第四話
怒りがあり、憎しみがあった。
あの人の言葉を、優希が言って、そのことに怒りが起こった。
あの日のことを思い出して、憎しみが沸いてきた。
けれど、何より恐ろしかった。
その言葉を、あの人の言葉ではなく、優希の言葉として受け入れてしまいそうなことが。
そして、そう思ってしまった自分が。
何より恐ろしかった。
しばらく走って、流石にもう走れなかった。長距離を全力疾走したせいで、心臓がバクバクとなる。だが、それが全力疾走のせいだけではないのは、明白だった。
「な、んで」
腕を目を隠すようにしておいて、近くの草むらに仰向けになった。荒い呼吸は、全く収まらない。
「何で、今更……」
本当に、今更だった。
十年前のあの事件から、冬樹は笑えなくなった。そして、優希は泣けなくなった。
お互い、たいていのことはずばずばと言うが、この話題にだけはどちらも触れなかった。良い思い出でも、後に振り返って笑える思い出でもないからだ。
何に、何で今更……。
しばらくすると、呼吸も少しは楽になってきた。眼から腕をどかすと、あたりはもう暗かった。空を見上げるが、月も星もない。雲がかかっているのだろう。
今何時かはわからないが、早く帰らねばならない。たとえ帰りたくなくとも、このままでは院長が心配する。過去に家出経験のある冬樹は、特に心配されていた。
重い腰を上げて、無理やり立ち上がる。街灯がちらほらとあった。ここから孤児院まで、そう遠くは無い。十分ほどで着くだろう。
クリスマスの買い物を持って、ぼんやりと帰路についた。
孤児院につくと、なにやら騒がしかった。何事かといぶかしんでいると、院長が駆けてきた。
「まあ、冬樹君! 無事だったのね」
「ええ」
「あら? 優希ちゃんは」
「え? 帰ってきて……」
「まだ、帰ってきてないの。てっきり冬樹君と一緒だと思ってたのに」
そう言うと、院長はまたあたふたし始めた。しかし、そんなものは眼中には入らない。
優希が帰ってきていない?
優希は孤児院と商店街の行き来はよくしていた。盲目だとは感じさせないほど、しっかりと歩く事ができる。それに、あの辺は人通りも多く、優希が盲目だと知っている人もたくさんいる。帰ってくるのに困る必要はないはずだ。
交通事故という考えもあるが、この時間まで連絡がこないのもおかしい。優希は、もしものときのためによく生徒手帳などの証明書を持ち歩いていた。
他に考える事ができることといったら……。
「あ……」
「どうしたの? 冬樹君」
「優希のこと探してきます。パーティはもう始めてていいです。警察とかにも連絡しないですください」
「でも……」
「優希は、必ず俺が連れてきます」
冬樹はそう言うと、孤児院を飛び出した。優希が何をしているのかが分かったのだ。分かると同時に、怒りが沸いてくる。しかしその怒りは、優希から逃げたときに感じた怒りとは大分違っていた。
「あの馬鹿っ!」
優希は、冬樹を探しているのだ。あの事件以来、冬樹はあの人の言葉を支えに生きてきたが、それでもたまに投げやりになることがあった。自殺を考えた事もある。
それを実行させないために、優希は冬樹を離れる事が無かった。冬樹を一人にさせないように、ずっと傍にいた。
今では、昔のようにはならないが、それでも優希は冬樹の傍にいる。居場所を知らせずに出かけようものなら、場所を知らなくても探しに来る。
(あの時も、そうだった……)
五年前、冬樹は孤児院を家出した。正確には飛び出しただけで、準備すらもしていなかったので家出とは言わないのかもしれないが。
その頃、冬樹は悪夢にうなされていた。あの人に置いていかれて、また一人ぼっちになってしまった夢。あの事件以来見続けている夢だが、最近は酷かった。
夢を見て、眼を覚まして生活を始めれば、優希を見てまたその夢を思い出す。
そのサイクルから抜け出したくて、孤児院を飛び出した。孤児院にいる限り、優希は傍にいる。寝てしまえば、夢を見る。だから、外にいれば抜け出せると思った。
外は、雨が降っていた。
冬でこそなかったが、すでに寒くなり始めていた頃で、雨に当てられ身体はすぐに冷えた。流石に寒さに我慢できなくなって、少しでも雨宿りできる場所に行こうと思った。
誰にも見つからなくて、雨宿りが出来る場所。そんな場所を一つだけ知っていた。
少し離れた町内にある公園の林だった。あそこは、木が生い茂っているお蔭で、ほとんど雨が下に来ない。完全に防ぐ事は不可能だが、少しぐらいなら何とかなるだろうと思った。
茂みの中の大きな木の下で、ただ、うずくまっていた。寒かったお蔭か、眠くはならなかった。
長い時間、何かを考える事も無く、そこにいた。何も考えたくなかった。
ふと、その時茂みの奥から音が聞こえた。思わず、身をすくませる。そして、学校で聞いた噂を思い出した。
そういえば、この林はクマがいるとか誰かが言ってたような。それ以外にも、幽霊とか妖怪とか、幽霊屋敷がどこかにあるとか、噂の耐えない場所だったっけ……。
幽霊はあまり信じていないし、こんなしょぼい林にクマなんていないだろうとも思う。しかし、この暗い中雨が降っている聖で視界が悪いと、どうしても思考は悪い方向へ向かってしまう。
音が大きくなってくるにつれて、冬樹の緊張も高まった。雨はうるさいほど音を立てて振っているはずなのに、草を掻き分ける音は全く消されない。
そして、音は直ぐ傍までせまって来て……
「きゃあ!」
「うわああ!」
何か白い物とその叫び声に、思わず叫び声をあげた。
「っ! 冬樹?」
「って、優希?」
白い物体は優希だった。少し前に買ったばかりの白いジャンパーを着ているらしい。
「冬樹! 無事ですか!」
「え、俺は無事だけど……」
「良かった、良かった――!」
優希は本当に安心したように、冬樹の手を強く握り締めた。冬樹は、優希の行動の意味が分からず、呆然とする。
「何してたんだ?」
「冬樹を探してたに決まっているでしょう!」
「俺を、探してた?」
この雨の中、お前が? その問いは声として発する事ができなかった。見れば、買ったばかりの白いジャンパーはドロだらけな上、所々切れている。腕や足も、汚れや切り傷が目立った。
この雨の中、何処にいるか分からない冬樹を探すのはかなり至難なはずだ。ましてや優希は盲目。行ったことのない場所は、一人ではまともに歩けないのだ。林の中でだって、眼が見えなければどれほど進むのが難しいか……。
「……お前、馬鹿か?」
「折角迎えに来たのに、馬鹿とはあんまりでは……」
「迎え?」
呆然とした冬樹の問いに、優希は「はい」と安心したように笑って答え、そして手を差し出してきた。その手を、静かに握る。
ああ、そうだ。
あの日から、俺はあの夢をみなくなった。
あの日から、本当の意味で、俺達は一緒に生きてきたんだ――。