温かな手
揺らぐ水面を凝視していると、驚いたことにすぐ老大司教の姿が映った。向こうも驚いた様子で私を見ている。
「リフィエ? 突然どうしたのです。何かあったのですか?」
「……あ、あの、大司教様、少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか? 私、どうしてもお聞きしたいことがあって」
切羽詰まった私の様子に、大司教は頷いた。
「長くは無理ですが、少しなら。どうかしたのですか?」
「あの、本当に私以外にマールム一族の生き残りはいないのでしょうか?」
大司教はやや黙り、言うべきか迷ったような顔をしてから口を開く。
「全く、という訳ではありません」
私は思わず目を見開いて、鼓動が高鳴るのを感じた。
「ですが、ミロムに祈る資格があるのは貴女だけです」
しかし、大司教はそんな私の希望を砕くように、はっきりと告げる。それでも、諦めきれずにすがるように問いかける。
「それなら、もしその方がマールム一族の力に目覚めたのなら、後を継ぐのは私じゃなくてもいいのではありませんか? 今はだめでも、いつか」
「それはないでしょう」
どうしてですか、と悲鳴じみた声をあげそうになるのを、口を引き結んで耐える。一筋の光が見えた気がしたのに。どうして……。
「彼女はその資格がない。力には目覚めていますがね。貴女も良く知っている方です、しかし、彼女は幼い時に永遠にその資格を失っています」
「誰、なのでしょうか、どうして」
「それは言えません。大神殿の名誉に関わることですから」
大司教はそうきっぱり告げると、少し視線をずらした。
「時間です。私は行かねばなりません、また質問があればまたの機会に」
「あ、はい。ありがとうございました」
まだ聞きたいことはたくさんあった。
だが、大司教が忙しいことは知っているし、無理を通して良い人物ではない。私が頭を下げると、聖水鏡から大司教の姿が消える。もう当分、話は出来ないだろう。
「……いたんだ。でも、資格はなくなってて、やっぱり、私じゃなきゃだめなんだ」
その場に膝をつき、私は床を眺めた。
疲れていた。
まだ日は高いと言うのに、こんな状態では誰の役にも立てない。頭も痛いし、体が重かった。
休むべきだった。
私は床に手をついて体を起こすと部屋を出た。心配そうな顔をしたオッシュに体調不良を告げてから自室へ向かう。
歩きながら、頭に浮かんだのは勇者と仲間たちの顔だった。彼らに相談したら、一体どんな顔をされるだろう。
きっと驚くだろうな。
そう思うと、口元に苦い笑いが自然と浮かぶ。
不意に、あの旅が懐かしく楽しかったものに思えて、胸がしめつけられるように痛んだ。
勇者の、どこか甘えた優しい声が聞きたいとなぜか思った。あんなに苦しい思いをしたのに、未だにあの姿に惹かれる。
褐色の、闇をたたえた綺麗な瞳を思い出して、私はああとなにかが腑に落ちるのを感じた。
いつも、どこか警戒しているような痛みを秘めたあの目。心に深い傷を負う者特有の、怯えと渇望が見え隠れしていたあの目に、声に、私は救われていたのだ。
愛おしかったのだ。
自室の戸を開け、寝台へ座る。
荒れ狂う感情を静めるために、じっと身じろぎひとつせず両手を組んで祈る。そうしていると、やがて波立った心が静まっていく。
やがて、夕食ができたとオッシュが訪ねてくるまで、私はじっとそうして祈りつづけた。
☆ ☆
気持ちはかなり静まっていたが、それでもザーティフと顔を会わせたくなくて、夕食は部屋でとらせてもらった。心配したティセーラがやってきて、無理しすぎなのだ、ゆっくり休めと笑顔を残して去ると、部屋には何か温かなものが残されたように感じられた。
夜の冷気はかなりきつく、小さな暖炉に薪をくべ、私は小テーブルの上の本を手にした。使いこまれたそれは、神聖呪文をまとめたもの。
