第4章
部族の元を離れたアーロンは、王宮へ向けて歩み続けた。自分が深手を負ったことも、その傷の痛みも、彼にとってはどうでもよかった。彼はただ、ジーナの名だけを心の中で呼び続けた。それが、本当ならば立っているのもやっとであるはずの彼を奮い立たせていた。七日七晩、ただひたすらジーナのことのみを心に抱き、アーロンは休まず歩き続けた。そして彼は、漸く王宮の門へと辿りついた。
そこでふと彼は、門前に何かが転がっているのに目を留めた。それは奇妙に曲がり、青黒い色をしている。何だろう?彼は目を側めて見た。人間の死体だ。だが彼は、自分が今見たものが何なのか、すぐには認識できなかった。彼は恐る恐る、もう一度目を凝らして見た。それは紛れもなく、裸で転がっている、若い女の死体だった。城門から投げ捨てられたのか、体の骨が折れて奇妙な方向に歪んでいる。だが、美しいぬば玉の黒髪は、生きているかの如くに艶々と輝いていた。
アーロンはふと、その奇妙に輝く黒髪の、言いようのない美しさに見覚えがあるように思った。高鳴る不安を抑え、彼はうつ伏せになっている死体に触れてみた。その氷のような冷たさが彼を狼狽させたが、彼は何とか死体を起こし、その面をとくと見た。青黒く変わり果てた姿ではあったが、細い弓のような眉、とがった鼻梁、葩のように形の良い唇は、紛れもなくジーナのものであった。
衝撃で頭の中が真っ白になり、体中の力が抜けるような、それでいて妙に昂揚するかのような感覚がアーロンを襲った。彼の四肢は痺れ、冷たく熱を失っていった。彼は目をかっと見開き、もう一度死んだ女の顔を見た。蒼くなった唇の端に、血の跡がこびりついている。赤黒く掠れたようなその跡を見て取ったアーロンは、一瞬にして全てを悟った。一陣の嵐のように激情が込み上げ、渦となって彼を襲った。だが彼は、妻の身に起こったこと、そして彼女を永遠に失ったことを理解はしても、その不幸を直ちに己のものとして実感できるほど、強靭な精神の持ち主ではなかった。半ば思考の力を失った彼の心は、完全にこの世とあの世の境を漂うかの如く、彼自身を離れて宙を舞い、妻と過ごした過去、それから糸が突然切れるように、予期せず彼女を失った現在との間を行き来していたのである。幸福だった過去と現在との繋がりは、この瞬間、全て失われた。ただ、最早時の繋がりを失った、幸福な記憶の断片だけが、彼をこの世に、冷たい夜の空気と高い城壁の前の大地に結び付けていた。彼は、急いでマントを脱いだ。それから、氷のように冷たく、ぐにゃりとした女の体を包むと、赤子をあやすようにそれを抱いた。
「こんなに冷たくなって・・・・・・。可哀想に。・・・・・・さぞ寒かっただろう、それにこの傷は・・・・・・。・・・・・・大丈夫、私がいるから、もう平気だ。こうして抱いて、暖めてやるよ。すぐに暖かくなる、もう君は、寒い思いはしなくていいんだ。一緒に、皆の所へ戻ろう。怪我は、きっと長老が良くしてくれる。きっと、お爺さんが良くしてくれるよ・・・・・・。だから安心して。じきに、何もかも元通りだ・・・・・・」
アーロンは蒼ざめた死体の唇に接吻し、子供をあやすように、幾度も繰り返し語りかけた。それはもう彼の愛したジーナではなく、ただの骸でしかなかった。だが彼にとって、それはジーナだった。唯一愛を注ぐべき、妻たるジーナであり、今この瞬間、唯一彼を正気に繋ぎ止めているものであった。
アーロンは女の骸を抱き、立ち上がろうとした。しかし、激しく疲労した彼に骸は重く、体がいうことをきかない。必死に顔を歪め、アーロンは進もうとした。だが、それは叶わなかった。アーロンはその場にくず折れたが、それでも必死に死体を抱えて立ち上がろうとした。
「止せ、その女は死んでいる」
突然、アーロンに語りかける者があった。振り返ってみると、それは一人の老人だった。青い簡素なローブと帽子を身につけ、長く白い顎鬚を生やしている。白い馬に乗ったその姿は、静かな威厳に満ちていた。
アーロンは老人のほうを向くと、首を激しく横に振った。老人は言った。
「お前も、かなりの深手を負うておるな。どうにか生きておる、といった様子じゃのう。その体では、とてもその骸を運ぶことはできまい。女は死んでいるのだ、そこへ置いておけ。お前は私と共に来るがよい、傷の手当てをしてやろう」
「ジーナは・・・・・・、ジーナは死んでなどいません!」
アーロンは掠れた声で叫んだ。
「寒くて、少し気を失っているだけです。私が介抱してやれば、じきに良くなります」
老人は、悲しげにアーロンの姿を見た。そして馬を降りると、彼に向かってローブの袖を振った。すると不思議なことに、アーロンは深い眠りに落ちてしまった。老人は彼を馬に乗せ、何処かへと去っていった。