕事は総務課の平社員、社内メールの集配や、施設の保全、消耗品の補充、居室やトイレの清掃、会社行事の司会進行、大体そんな感じの仕事を熟して毎日を過ごしている。 当然私は会社でも目立たない存在で、同じ課で一緒に仕事をしている女子社員からは一度も声を掛けられた事が無く、年下の上司からも煙たがられて仕事の指示は何時も一方通行の電子メール、出勤と退勤の挨拶以外一言も喋らないで一日過ごした事もある。
家は会社からそう遠くない住宅街にある小さなアパートに一人暮らし、両親は同じ県内に暮らしているがここ数年は盆暮れにすら実家に帰った事が無く丸っきりの音沙汰なし、今日もコンビニの弁当とお茶を買って帰って、暗い四畳半の卓袱台でテレビを見ながら一人きりの夕食を摂る。 私は酒も飲まないしタバコもやらないし、これと言って趣味も無いので部屋の中はがらんどうとしていて、時折申し訳なさそうに顔を見せる"G"だけが数少ない私の話し相手と言えなくもない。
私は敷きっぱなしの煎餅布団にごろんと横になってぼんやりとTVのバラエティ番組を眺めながら「そう言えば今日は誕生日だった」と思い出す。 丁度30歳になった筈だ。 勿論此れまでに彼女が居た事なんてないし臆病で風俗に通うなんて絶対に無理だから、巷の通説に拠れば私は明日の朝には魔法使いになっているのかも知れない。 スクリーンの中で可愛らしくはにかむ女子大生アイドル「秦野萌」のノースリーブの肩を見ながら「もしも本当に魔法使いになれるのだとしたらこんな可愛い女子を自分の言いなりにしてみたいな、」等と不埒な妄想に耽りつつ、何時しか私は浅い眠りに堕ちて行った。
そうして私は奇妙な夢を見た。
「私は今夢を見ている」と自覚している、そんな夢だ。 所謂「明晰夢」と言われるモノだろうか、やけに視界がはっきりとしていて辺りの音や匂いにまで臨場感がある。 「実はこれ迄見ていたのが夢で今この瞬間が現実なのだ」と言われてもうっかり信じてしまいそうになるそんなリアルな夢だ。 それでも明らかに此れが夢だと納得出来る幾つかの証拠が其処にはあった、……第一に私が目を覚ましたのはふかふかのダブルベッドの上で、剥き出しの梁がまるで魚の骨の様に覆う高い天井からはとても高価そうなシャンデリアがぶら下がっている。 部屋の中を見渡すと壁に掛かった分厚いカーテンは濃碧のベルベットで、その隙間から光の差し込んで来るのは少し歪んだ硝子が嵌まった木製の大きな窓、窓を開けると直ぐ下には石畳の敷かれた広場が見える筈だ。 窓から見える街並みは中世ヨーロッパの佇まいで、今正に家から程近い教会の塔が朝の鐘を鳴らして、遠くに目を凝らせば街全体を取り囲む城壁が見えるだろう。 何故だろうか、私にとってこの風景は現実とは凡そ掛け離れて異質である筈なのに、何故かしらとても懐かしいもの、当たり前のものの様に思われてしまう。 恐らく此れが私の夢だからに違いないのだが。
女の子:「おはよう、宏治君!」……見ると窓の下から可愛らしい女の子達が私に向かって手を振っていた、皆学校の制服を着て、恐らく高校生くらいだろうか、私は咄嗟にカーテンの奥に身を隠すのだが、
女の子:「お寝坊したの? 早くしないと授業に遅れちゃうよぉ!」……キャラキャラと楽しそうな女の子達の笑い声を聞きながら私はゆっくりと頭を整理する、そうだ、彼女達は同じクラスの友達、……友達? クラス?
