彼は笑顔で頷いた。
さっちゃんは暫く泣いていたが、僕は黙って抱きしめていた。
泣き止んだ後も僕を離そうとしなかったので手を繋いでいる。僕から手を引いて先頭にさっちゃんは後ろにいた。
これではどっちが年上か分からないな。
「さあ、もうすぐ家だぞ」
「うん」
さっちゃんの家は僕の家の近所であるが、近所というより真隣である。僕の家の隣がさっちゃんの家だ。
だからこそ、僕は迷うことはまずない。
辺りが暗い住宅地の中から僕はさっちゃんの家を引き当てる。毎日見ているものだから慣れたものだ。
「ほら、着いたぞ」
だが、さっちゃんは離れようとしなかったので、仕方がなく玄関まで付き添うことにした。
ついでにさっちゃんの両親に挨拶でもしておこう。
僕は久しぶりに笹村 沙鳥家のインターホンを押す。ピンポーンという昔と変わらない音が響いた。
「はーい」
最初に玄関から迎えてくれたのはさっちゃんのお母さん笹村 恵子さんだった。エプロン姿であった為、まだ家事をこなしているんだろう。
恵子さんの年齢はそれなりのはずだが、美しさに関して言うなら娘と似て健在である。僕の両親が亡くなっても変わらぬ姿がここにあった。
僕がいたことが何より驚いたのか恵子さんは口を大きく開ける。
「あら? 敏久君。お久しぶりー。どうぞ上がっていって?」
嬉しそうに微笑んで僕を迎え入れてくれる恵子さん。
僕はその好意が嬉しかったが、先にさっちゃんを優先する。
「ほら、さっちゃん」
と僕が彼女を急かすように送り出す。
僕の言葉に反応してさっちゃんは頷いて黙ったまま家の中に入っていく。恵子さんはその光景が異様に思えたのか首を傾げた。そして、何か閃いたのかキュピーンと口元を緩ませた。
あっ、この顔。悪いことを考えている顔だ。
「お父さ~~ん。ついに敏久君がウチの娘に手を出したわーーーーーー!」
僕とさっちゃんは盛大に吹いた。
な、な、な、何いい加減な事言ってんだこの人は!?
「なんだとっ!!!!」
恵子さんの声を聞きつけ、急いでさっちゃんのお父さんが現れる。余りにも急ぎすぎたのか息を切らしながら来た。
笹村 新吾さん。娘バカな人が僕の前に立ちはだかる。
「俺はそんなの認めんぞ。結婚なんて断じて認めぬ!!!!」
唾を飛ばすな。お酒臭いと言いたい。
今気が付いたが、圭吾さんと手は一缶のビールが握られていた。この人、間違いなく酔っている。酔っ払い親父である。
「貴様なんぞに沙鳥はやらん! なぜ貴様と沙鳥がピーしてピーしてピーをしなければならない! それなら俺と沙鳥の方がピーピー!」
ピーピーピーピーうるさい。
なお、このピーは自主規制音だというのは言うまでもない。実の娘が目の前にいるというのに恥ずかしくないのだろうか。
恵子さんはうふふと面白そうにこちらを見ている。火に油を注いで放置ですか。どうか父親の怒りを鎮火してください。
「ピーピー! ピーピー!!」
完全に沸騰したやかんになっている新吾さん。
どうしたものかと逃げる方法を模索しているとさっちゃんが援護しにくる。
「お父さん! 落ち着いて」
「許せ沙鳥。お父さんは娘の頼みを初めて……拒否する!!」
「なぜそんなところで!?」
思わず僕はツッコんでしまう。
さっちゃんははあーと深い溜息を吐きながら、
「もうお父さん。酔ってるでしょ。あれほどお酒は駄目っていつも言ってるのに~。お母さん!」
「ごめんなさいねー。ちょっとおふざけがすぎたかしら」
新吾さんはふらふらと倒れそうになるが、恵子さんは微笑みを崩さぬまま肩を貸す。新吾さんは酔っぱらっているため立つのがやっとのようだったが、なんとか体勢を立て直した。さっちゃんも加勢して二人で新吾さんをリビングへと運ぶ。
「まだ話はおわってないぞぉ~!」
最後に新吾さんは僕にそう言い残し玄関から去る。僕は帰ろうかなと悩んでいたが、すぐ恵子さんが戻ってきてくれて、
「今日は泊まっていって?」
と言ってくれた。僕は断ろうとしたが、恵子さんはそっと指を僕の唇に当てた。
「敏久君もウチの家族みたいなもんだからそうツれないこと言わずに。ね?」
その言葉に僕は頷かれてしまった。こういう温かい言葉を言ってくれているのにそれでも断るのは失礼だ。
頃合いを見て御暇させてもらうか。
僕は久しぶりにさっちゃんの家にお邪魔することになった。
「ふぅ」
僕は一息つきながら湯船に浸かる。
恵子さんは食事だけではなく、お風呂まで用意してくれた。
先に食事を済ませた僕はゆっくりとお風呂を満喫する。さっちゃんの家のお風呂に入るなんて小学生の時以来である。
僕の家族とさっちゃんの家族は僕が物心ついたときから仲が良く、その頃には既にさっちゃんとも仲が良かった。僕はさっちゃんの家に泊まることが何度もあったし、さっちゃんも僕の家に泊まることが何度もあった。ここのお風呂場もいつまでたっても変わらない。変わったのは身体の大きさくらいのものだ。
「湯加減はいかが? バスタオルここに置いていくわね。あと着替えはお父さんのものだけど良いかしら?」
恵子さんの声がする。恵子さんは本当に気が利く。有難い。
ちょっぴり暴走気味なところはあるけれど。
「ありがとう。恵子さん」
「いいわよ。で、敏久君に聞きたい事があるんだけど」
付け加えるように恵子さんは浴室のドアをしきり越しに話しかけてくる。
なんだろう。僕に聞きたい事とは?
