聖女への怒り
首を傾げたツィーラに、私は不安に満ちた顔を向ける。
「だって、ちょうど私たちが通りかかる場所に魔法陣があって、その向こうにエーミャがいて、さらにウェティーナの力を使えば何とかできそうな術で封印してあるだなんて、都合が良すぎるような気がするんです」
「……確かに、それにこの感じは」
言われてツィーラは魔法陣に目を向ける。瞳孔が開き、彼女の特殊能力が仕組みを解析するのがわかった。少しして、ツィーラは鋭く息を飲んだ。
「ウェティーナ! やめろ、それには別の魔法陣が上書きされてるぞ!」
叫んで飛び出したツィーラだったが、運悪く一瞬前にそれは発動した。目を開いたウェティーナの口が「え?」という形にゆがむ。驚愕に浸る猶予すら、彼女には与えられなかった。
シャンデリアの蝋燭をたてる部分から、青白い魔素の炎が噴き出し、それがゆっくりと螺旋を描いてウェティーナに降り注いだ。
炎は変幻自在に形を変え、檻のようにウェティーナを中に閉じ込めると、今度は別の転移魔法が起動する。唸るような音がし、突風が荒れ狂い、私は目を開けていられずに反射的に閉じた。
「ウェティーナっ!」
勇者の叫び声が耳を打つ。だが、彼の叫びも届かず、突風が突如としてやんだ。すぐに目を開けた私は、喉の奥からかすれたうめき声をもらす。
室内には、何の痕跡も残っていなかった。
ただ、ウェティーナがいないことだけが、今まさに起こった全てのことを証明しているばかりだ。
「くそっ!」
勇者は怒りに満ちた声を上げると、床に拳を打ち付ける。何度も何度も。もちろん、そんなことをして床をぶち抜いたとしても、そこに何もないであろうことは彼にもわかっているはずだ。そうであっても、苛立ちをぶつけずにはいられなかったのだろう。
私は唇を噛みながら、勇者の側へと歩み寄る。
同時に、サーミュとツィーラも動いていた。だがそれより早く、勇者が怒り任せに叩いていた床に、大きな亀裂が入る。はっ、として足を止めると同時に、床が崩落した。
大きな音を立てて、石の床が階下に落ちていく。
埃が舞い上がり、私はそれがおさまるのを待った。肩で大きく息をする勇者の目は、悔恨で曇っていた。
彼の視線の先には、階下が映っている。
もちろん――そこにはなにもなかった。ただぽっかりと、この部屋と似た空間が口を開けているばかりだ。
ウェティーナは、拉致されたのだ。もしかしたら、私たちが見たエーミャの姿は幻だったのかもしれない。
やがて、小石のぶつかる小さな音を最後に、崩落が終わる。
それから、私たちは再び勇者の側へと歩み寄った。
私はまず真っ先に、痛めたであろう手をとる。勇者がいくら強いと言っても、あのやり方では痛めていないわけがない。案の定、拳は擦り剥け、血がにじんでいる。骨までは達していないようだが、小さな傷ではない。
――どうして、自分を痛めつけるようなことをするの。
そう尋ねたかったが、答えが返らないことは知っている。以前にも問うたことがあるからだ。その時の勇者は、ただ悲しそうに顔をうつむけるばかりで、何一つ言葉を発することはなかったからだ。
だから、私は黙って治療の術をかけた。
勇者は、手を取られた瞬間少し申し訳なさそうな顔をしたものの、黙ってされるがままになってくれていた。
私は、その表情を目にして、レフィセーレに怒りを覚えた。
この罠を仕掛けられるのは、私たちが何を見ればどう感じるか知っている彼女以外には存在しないはず。
その上でこんな手段を選び、勇者を追い詰めたのだ。
――レフィセーレ様、いえレフィセーレなら勇者を支えてくれると、私なんかよりずっと強い支えになるだろうと思ったのに。
だから離脱する決心をしたのだから。
それを、彼女は裏切った。勇者に、こんなことまでさせて。――許せない。そう思った。
