彼は勉強ができない。
何だかんだで春日野先輩に勉強を見てもらうことになった。この状況、僕はどうすれば良いんだろう。
柊先生は「んじゃ、後は頼んだぞー」とだけ言い残し、その場から立ち去ってから一人の男子生徒と一人の女子生徒が一つの教室に残る形になってしまった。
これ、いろいろ不味くね? 第三者がみたら誤解するよね?
そんな不安要素が僕の頭の中に渦巻くが、春日野先輩は気にしていない様子だった。
「それじゃあ、三鷹君。あなたの志望大学を教えてもらおうかしら」
「えっ?」
僕は言葉に詰まった。
この人は何でどんなに乗り気なんだ。一度はバッサリと断ったのに。柊先生はどんな弱みを握っているのだろう。柊先生、恐るべし。
「えっ? じゃないわよ。どこの志望大学なの。それによって勉強内容も変わってくるわ。例えば、理系の場合は数学や理科を中心に勉強をするわ。文系の場合は英語や国語ね」
春日野先輩は自身の机の上に予め用意していたであろう問題集や参考書を積み上げる。僕の答えによって勉強を合わせてくれるようだ。彼女は本気で僕の勉強を見るつもりなんだなと少し疑問に感じた。それと同時に春日野先輩に対して申し訳ない気持ちが溢れ出てくる。
「……なんで春日野先輩はそんなに熱心なんですか?」
「何よ。いきなり」
「いや、純粋に何でかなって思って。僕として勉強を教えてもらうのは大歓迎なんですが、その、えっと」
いくら先生から勉強を教えろって言われてもほっとけば良い話である。表面上では教えていますと言い張れば後は教えてもらった自身の問題になるわけで。
仮に学力向上が見込めないのであれば、それは本人が勉強していないからという言い訳ができる。その言い訳は頭が良ければ良いほど説得力がある。
でも彼女はそれをしない。それどころか志望大学まで聞く熱心さである。
一瞬、彼女は困惑した目つきをしていたが、僕の考えを読み取ったかのように淡々と答える。
「お生憎様。私は一度決めたからには実行するのが性分なのよ。途中で放棄するなんて絶対しないわ。有言不実行なんて論外。だから、あなたが心配している問題については杞憂ね。まぁ、あなたにやる気がなければ話は別だろうけど」
「は、はあ」
「だから安心しなさい」
と言われましても。
しかし、春日野先輩がこうも言い放っているんだ。少し信頼してみよう。
「わかりました。僕の志望大学は国公立の医学部を志望しています」
「成程。参考程度にこの前のテスト結果を見せてもらえるかしら」
「……」
僕はすぐさま黙ってしまう。これが黙らずにいられるか。学年最下位だぞ。そんな事言えるはずない。
「どうしたの? テストの結果がないなら後日柊先生から聞いてみるけど」
「い、いえ。あります。あるんですが」
言えねえええぇぇ。絶対笑われる。
そう思いつつも恐る恐る前回の素点表を春日野先輩に渡す。春日野先輩はじっくりと僕の現状の点数を見た。
英語15点。学年190人中190位。
社会18点。学年190人中190位。
理科10点。学年190人中190位。
国語22点。学年190人中189位
数学8点。学年190人中190位。
総合73点。学年190人中190位。
散々たる結果がこの紙切れには書かれていた。いつみても酷い。
どうせクラスメイトみたいに笑われるのがオチだろう。やはり見せるのは失敗だったなとちょっぴり後悔した。
呆れられるか怒られるかはたまた笑われるんだろうなと予測をしつつ、春日野先輩の顔色を窺う。しかし、彼女は特に感情を表す仕草も見せずにただじっと僕の素点を見ていた。
「ありがとう。返すわね」
その言葉だけ言い残し、僕に素点表を返す。返した後も怒っている様子も呆れている様子もなくいつも通りの春日野先輩である。
僕は思わず聞いてみた。そこは聞かない方が良いべきなのだがどうしても気になってしまった。
