呪い姫、困惑する
この日も彼女はいつも通り、唯一の楽しみである読書に没頭していた。
物語の中へ入り込んでいるため、外界の音は遮断されている。
ただ黙々と文字を追い・・・頭と心で文を、言葉を、台詞を噛み砕いて飲み込んでいく。正しく、貪るように読書をすることが彼女の数少ない娯楽だった。
しかしそれも今日で終わる。
普遍的な日々を打ち破る侵入者が、規則的な靴音を響かせながら、彼女に迫る。
あいにく、彼女は気づかない。
侵入者が部屋の扉をノックし、彼女の目の前に立ち・・・本に影が落ちたところで、ようやく彼女は異変に気が付いた。
ゆっくりと本から顔を上げた彼女に、侵入者は端正な顔に軽く微笑のようなものを浮かべ、落ち着き払った態度と美しい所作で礼をした。
「本日から姫様の護衛騎士となりました。クロウ、と申します。」
「護衛、騎士・・・?」
彼女――アリエノール・ウィンゼルはその言葉を飲み込み、理解するまで数秒間を要した。
「つまらん冗談だ。――それとも嫌味か?」
間抜け面を晒したであろう数秒間を蹴散らす勢いで、ふん、と鼻を鳴らす。
16歳になる妙齢の女がする仕草ではなかったが、男はピクリとも表情を動かさない。
呪われ、穢れを持つといわれるアリエを目の前にして、その目に畏れや嫌悪は見られない。揺らぐことのない深いグリーンの瞳は、まっすぐに彼女を見ていて・・・アリエには逆にそれが胡散臭いと感じられてしまう。
その瞳から逃れるようにそっぽを向き、アリエは言い放った。
「お前など要らん。さっさと出て行くんだな」
「承知できません。姫様の護衛が仕事ですから、離れていては守れません」
「・・・それが要らないと言っている。誰が“呪われた姫”に手を出すというのだ?そんな愚か者は今までもこれからも現れると思えないな。さあ、早く私の前から消えろ」
「恐れながら――私は国王陛下に遣わされた身です。国王陛下が姫様の護衛の任を解かない限り、私は自分から仕事を放棄することは致しません」
「遣わされた、ね」
そもそも、それがおかしいのだ。
アリエは生まれてすぐにこの塔に閉じ込められた。赤子であった頃の彼女の世話は、赤の他人である数人の罪人たちが行っていた――つまり、呪い殺されても構わない罪人を使っていたのである。
世話をしていた罪人たちの最後の一人が亡くなってから、もう6年経つ。
その間、監視役の神官が時折来るものの、新たな住人が現れるわけでも無く、この塔で息をしているのはアリエ一人だけだった。
(この6年間、放置しておきながら・・・。何を思って “護衛騎士”なんぞ寄越したというのだ、あの国王は?)
碌でもない予感しかしない現状に、彼女はため息を吐こうとして止める。
すでに碌でもない目にあっている人間がここにいた。
「おい、クロウといったな?」
「はい」
「お前はあたしが人を“呪い殺せる”ことを知っているのだろう?」
「噂では」
「噂じゃない。事実だ・・・。今まであたしに関わって生きていた人間はいない」
そう淡々と言って、意識して口端を引き上げる。
彼女が本当に一人きりになって6年、生身の人間とこんなに長い会話をしたのは初めてだった。だからなのか、アリエは妙に緊張している自分がいることを自覚していた。
(あたしは、目の前にいるたった一人の人間と向き合うことさえ、上手くできない・・・。)
己の歪さを嘲笑えば、意識せずとも一層酷薄な笑みを浮かべられた。
クロウはそんなアリエを一瞥し、最初から変わることない表情でひとつ頷いた。
「そうですか」
「・・・。おい、分かっているのか?あたしのこの身は穢れ、お前に触れれば穢れが移る。それにあたしがお前を呪えば、きっとお前はこの世で一番苦しい死を迎えることになるんだぞ。・・・・・あたしはお前をいつでも殺すことができる」
「そう言えば私が逃げ出すとお思いですか?」
薄い笑みさえ浮かべているクロウに、アリエは本気で彼の正気を疑う。
これまでにアリエが言ったことは誇張されたものではない。
大聖堂から派遣された神官に、アリエがどんなに恐ろしい穢れた力を持ち、周囲に影響を及ぼすのか彼女が生まれてすぐに視てもらったからだ。
そのことは、アリエ自身は勿論――なによりもアリエの周囲の人々の方が理解していると思っていたのだが・・・。
例外もいたようだ。
「命が惜しいとは思わないのか?」
「勿論、惜しいですよ」
そう言ったクロウに、アリエは密かに安心する。それならば説得できると思ったからだ。
「ならば出ていけ。国王にはあたしから言っておく。――大丈夫だ、悪いようにはしない。だから、あたしの護衛騎士なぞやる必要はない」
「・・・お気遣い感謝致します。しかし私はこの任を全うしなければなりません」
