とらわれの二羽
気持ちの悪い浮遊感から解放されると、とたんに柔らかいものの上に落ちた。安定を得た安堵感にひたるひまもなく、頭を巨大な手につかまれて思いっきり振り回されたようなめまいに思わず呻き声をあげる。
体を起こすことすらままならない。
私はその状態が回復するのを待った。
吐きそうになるが、それは必死にこらえてうつ伏せのまま聞こえる音と肌に触れる感触に集中する。
あまり物音はしないが、窓に風が当たるうなるような音がするのはわかる。どこか、高い建物のなかだろうか。
また、肌に触れるのは絹のようにさらさらとした感触で、上質の布地だとわかる。それに思わずぞっとした。
ここへ連れてきたのが誰なのかだけはわかっている。
四滅将ヴェレクトだ。
どうやったかは知らないが、パーティを離脱したツィーラになんらかの形で接触し、その瞳に転移魔法を埋め込んだのだろう。その上でザーティフのように操って私を訪ねた。
彼女を使った理由にも見当が付いている。
あの場所は聖域だ。高位魔族ならば侵入は可能だが、力は殺がれるし私に護衛がついていることくらいお見通しだろう。そう簡単に手に入れることは出来ないし、ミロムの側に逃げられればさすがのヴェレクトでも近づくことはできない。
だが、ツィーラという存在に隠れることでそれを可能にしたのだ。
ツィーラはハーフエルフ。彼女の存在自体精霊に近いため、魔の気配も薄まるから、気づかれにくい。それだけでなく、私の顔見知りであることも手伝って、より警戒されにくい。
――こんな回りくどいことしてくるとは思わなかったわ。
それほどまでに、マールム一族としての私に興味を持ったということなのだろう。だとしたら、一体なにをされるのか、考えたくなかったが考えてしまい、私は恐怖に小さく震えた。
「怖いか?」
掛けられた低い声に、私は目を開ける。
少しずつだが、目眩がおさまってきていたので、手をついて体を起こす。ゆっくりと顔をあげると、そこには想像通りの男がいた。
魔族の本性はそれぞれだ。
元々人型の者もいるし、魔物や動物に近い姿もある。ヴェレクトは確か獅子の魔物だったはずだが、今の彼は人の姿をしていた。
ザーティフの体から出たときに見た精神体そのままに、無造作に椅子に腰かけている。
精神体のときにはわからなかったが、彼の髪は燃えるような赤で、それが腰まで伸びている。こちらを楽しげに見てくる目は金色に近い。
がっしりとした体躯を覆うのは、擦り切れた緋色の布だが、金糸で刺繍された元々は高価なものだったようだ。
私は口元に笑みを浮かべて楽しそうにこちらを見てくるヴェレクトを睨みかえして、答えた。
「当り前でしょ、でも……あなたの好きにはさせない」
虚勢だった。
それでも、あの時のように全力で抵抗するつもりだった。何もしないで人形にされてたまるものか。
震える唇を叱咤して、私はそう言い切った。
「いつまでそんな風にしていられるか、試してみるか」
告げて、彼はすいっと腕をあげて私の横で気を失っているツィーラを指差した。すると、ツィーラの細い肢体が操り人形のように持ちあがる。
一瞬呆気にとられた私だったが、すぐにツィーラの全身をヴェレクトの赤い魔力が覆っているのに気づいた。
「な、何をする気!」
悲鳴じみた声が勝手にのどから出る。
自分に何かしようとするのならそれはそれで構わなかった。だが、ツィーラが殺されたら、――人形にされたらと思うと、息が止まる。
凄まじい恐怖がお腹の底からふくれあがってきた。
「さあて、どうするか。こいつを煮るのも焼くのも生かすのも、お前の返答ひとつだ。
全く、いい餌を寄こしてくれたもんだなあの女。だから人間は面白いんだが、まあ、俺はそれを利用するだけさ」
