彼女は勉強ができる。
両親が亡くなって約一か月後である六月一日。梅雨の時期がやってきた。
一人の教員が困ったような表情で僕を見て、こんな一言を言い放つ。
「君は頭が良くなりたいのか?」
この地域では有名な進学校である皆川高校。その職員室にて。僕にそう問いかけてくる教員は学生指導主任である柊 京子先生である。この人は僕の担任でありながら学生の悩みを解決する学生指導主任でもある。学校の授業が終わり放課後になった職員室では個々の教員がそれぞれの仕事をこなしている中、僕と柊先生はある事柄を話し合っていた。
「しかし、君が今の段階で頑張っても不可能に近い」
「わかっています。でも諦めたらそこで駄目だと思うんです」
「ふむ。それも一理あるな。では……」
何か思うことがあるのか柊先生は職員室から出ていく。僕はしばらく柊先生の後ろ姿を見送っていたが、彼女から手招きされた。
「何をボーと突っ立ているんだ? ついてきたまえ」
「はあ」
僕は生返事して柊先生の後へとついていく。
場所を移動するということはこの職員室内で話せないことなのだろうか。
それとも、場所を変えなければ説明ができないことなのだろうかと疑問に思いながらも黙って歩き続ける。ここは柊先生に任せることにした。
そもそも、今回柊先生と話し合うきっかけになったのは僕自身の問題である。その僕自身の問題を相談に乗ってくれたのは彼女であるし、信じなければ失礼だろうと思う。
「さて、ここだ」
急に柊先生が立ち止まったので、つられて僕も立ち止まった。
柊先生が差し示す場所は普段使わない空き教室。
「ここは?」と僕の疑問が分かっていたのか柊先生の口元は上に引き上げていた。
「入ればわかるさ」
とだけ僕に言って、何食わぬ顔でその空教室にノックする。使ったことがない空き教室にノックする意味があるのかという疑問は、
「どうぞ」
と空き教室から声がした瞬間、すぐその疑問は消えた。
僕が知らなかっただけでこの空き教室は誰かが使っているらしい。そう仮定できるのであれば、この教室は部活とかで使用している可能性や高校三年生が自習室として利用している可能性が高いと思った。しかし、どちらにせよそんな所に僕が行ってどうするのだろう。
僕がそこに訪れる理由がない。僕は部活をやりたいわけでも自習をしたいわけでもない。
「よう、春日野。元気しているかい」
柊先生は教室の中に入り一人の学生に挨拶をする。僕も続けて中へと入るが、そこは窓側に一人の女子が机に向き合い、椅子に座っているという何とも殺風景な光景である。
教室の隅では残りの机と椅子が塊のように追いやられている。
窓側にあるその机と椅子は一人の学生しか使用しておらず、それ以外の学生は一人もいなかった。
要するに彼女しかこの教室を使っていなかったということだ。柊先生が声をかけられた彼女はきめ細やかで綺麗な黒髪で肌も白く透き通っていて、顔の形も整っている。太っている訳でも痩せすぎている訳でもない悪くないスタイル。これこそがまさに美少女というのではないか。
僕はこの人を知っている。彼女の名前は春日野 遥。僕だけじゃない。おそらく全生徒が彼女を知っているのではないだろうか。
頭脳明晰、スポーツ万能。特に学業に関しては全国模試一位になったこともある。高校三年生で一応、僕の一つ上の先輩にあたる。
「先生。何の用ですか?」
春日野先輩は勉強していたようで持っていたペンを机の上に置く。教科書も目から離し、こちらを見つめる。
「頼みたいことがあってね。聞いてもらって良いだろうか?」
「それは先生の後ろにいる学生と何か関係でも?」
僕の顔をチラリと見ながら、再び柊先生に問う。
春日野先輩は少し不審そうに僕と柊先輩を交互に見ていた。そりゃ、不審がるよね。いきなり、先生と学生が押し寄せてくるんだから。
「まあ、そうだな。ほら、三鷹。挨拶しろ」
急に挨拶と言われても困る。そもそも、僕は何のためにここに来たのか分からないのだからその説明を今するべきである。
