彼女は向日葵のように微笑む。
僕は風呂に入った後、春日野先輩の言われた通りに復習をこなしている。新吾さんは酔っぱらってリビングで寝ているので、さっちゃんの部屋で勉強を行う。
さっちゃんもやる気になったようで僕とともに勉強をしていたが、数時間経つと寝息を立て始めてしまった。
僕はそっと毛布をさっちゃんの肩にかけてあげてから復習が終わるまで勉強を続けた。
そこから暫く時間が経った頃、恵子さんは夜食を持ってきてくれて、自分の娘がバタンキューしていることに気づき呆れる。
「ごめんなさいね。敏久君。折角、勉強しているのにウチの沙鳥がこんなので」
恵子さんは自分の娘を見つめる。さっちゃんは嬉しそうに微笑みながら口元から涎を流している。その様子を見ながら恵子さんは落胆し、申し訳なさそうに言う。
「いや、それは別に良いんですが」
さっちゃんが寝ている点に関しては全く気にしていなかった。新吾さんがリビングで大きないびきをまき散らしている状況より断然マシである。
僕はちょうど良い機会であったので、少し恵子さんに聞いてみた。
「恵子さん、聞きたいことがあるんですが」
「何? 私のスリーサイズが知りたい? しょうがないわね~。特別に敏久君にだけ教えてあげても構わないわ」
「いや、それは良いです」
僕はきっぱりと断ると恵子さんが「もう、冗談よ」と舌を出してへぺろのポーズをする。するのは勝手だけど年を考えてよ、年を。
話を戻し、恵子さんに改めて聞いてみる。
「さっちゃんが看護師を目指すって言ってたんですがマジですか?」
「マジよ」
そんなあっさりと。
でも確かさっちゃんって私立志望のはずだったけど。
「ついさっきの話なんだけどあの子ってばどうしたら敏君の力になれるー? なんて聞いてきたから看護師でもなれば良いじゃないと言ったら沙鳥ってばすっかりその気になってね」
結果はこれだけどねと今だ安眠を続けているさっちゃんを指さし、
「だけどこれで良かったような気がするわ。この子、将来何になるかなんて決まっていなかったから」
「でも私立なんですよね。それだったらお金はどうするんですか」
いきなりお金の話で失礼だと思ったが、率直の疑問を恵子さんに投げかける。私立大学の医療系大学はお金がかかる。だからこそ、僕は国立の大学を志望しているし、私立の医学部だったら大体最低三千万という多大な学費がかかることも知っていた。
普通の家庭では到底払うことはできない。
さっちゃんの家庭では新吾さんしか働き手はいないのだ。それを知っていたからこそ僕は心配していたが、恵子さんは首を横に振る。
「お金のことなら心配いらないわ。今は奨学金とかでなんとかなるもんよ。それにね」
恵子さんは一間隔区切ってから口を開いた。
「……やっぱり私は親だから娘の進路を応援してあげたい。お金云々とかじゃなくて、沙鳥が信じた道を私も信じてあげたいの」
恵子さんは優しく笑ってさっちゃんの髪をゆっくりと撫でた。さっちゃんは気持ちよさそうにむにゃむにゃと言いながら寝ている。肩から毛布が落ちそうになるが、恵子さんは上手く支えて再び毛布をさっちゃんに被せる。
僕はこの光景と言動が実に母親らしいと感じさせる。
やはり家族は良い。そう感じさせざる得ない。正直、さっちゃんが羨ましいと思ってしまった。
「やっぱり恵子さんは凄いです」
「ありがとう。ホントに? いっそ惚れる? 惚れちゃう?」
「惚れません」
僕ははっきりと言い切る。恵子さんは一瞬落ち込む表情を見せるなりすぐにけろりと笑顔に戻る。
「まー、そういう訳であんまり笹村家は心配しないで。敏久君は自分の事だけ考えて。何なら援助とかしちゃうから。というか、娘を嫁に貰ってよ。それなら何でもしてあげちゃう!」
「あ、あはは。ご厚意は嬉しいですが、気持ちだけ受け取っておきます」
いつものふざけた感じに戻る恵子さんに僕は引き気味に笑って返す。
これ以上甘えるわけにいかない。僕の中にその気持ちが確かにあった。
「じゃあ、勉強の邪魔をしては悪いから私はそろそろ行くわね」
「いえ、さっちゃんも寝ちゃいましたし僕は帰ります」
さっちゃんの部屋なのにさっちゃんが寝ていて僕が起きているというのは気が引ける。なら、さっちゃんは寝かせたままで僕は自分の家で勉強するというのが妥当だ。