神聖呪文は神への祈りの言葉。
ひたむきな人の叫びが詰まったものだ。それを読んでいると、なぐさめられた。
どうしても、朝までにザーティフと会える状態にはなっておきたい。彼の思いには応えられないが、誠実な態度をつらぬきたかった。
静かな時間が流れて行く。
このまま眠れば、きっと大丈夫。そう確信したころ、部屋の戸が何度か叩かれた。ティセーラかオッシュだろう。食器を下げに来てくれたのかもしれない、と思って返事をする。
「はい」
「このような時間にすまないが、少し顔を見せては貰えないだろうか」
その声は、錐が心臓に打ち込まれたような衝撃を私に与えた。すぐに声が出せないでいると、さらに重ねて問われる。
「マールム殿? 本当に大丈夫なのか、入るぞ」
だめ、そう言いかけた時はすでに遅く、彼は戸をあけて室内に足を踏み入れていた。寝台の上で上体だけ起こした体勢で、私はまともにザーティフの顔を見た。
心配していたらしく、眉間にしわが寄っている。
彼はそのまま寝台の近くへ来ると、床に膝をついて手をとる。
手袋をしていない彼の手は温かくざらついていた。彼は私の右手を包み込むように持ち、ぽつりと言った。
「冷たいな。やはり、無理をしていたんだろう。それだけでなく、私のことで気を使わせてしまった。申し訳ない」
「そんなこと……」
戸惑いと混乱で言葉が出て来ない。私はどうしようどうしようと心の中でくり返した。
そんな私の葛藤をよそに、ザーティフは真摯な眼差しで言った。
「これは、提案だと思って聞いて欲しい。確か、貴女はマールム一族の血を絶やさないために結婚しなければならないと言っていたな。
もし、誰も心にいないのなら、私ではだめだろうか?」
一瞬、心臓が止まったように感じた。
「もちろん、すぐに答えをもらおうなどとは思っていない。それに、誰かが心にいるのならそれは仕方がない。
だが、考えておいて欲しい――それすらもおこがましいだろうか」
「いえ……」
そんな訳がない。むしろ、あなたにふさわしくないのは私の方だと感じていたが、彼はそれだけ聞くと安心した様子で立ちあがり、淡く微笑んでみせた。
「夜分に突然失礼した。ただ、顔を見たかっただけなんだ。ではまた」
そう告げると、戸を閉めて出て行ってしまう。規則正しく力強い足音を聞きながら、私はどうしたら良いかわからず、手元の本を撫でた。開いたままのページに目を走らせるも、内容が全く頭に入ってこない。
――心に誰もいないなら。
その答えは、いる、だ。
しかし、決して結ばれるはずのない相手であり、一度は振られてもいる。私が忘れられないだけだった。
だから、いないと答えても嘘にはならない。
今までだって、誰かに言い寄られたことはある。しかし、これほど真っすぐな思いをぶつけられたのは初めてだった。
あれほどの思いを、受け入れないのは罪のようにも思える。
「どうしよう」
誰かと結婚する必要があるのは事実だ。その相手がザーティフであってもいけない理由はない。むしろ好ましい相手とみなされるだろう。
そして私も、彼が嫌いと言うわけではなかった。
しん、と静まりかえった室内の壁を凝視したまま、私は思う。
すぐ近くで、燃え尽きようとしているろうそくが小さな音を立てた。
それを見ながら、ままならぬ感情があふれさせた涙がひとすじ、頬を伝うのを感じつつ、てのひらを握りこむ。
嬉しかったのだ。
差しのべられた手の温もりが、温かかったのだ。
どうしようもなく。
その温もりにすがってしまいたい。
私は両手をぎゅっと胸に押し当てて、首を左右に振った。それはだめだ。それだけはしてはならない。感情の波が治まるのを待ち、私は大きく息を吐きだし、自分の弱さを呪う。
寝台へ倒れこむようにして横になると、目を閉じた。
このまま目覚めなければいいのにと思いながら。