「沙鳥を泣かせたわよね」
「ブッ!」
この母親鋭すぎ。
お蔭で勢いよく吹いたじゃないか。
「いや、あの、そのえっとですね」
何とか言い訳を考えなければ言い訳を。
僕が言葉探しに時間を費やしていると、恵子さんは悪戯っぽくふふっと笑った。
「冗談よ。怒っているわけじゃないのよ。それに悪い涙じゃないみたいだから特別に許してあげる」
「は、はあ」
「さっきから敏久君いじめがすぎるかしら。ふふっ。じゃあ、ごゆっくり~」
恵子さんは僕にそれだけを言い残し去っていく。僕が思うことは一つ。
女って怖いな。
僕は誰もいないのにもかかわらずはははと乾いた笑いをしてしまう。
「私、敏君に何もしてあげられない。それが堪らなく悔しいの」
僕に泣きながらそう言ったさっちゃんの姿がフラッシュバックのように記憶から蘇る。
その記憶が頭から離れなくてブクブクと湯船のお湯に泡を立ててしまう。
僕の方がさっちゃんに何もしてあげられていない。さっちゃんが浪人が決まった時だって何も言葉をかけていない。せめて、この一年頑張ればどこにだって受かるよなんてお世辞の一つだって言っていない。
さっちゃんが目指す進路だって分からないままだ。
僕はさっちゃんの為に何ができるだろうか。
首を捻りながら一人で悩んでいるとどこからからドタバタした音が聞こえてくる。
「敏君! いる!?」
突然、急ぐような口調でさっちゃんが声をかけてくる。やけに声が近い。
どうやら、この浴室のドアの奥にさっちゃんがいるらしい。
「いるけどそれがどうかしたか」
「聞いて! 私決めたの!」
ガラッと勢いよく浴室のドアを開けて堂々と入ってくる。
ちょっと待て! それは駄目だ。
あなた女性。僕男性。アンダースタン?
あなた私服。僕全裸。アンダースタン?
「ギャアァァァァ。エッチィィィ!」
僕は思わず声を張り上げてしまう。その声も届いていないのかさっちゃんは無視して僕に語り掛ける。
「ねえ! 敏君。私決めたよ。私、看護師になる!」
「お、おう。そうか」
「それで敏君のサポートをする。敏君は医者になって私は看護師になる。良いタッグになりそう!」
さいですか。
「とりあえず、さっちゃん落ち着け。ゆっくり深呼吸してこの状況を判断するんだ。大丈夫、怖くないよ」
「? えーと」
キョトンとした顔でさっちゃんは僕の顔を見た。そして、周りを確認する。自分が風呂場に侵入している姿、湯船に浸かっている僕を交互に見ながら状況を判断していく。
だんだんと顔が真っ赤になっていくさっちゃん。頭の上で蒸気が噴き出ているかのような反応を示し、静かに礼をした。
「し、失礼しました~」
「あっ、さっちゃん」
「ひゃ、ひゃい!」
僕は黙って退散していくさっちゃんを引き止める。まだ僕は彼女に言ってないことがあった。
「お互いに頑張ろうな。さっちゃんなら看護師になれるよ」
さっちゃんは咄嗟の事で言葉が出なかったのか口をパクパクさせていたが、頬を赤らめながら笑顔で、
「うん」
と頷く。僕も笑顔で頷き返した。