ツィーラを操って躍らせながら、彼は腰の短剣を抜かせると、その首筋にあてがわせる。私は叫んだ。
「やめて! ツィーラには何もしないで。お願い」
今度は声が震えた。
弱みは見せたくなかったが、そんな余裕はもう残っていなかった。
それを聞くと、ヴェレクトは楽しそうに笑う。
「効果てき面だな。正直つまらんが、お楽しみはまだ残っているし、よしとするか……」
椅子に掛けたまま呟くように言ったヴェレクトは、ツィーラから指先を外すと立ち上がり、私の近くまでやってくる。
操る魔力を失ったツィーラの体は、その場にどさりと倒れこむが、私には目を向ける余裕はない。
眼前まで、ヴェレクトが迫っていたからだ。
今さら理解したが、私のいるのは大きな寝台の上だった。
ヴェレクトはその寝台にひざをつくと、私の顎に手を掛ける。
「別れた時より力が強まっているな。かつてのあの女と同程度――いや、それ以上だな。こいつはいい。しかもこれだけ美しいと来ている。ただの実験のつもりだったが、いっそのことずっと側に置くのもいいか」
私は無理やり合わさせられた目を反らすことも、何か言葉を発することもできずに両手を強く握る。爪がてのひらに食い込みそうだった。
怖い。
嫌だ。
逃げたい。
しかし、それは叶わないのだ。
絶望に心が塗りこめられそうになった私は、彼が先ほどからたまに口に上らせる「あの女」という単語に引っかかりを覚えた。
今の働かない頭でも、「あの女」がこの事態を引き起こさせた張本人であることくらいはわかる。
私は掠れた声で問うた。
「あの女って、誰なの?」
すると、彼は驚いたように何度か目を瞬かせると、あごから手を離してふしぎそうな顔で逆に聞きかえしてきた。
「何だ、まだ気づいてなかったのか? 勇者パーティにはこっちの手先が紛れ込んでるんだぜ。そいつがそこのハーフエルフをパーティから追い出して、俺に利用したらどうかと持ちかけてきたんだ。
おかしいとは思わなかったのか?
大神殿を経由せずにパーティに同行できるなんて変だろ」
それでわかった。
けれど、信じたくない。信じたくなかった。
知らずに顔をうつむけた私に追い討ちをかけるように、ヴェレクトははっきりとその名を口にした。
「レフィセーレは、俺たちの仲間だよ」
「嘘!」
「ここで俺がそんな嘘をつく理由がないだろう。俺はただ、お前が欲しかっただけだ。あの女にも何か欲しいモノがあっただけのことだろう」
当然のことだと言わんばかりに肩をすくめると、ヴェレクトは寝台から降りて私に背を向けた。
「今は休みたいだろう。俺も万全の状態のお前でなければつまらんからな、しばらく休め。必要なものがあるなら言え。じゃあな」
声の後すぐ、がちりと重い音がして鍵がかけられたことを知る。私はぼんやりとした頭で、床に倒れていたツィーラを見る。
薄い胸が規則的に上下しているのを見て、小さく息をついた。
改めて部屋を見ると、壁の全てに赤い魔力が張り巡らされているのがわかった。どこにも隙がない。
神聖呪文で穴を開けられないかと考えたが、気力が残っていなかった。
脳裏に、仲間たちの顔が浮かぶ。
サーミュやウェティーナ、みんな無事だろうか。エーミャはこのことを知らないのだろうか。
勇者は、知らないまま彼女を好いてしまったのだろうか。
だとしたら、何て酷いことをするのだろう。
あの綺麗な笑顔の裏で、私たちを少しずつ勇者から切り離そうとしていただなんて、今でも信じられない。
大切な何かが汚された気がして、私は悲しくてたまらなかった。
――と、横から呻き声が聞こえた。私は弾かれたようにそちらを見やる。ツィーラが苦しげに体を起こそうとしていた。