どうしても、こんなことをした理由が知りたかった。
乱れた胸中の思いに気を取られていると、近くからため息が聞こえた。サーミュだ。
「やっぱり、何もないか……」
「ああ。とにかくこれで、あたしたちの戦力はかなり落ちるな。あいつの補助魔法なしで、行けるか?」
悄然とした様子のサーミュに、ツィーラは苦々しげに問う。
心の隙間にできた不安がふたりを疲れさせているように思えた。しかし、そんなふたりに勇者が固い声で言う。
「もし、戻らなきゃならなくなったとしても、その前にウェティーナだけは絶対に助ける」
ふたりはすぐには頷けなかった。サーミュは思いつめたような、ツィーラは険しい顔をして口をつぐんでいる。
少しして治療を終えると、私は言った。
「仕方ありませんね、ウェティーナほどには無理ですが、神聖呪文にも補助呪文がありますから、それで何とかしのぎましょう。ですが、まずはウェティーナの居場所を突き止めないと」
「ちょ、ちょっと待てリフィエ、それじゃあお前に負担がかかりすぎる。あたしたちにはお前が命綱なんだ。お前に何かあったら」
「それでも、ウェティーナを残していく訳にはいきませんよ」
私は困惑顔のツィーラを見た。彼女は不安そうだった。気持ちはわかる。まだそれほど疲れているわけではないが、まだ四滅将二体と魔王本体が残っているのだ。
さらにレフィセーレまで協力しているとなれば、彼女たちが不安に思うのも無理はなかった。私だって不安だ。
それでも、私は先へ進みたかった。
「リフィエの言うとおりだ。俺一人でもウェティーナを助けに行く。帰れば、後悔することになるだろうから」
きっぱりと告げた勇者に、私は苦笑しながらふたりを見た。
「こう仰っている勇者様を止められますか? こうなった以上、最後まで突き進むしかないと思うんです」
「……あぁ、そうだな」
どこか疲れたようなやけっぱちな笑みを浮かべて、サーミュがこちらに向き直る。ツィーラも似たような顔をしていた。
どうやら話は決まったらしい。
「じゃあ、先へ進もう」
勇者が皆をうながす。私は頷いて、彼の後ろに続いた。すると彼は振り向いて、唐突に「ごめん」と言った。
私は首を傾げた。
もしかしたら、巻き込んだことを謝っているのだろうか。だとしたら、それは少し前に決着のついた話だと言おうと思った。
だが、返ってきたのは別の答えだった。
「約束、また少しだけ破っちゃったから……手、ありがとう」
すぐには返事を返せなかった。
私は一瞬目を見張り、それから首を横に振った。彼はまだ約束を覚えていたのだ。
ミロムの実を食べるまでは自分を大切にする、という約束を。
もう忘れたと思っていた。彼の気持ちがレフィセーレに傾いたように見えたとき、その役目は彼女に渡ったと思っていた。
不意に、胸がじんわりと温かくなり、私はうつむいた。
喜んではいけない。これから全てが終わってからの役目を思えば、喜んでしまってはいけないのだ。
そうやって思いが重なれば重なるほど、後がつらくなる。
私は静かに自分の心にトゲを刺す。
「いいえ、それがお役目ですから。貴方の役に立てれば、私はそれでいいんです」
そう、役目だから。
自分で自分に言い聞かせる。それを聞いた勇者は、少しだけ寂しそうな顔をした。
「でも、ありがとう。それに、ウェティーナを助けに行くことに賛成してくれたことも嬉しかった。リフィエに一番迷惑かけるのはわかってた。でも、どうしても……」
「気にしないでください。私だって、ウェティーナを置いて行ったら絶対に後悔すると思ったから言ったんですから」
そう言うと、勇者は「うん」と頷いたあとは黙ってしまった。私は一歩下がってツィーラに前を譲ると、その背中を眺めて思った。