私は改めて部屋の中を見渡してそれから部屋の隅に置かれた姿見に映る自分の姿を確かめる。 ところが何処を探しても私の姿は見当たらない。 代わりに其処に映し出されていたのは見知らぬ若者の姿だった。 逞しく鍛えられた若くて美しい少年の裸体、……私は一瞬驚いて、混乱して、やがてゆっくりと思い出す。 そうだ、私はこの夢の中では見目美しい男子高校生で、名の知れた裕福な良家の出自で、運動神経は抜群、成績も優秀、覇気に溢れていてクラスの皆からの人望も厚く、まるで現実とは掛け離れた姿、境遇、幾ら夢だったとしても少々嫌味が過ぎる様な気がするが、
ドアの開く音:「カチャリ、」……突然部屋のドアが開いて厳しそうな壮年の女性が入ってきた、
鶴巻(女性):「町田様、昨晩は遅くまで研究に勤しんでおられたみたいですけれど、学校に遅刻しそうだからと言って朝食を抜かす事は赦しませんよ、」……女性はそう言うとベッドの脇のテーブルの上に朝食を並べ始める。 香ばしいパンのバスケットに、ソーセージとスクランブルエッグが載せられた大きな白い皿、フルーツの盛り合わせのボールに、たっぷりヨーグルトが注がれたスープ皿、そして今、紅茶のポットにお湯が注がれる。
宏治:「ありがとう、鶴巻さん、」……そうだ、私はこの女性の事を知っている、これは私の夢なのだから当然なのだけれど、彼女はこのホテルのメイド長を務める「鶴巻さん」、此処は街の中心にある由緒あるホテルの一室で、ホテルのメイド達が私の身の回りの世話をしてくれているのだ。 そう、私は此処に一人暮らししているのだった。 私の実家は此処からは遠い町にあるのだが、私が此処の学校に通う事になって、両親が私の為にこのホテルの部屋を用意してくれたのだ、……確かそういう設定だった筈だ、
私はまるで王宮のそれを思わせる大理石張りの豪華なバスルームで顔を洗い、寝癖を整え、新しく洗濯の済んだシャツに着替えてネクタイを締める。 それから焼き立てのクロワッサンを一口で頬張って、香り立つ紅茶で流し込み、葡萄を二三個口に放り込んでから、……
宏治:「ごめんなさい、もう遅刻しちゃうから、僕、行きますね、」
鶴巻:「明日はきちんとレストランに降りて来て朝食を摂る様にして下さい、」
宏治:「気をつけます、」……何だか高校生に戻った自分には違和感しかなくて、自分の口をついて出る言葉でさえ擽ったい、
僕はホテルのフロントクラークに元気よく挨拶すると、すっかり生まれ変わった気分で旧市街の路地に飛び出した。 ホテルの直ぐ隣にある露店市場は朝から沢山の買い物客で賑わっていて、僕は人波を擦り抜ける様にして学校へ向う長い石段を駆け上がる。 信じられない位身体が軽い、幾らでも元気が湧いて来るみたいだ。
女の子:「お早う、宏治クン!」……すれ違う可愛らしい女の子達が僕に声を掛ける、
宏治:「やあ、お早う、…今日もいい天気だね、」……僕は笑いながら陽気に挨拶を返す、
女の子:「嫌だ、宏治クンたら、変なの、」
本当に不思議な夢だ、本当に現実離れしているのに、本当に臨場感に溢れている。 「実はこれ迄見ていたのが夢で今この瞬間が現実なのだ」と言われてもうっかり信じてしまいそうになる位にリアルな夢だ。 それでも明らかに此れが夢だと納得出来る幾つかの証拠が其処にはあった、……第一に私が目を覚ましたのはふかふかのダブルベッドの上で、石畳の敷かれた街並みは中世ヨーロッパの佇まいだし、遠くに目を凝らせば街全体を取り囲む城壁が見えて、それから雲一つない空には、……始まりかけた黄昏の様な淡いクリーム色の天蓋がすっぽりと覆い被さっている。