後で全部説明してもらおう。そう結論付けて僕は口を開いた。
「こんにちは。二年の三鷹 敏久です。えっと、春日野先輩ですよね。初めまして」
春日野先輩にペコリと頭を下げる。柊先生は「ほぅ」と驚いた様子で、
「三鷹。お前、春日野を知っているのか?」
「知っているも何もこの学校で知らない人はいませんよ」
「……それもそうか。いや、すまない。もしかして、春日野とは友達か何かと期待してしまった。そうだよな。こいつに友達なんていないよな……」
と柊先生はどこか納得したように頷く。
「先生。何か失礼なことを思いませんでした?」
その問いには柊先生は何も答えない。ただ、下手な口笛をヒューヒューと鳴らしているだけだ。
分かりやすいな、柊先生。
改めて春日野先輩は僕の方に視線を移した。
「三年の春日野 遥よ。こちらこそ初めまして三鷹君」
深々とお辞儀をする春日野先輩。僕も思わず深々とお辞儀を返してしまった。
「ど、どうも」
「うむうむ。見事に溶け込んでるじゃないか。結構なことだ」
柊先生は満足そうに微笑むが、僕達のやり取りにどこが溶け込んでいるのか教えてもらいたい。お互いに挨拶をしただけですが。
根拠として春日野先輩を見てくださいよ。もう彼女の瞳に僕が映っていませんが。僕より数学の問題集の方が好きみたいなのですが。
「おい、春日野。話はまだ終わってない。勉強をするな」
「教員が勉強をするなと言うなんて前代未聞ですよ」
春日野先輩はそう答えながら、既に彼女の目線は勉強に行っていた。最早、聞く姿勢も取らない。柊先生は頭が痛そうにハアと溜息をついた。
「いちいち、揚げ足を取るんじゃない。勉強するなとは言ったが、状況と話の流れを察してくれ。今は勉強をするのは失礼だと言いたいんだ」
「お話を聞くだけだとしてもですか? 頼みと言われても既に私の答えは決まっているのですが」
一旦、勉強から柊先生に目線をを移す。暫くの間、彼女らは数秒の沈黙が訪れた。
き、気まずい。
何でお互い睨みあってるの? 怖いよ。怖すぎる。バック絵に虎と竜の対峙を採用したいぐらい今の雰囲気と合っている。
このまま続くかと思っていたが、折れたのは春日野先輩だった。
「……わかりました。お話だけ伺いましょう」
この沈黙時間が時間の無駄と思ったのかは分からないがとりあえず聞いてはくれるらしい。
というか、そもそも何で僕がここに来たのかも分からないんだけど。
「率直に言うぞ。三鷹の勉強を見てくれ。そんで大学合格の道を切り開いてくれ」
「お断りします」
数秒で一刀両断。
それよりも待て待て待て。
今、柊先生は何て言った?
「あのー、柊先生? これはどういう……」
なかなか僕は状況を飲み込めないので柊先生に聞いてみる。すると、予想外の答えが返ってきた。
「まあ、そういう事だ。これから勉強は春日野に見てもらうと良い。目標目指して頑張れ! 目指せ、国立の医学部!」
「いやいや、春日野先輩断りましたよね! 一刀両断しましたよね!?」
「三鷹君の言う通りです。私はきちんとお断りさせてもらいました」
僕の援護をするように春日野先輩は柊先生に反論する。しかし、その反論は虚しくもそれどころかその発言を待っていたかのように柊先生は不敵な笑みを浮かべる。僕は直感的に悟ってしまった。
あっ、これ悪い人が悪いことを考えている時の笑顔だ。
僕の知り合いの中で一人同じような顔をする人に心当たりがある。
「君に拒否権なんてないぞ。よろしく頼む」
「納得できません」
「なら、あの時の借りを今こそ返してもらおうか」
「づっ!? ……仕方ありません。分かりました。引き受けましょう」
「ええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
僕が学生指導主任である柊先生と話していたこと。
それは大学の進路指導である。僕の志望大学は国公立の医学部。
しかし、僕の成績は190人中190位。つまり、最下位。
こうして最下位からの医学部合格へのチャレンジが今始めるのだった。
多分。