「泊まっていかないの?」
「はい。今日は帰らせてもらいます」
「そう」
てっきり必死に止めに入るものかと思っていたが、その様子もなく恵子さんは残念そうに呟く。
「つまり恋は引き際も肝心ということね」
「何の話!?」
ということで僕は自分の家に帰った。
さっちゃんの家の隣だったが、恵子さんは僕の家の玄関まで見送ってくれた。最後に「沙鳥の事、よろしくね」と僕に言って別れる。
そこから僕は自分の部屋に戻り、勉強を再開する。
「よし」
僕は一人気合を入れ、二週間後に迫るテストに向けて問題集を取り出した。
日差しが僕を照らしている。僕の窓にかかっているカーテンの隙間から僕の目をピンポイントに照らしてきたので、僕は目を覚ます。
窓の外を見ると小鳥がチュンチュンとさえずり、飛び回っている。
僕は眠たい欲求と気怠い身体を正す為、洗面台に向かう。洗面台で蛇口を捻り水を出し、手で水を溜める。
マジで冷たい。
僕は我慢して溜めた水で顔を洗う。洗面台の鏡に映っていたのは目の下にクマが刻まれた僕の姿。自分で言うのもなんだがひどい顔をしている。
ちょっと気合入れて勉強しすぎたか。
という考えが脳裏に浮かんだが、すぐさまその疑問に首を振る。
いや、これぐらいしないと勉強が追いつかない。
僕は二、三回自分で頬にビンタして喝を入れる。
ようやく、目を覚ました僕は学校に行く準備を始める。朝食は抜きでもいいかと考えていたが。
その直後、タイミング良く家のインターホンが鳴る。僕は玄関に向かい、さっちゃんかなと予想しながらドアを開けると予想通りさっちゃんがいた。さっちゃんは既に私服へ着替えており、向日葵のヘアピンを光らせながら僕の目の前に現れる。
「敏君。おはよう」
「さっちゃん、おはよう」
「昨日はその寝ちゃってごめん」
大して気にしてはいなかったが、さっちゃんは僕にそう告げながら謝ってくる。
「別に気にしてはいないけど。さっちゃん、その調子だとまた受験失敗するよ」
かなり痛いところを突かれたのか、うっ! と呻き声を上げる。
「反省しています。以後気をつけます」
心底、さっちゃんは反省しているようで肩をガックリと落とす。そこまで落ち込むなら起こせば良かったかなと自分でも申し訳なくなってきた。
それはそうと、とさっちゃんは話を変えて、
「敏君、朝食まだでしょ? ウチで食べていかない?」
願ってもない話だ。でも、恵子さんと新吾さんそしてさっちゃんに迷惑をかけてしまうことになる。
その事をさっちゃんに伝えるとあははと軽く笑った。
「大丈夫だよ~。そもそも私と敏君の仲なんだからそんなに気を遣わなくて良いよ。さ、行こ?」
さっちゃんは僕の手を掴んで自分の家へと連れ出す。急かすものだから僕の足同士が絡んで転びそうになる。
「分かったからちょっと待ってよ。自分で歩けるから」
その言葉にさっちゃんは手を離し、なんとか僕は転ばずに済んだ。僕が転びそうになっていた姿が笑えたのかニッコリと笑顔だった。
いや、僕が転びそうだったから笑ったのではなく、元々さっちゃんは笑顔だったことに気づく。僕は直感的に分かったのだ。
伊達に十年以上幼馴染をやっていない。
「敏君」
「ん?」
「まだ寂しい?」
この場面で寂しいとはどういう事なのか? と聞く程、僕は鈍感ではない。
僕が言えることはただ一言。
「いいや、寂しくないよ」
僕は分かったのだ。
一人で勉強している訳ではない。
さっちゃん達のお蔭で僕は勉強が出来ているということに。
一人は寂しい。それは両親が亡くなって気づいたことだ。その当時の僕は勉強どころではなくて心が病んでいた。しかし、笹村家はたださっちゃんと幼馴染だった僕を他人同然だった自分を救ってくれた。
食事でもどう? お風呂でもどう? お泊りでもどう?
そんな言葉で僕を誘ってくれてとても嬉しかった。
今の僕は何もしてあげられないけど。
僕からは何もあげられるものはないけれど。
いつかきっと恩返しはする。僕は心にそう決めていた。
「そっか。それなら良かった」
さっちゃんは嬉しそうに微笑む。向日葵みたいな笑顔で僕を照らしてくれる。
僕はこの笑顔は守り続けようと改めて誓った。