瞬間、煌めいたクロウの瞳にうつった固い決意をアリエは見た。
それと同時に浮かぶのは純粋な疑問。
「――護衛騎士をしなければならない理由はなんだ?」
「条件があるのです。・・・この塔でこれから3年、護衛騎士として姫様のお側で過ごせば陛下は私の願いをひとつ、叶えてくださるのです。ただ、途中でこの任を放棄すれば私の首は文字通り、飛んでしまうのですが・・・」
「―――」
さらりと告げるクロウに、アリエは眉を寄せる。
3年は長い。
アリエの傍で過ごした罪人たちは誰一人として3年間も持った者はいなかった。
国王はそのことを把握しているはずである。
恐らく、国王はクロウの願いを叶えるつもりなど端から無いのだ。
国王にとって、彼の願いが難題なのか・・・それともクロウという男自身が邪魔なのか。或いは両方か―――。どちらにしろ、国王は彼を消すつもりなのだろう。
(あたしにこの男を殺せというのか・・・・・)
アリエは冷えてゆく身体と動揺する心を落ち着けようと、ゆっくり呼吸する。
「あたしの話など信じられないかも知れないが、聞いてくれ。・・・・・この塔に、否。あたしの傍にいて3年間生きていた者は誰もいない。国王はお前の望みなど叶えるつもりなど端から無いのだ・・・」
言葉を切ったアリエは、すぅっといつもより深く息を吸った。
それと一緒に、腹の底にずんと重く陣取る想いも増したような気がした。
「国王はお前を騙している。ここに居ては、願いなど叶う前にお前はあたしの呪いで死んでしまうだろう」
そんな馬鹿な、と一笑されるかもしれない。アリエの呪いを知ってはいても、実際には見たことも感じたことも無い未知のモノが、どんなに恐ろしいものなのか伝えるのは難しい。――そうでなくとも穢れた身であるアリエと国王陛下の言葉、どちらを信じるかなど分かり切っていることなのだ。しかし、クロウという男はどこまでもアリエの予想を超えていく。
「そんなことは最初から承知の上ですよ。姫様・・・憂うことはありません。私は望んでここに居ます。私は必ず私の欲するものを手に入れます。――私の力で」
はっきりと言い切るクロウに、これ以上どんな言葉を重ねれば良いのかアリエは分からなくなる。
(どうすれば良い・・・?)
この塔の中でしか過ごしてこなかったアリエにとってクロウという人間は、今までに関わってきた人たちとあまりにも違いすぎて、どう対応すればいいのか見当もつかない。
思考に沈もうとするアリエを低く落ち着いた声が引き止める。
「姫様に出ていけと言われても、私はここにしか居場所はありません。あとの選択肢は死しか残されておりませんので」
「処刑されるよりも、ここで少しでも生き長らえた方が良いというのか?」
「むざむざ死にゆくようなことは致しません。私は必ず3年間、姫様とともに生き延びてみせます」
「・・・あたしと、ともに・・・?」
「はい。私は貴女の騎士ですから。そばにいる限り、必ずお守りいたします」
「――ふっ、可笑しなことを言うやつだな。誰もあたしを殺せないと言っただろう?お前は自分の身のことを考えろ」
「冷静に考えた結果です。今ここで逃げ出したとしても、追手から逃れられるとは思えません。この国の騎士団はとても優秀ですから」
「あたしから国王に・・・」
「申し出てくださると?――私が国王ならば、姫様の意を快諾した振りをして逃げ出した愚か者は、抹殺するでしょうね」
そう言って不敵に笑ってみせたクロウに、アリエはぐっと押し黙った。
アリエ自身、言ってはみたものの現実味のない話だとは分かっているのだ。
「――もとより、途中で投げ出すような甘い覚悟ならば・・・貴女の前に立ちません。姫様、どうか私をお側に置いて下さい」
「・・・・・・」
跪き、頭を垂れるクロウを、アリエは暫く厳しい表情で見つめていたが、何も手立てが思い浮かばないことに加え、クロウの固い意志を前に、渋々頷いた。
「気が済むまでここに居ればいい。だが、あたしには一切干渉するな。護衛も必要ない。その方が・・・・・いや、とにかく、塔を出ていきたくなったら直ぐに言え」
その方が・・・もしかしたら、自分の穢れや呪いが効きにくくなるかもしれないから・・・。
とは言えなかった。そんな事を言わなくても自分に近寄ってくる物好きはいないし、“かもしれない”という不確かな情報など気休めにもならない。
「姫様、ありがとうございます」
恭しく頭を垂れるクロウに、何とも言えない表情をしたアリエ・・・
こうして2人の生活は始まったのである。
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