「春日野先輩は……何も言わないんですね」
「? どういう意味?」
僕の言っている意味が本当に分からない様子で首を傾げた。春日野先輩は現在の僕が置かれている現状を把握しているはずなのに何も言わない。
普通の人は馬鹿かと言う。
自分の成績と釣り合う大学に行けと何度も何度も諭される。現実を見ろと。いくらお前が頑張ったところで受かるはずないと心の底で嘲笑うのだ。
――何が国公立の医学部だ。馬鹿のくせに生意気だ。
確かにそうだ。僕は勉強ができない。生意気だ。
――マジで記念受験とか消えて欲しいよね。
僕としてはそんなつもりは毛頭ないのにそう決めつけられる。
そして、僕の素点を見ながら全員がこう思うのだ。
ほら、やっぱり馬鹿だと。
「私は夢がある人は素晴らしいと思う」
僕の回想を断ち切るかのごとく春日野先輩はピシャリと言った。
僕はいつの間にか顔が下がっていたことに気づく。顔を春日野先輩の方に向けると、そこには真剣な表情で僕を見ていた。窓から吹きつける風が春日野先輩の黒髪をなびかせる。景色もすっかり夕焼けで彼女を照らした姿は僕の瞳により一層凛々しく見えた。
「まず一つ勘違いをしないでほしい。もし、あなたが持っている紙切れに書かれた数字があなたの頭の良さを表すのであれば誰も勉強なんかしないわ」
紙切れに書かれた数字というのは僕の素点表であるということがすぐ分かった。
「だから私はあなたを笑いもしないし、咎めもしない。かと言って怒りもしないし、憐れんだりもしない。むしろ私は……」
一拍置いてから、彼女は続けて、
「妥協も許さず一直線に夢に走る姿は誰よりも尊敬できるわ。誰も笑う資格なんてない。この状況を変えたいと思ったからこそ、ここにいるんでしょう? だからもっと自分に自信を持ちなさい」
初めてだった。こんなことを言われたのは初めてだ。
初めて、自身の夢を認めてもらったような気がした。
初めて、僕の夢を笑わずに聞いてくれた。
少なくとも、この高校で一番頭の良い人にそう言われるなんてこれ以上の説得力はない。
当然の如く、僕が言うべきことは決まっていた。
「改めてこれからよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく、三鷹君」
と僕と春日野先輩は握手を交わす。春日野先輩の手はひんやりと冷たくて柔らかい感触がした。
「三鷹君? 少し聞きたいんだけど次のテストはいつかしら?」
「えっと、二週間後ぐらいだったような」
「成程。ならその勉強を今から始めるわ」
アノ、カスガノサン。モウ、ユウヤケガシズミソウナノデスガ。
「そう。なら近くの図書館で勉強しましょう。とりあえず、あなたの学力がどの程度なのか把握してそこから試験勉強を始めるわ」
ヤバい。彼女の目が真っ赤に燃えている。徹夜する気満々ですよ、彼女。
それでも、まあいいかと僕は思ってしまう。
この先何百回徹夜しようが彼女となら乗り越えられる。その思いを本気で感じていた。
「一つだけ言い忘れていたことがあったわ」
何か思い出したようで自分のバックの中をガサゴソと探る春日野先輩。そして、一枚の紙を僕へ向けた。
そこに書かれていた内容は。
入部届。
僕は心に思っていたことをそのまま口に出していた。
「ここって部活だったんですか?」
「柊先生から何も聞かされていないの? まったくあの人は……」
やれやれと言わんばかりに首を竦める。初耳だよ、柊先生。
「基本的には放課後この教室に集合なのだけれど、もし私より三鷹君が先に来た場合において職員室に鍵を取りに行ってほしい。その為に部員である方が何かと話が進むから良ければ入部してくれると有難いわ」
強要はしないらしいが、僕はずっと帰宅部だったので問題はない。
「分かりました。それでここはなんていう部活なんですか?」
「ええ、この部活の名前は……」