ミロムと真実
水差しの水を洗面器へ注ぎ、顔を洗い、身支度を整える。それから部屋をでて、朝日が差し込む礼拝堂へ向かう。
まだ誰の姿もない。
私は静かに頭を垂れて、今日一日の無事を祈る。
穏やかな時間とゆったり流れて行く日々。外に目を向ければ、白銀の世界が広がっている。
小さな山間の村にある小さな神殿。
ここが、今の私の居場所だ。
☆ ☆
勇者パーティから離脱してから、三か月ほどが経とうとしていた。
あの後、大神殿に戻った私は、待ちかまえていた案内の僧侶に連れて行かれた応接室で早速大司教と面会し、離脱の理由を教えられた。
「ミルズの村、ですか?」
「そうです。貴女にはその村の小神殿の常駐僧侶となってもらい、あるものの世話をしてもらうことになります」
この言葉に私は驚いた。自分に与えられた新たな任務にではない。
「村、ですか。村に小神殿があるのですか?」
各地に点在している神殿は、基本的に大神殿が管理し、維持している。当然、そのためにはお金がかかる。それゆえに、僧侶が常駐する小神殿は寄進が多く集まる場所に集中して建てられていた。お金が集まる場所とはつまり、人が多いところ。都市や中規模程度の町などである。
小さな村には、礼拝と連絡のための祠があり、近くの神殿の僧侶が時折訪れては補修したり、村人の話を聞いたりしてはいる。
「ええ、その村は特別なのですよ。
元々は村ではなく、ある一族が暮らしていた場所でしてね、かつては人も多く暮らしていた。神殿はその当時のまま残されているのです」
「ですが、そういった神殿は費用の面から取り壊されたものが多いと聞きました。なぜ特別なのですか?」
「ミルズの村には、ミロムの木があるのですよ」
私は思わず絶句した。
かつて勇者に語った不思議な実。その実を口にすれば、あまりの美味に昇天するという伝説の果実。それは彼によって、ほんのわずか前にその約束を思い出させられたばかりだった。
「じ、実在していたのですか?」
「ほう、やはり知っていましたか。知らない者の方が多いはずなのですが、勉強家なのですね、貴女は」
目を細めた大司教は、満足そうに何度も頷いて話をつづけた。
「これは長く秘匿されてきたことなのですが、その木は神が我らに授けた特別なものなんですよ。これまではずっと、ある一族が管理してきました。 彼らは総じて美しく、空と大地の色を持っていた。彼らは長くミルズの領主として暮らしていたが、決して民を傷つけることも搾取することもなく愛されていたといいます」
大司教はそこで一息ついて、ぬるくなってしまったお茶を手にするとすすった。私は何かを口にする気にはなれず、濃い褐色のお茶の表面が揺れるのを見る。
「彼らの一番大切な役目はミロムの木の管理でした。ミロムは、その実が必要とならない限り花ですら咲かせることはありません。
そして、必要となったら実をつける。ただし、この実に触れられるのは管理者一族のみであり、それ以外の者が触れればたちまち消えてしまうんです」
ゆっくりと語られる内容に、私は表情を強張らせた。なんとなく、大司教の言いたいことが見えてきたからだ。
もし、私の予想が当たっているとしたら……。
「今その管理者たちはどうしているのですか?」
大司教はすぐに応えなかった。しばらくこちらを品定めするように見て、黙りこむ。私は意志を瞳にこめて見返した。それを確認してから、大司教は口を開く。
「殺されてしまいました。今回襲ってきた魔族たちは、まずまっ先に彼らを狙った。何とか逃げのびた者たちも、執拗に追われて殺されました。彼らはミロムの管理者というだけではなく、優秀な神聖呪文の使い手でもありましたからね。特に、我らにはないほど強い浄化の力を持っていたから、魔族たちにとっては彼らこそ脅威だった。だからこそまっ先に狙われたのだと思っています」
それを聞いて、私は自分の考えが間違っているかもしれないと思った。しかし、それは早とちりだった。
「彼ら一族の名前はマールム。ミロムの管理者という意味です」
「……まさか」
声は掠れていた。驚愕した顔で大司教を見た私に、頷きがひとつ返って来る。脳裏に各地を放浪した子ども時代が浮かぶ。ああして常に移動していたのは、魔族から逃れるためだったのだ。
そして、魔人たちに襲われたのも恐らくそれが理由だったのだ。
「そう、君がその管理者一族の最後の生き残りなんですよ。家族を殺されてここへ連れて来られた貴女を見てすぐにわかりました。その髪の色と目の色、容姿。全てが彼らを示していましたからね」
「それなら、どうして私だけ……?」
「貴女はまだマールム一族としての力を覚醒させていなかった。だからこそ、魔族も見落としてしまったのでしょう。しかし、少し前にその兆候が見えました。これ以上、最も危険な場所に置いておく訳にはいかなくなったのです。それが、君を勇者パーティから離脱させた理由です」
突然のことに頭が混乱していた。
何か言わなければと思うのに、そうだったんですかという小さな声しか出ない。
大司教はそんな私にお構いなく話を進めて行く。
「もう一つは、四滅将ヴェレクトですよ。よりによって厄介な魔族に目をつけられてしまいました。貴女は決して失われてはならない存在です。ましてや魔族の操り人形など断じて許されない。それを防ぐには、ミロムの側にいた方が良いでしょう。あの聖木には魔王ですら容易には近づけないですからね、もし現れた時は村人ともにミロムの側へ避難すると良いでしょう」
「わ、わかりました」
そんなにすごい木なのか、と思いながらなんとか頷く。
「そしてもう一つ。勇者が魔王を倒して魔族を滅ぼしたあと、貴女には再びミルズの領主になってもらわねばなりません。そして結婚し、子孫を残してもらう必要があるのです。
もし、誰か気になっている人物がいたら、気を使わないで教えてください。その人物はこちらで調査し、必要なら護衛を派遣しますから」
またしても私は絶句した。
今日は一体どれだけ衝撃を受ければいいのだろう。感情が全く追いついていかない。しかし、もう勘弁してほしいなどと大司教に向かって言えるわけもなく、私は混乱したまま頷いた。
「は、はい」
「それでは、早速ミルズの村へ向かってください。あそこはシュロヴァス王国の領土なので、近くの大きな街のゲートを使って行けば早いでしょう。こちらで護衛の僧侶も何人かつけますから、彼らと共に向かってください。ついたら聖水鏡で連絡すること、良いですか?」
「わかりました」
これで話は終了という雰囲気に、私は立ち上がって礼をしてからきびすを返す。が、出入り口にさしかかったとき、ふと疑問を覚えた。
それほど大切なミロムの実は、一体どういう目的で使われるのだろう。問おうとして振り返りかけた私に、待っていたらしき壮年の僧侶が声を掛けてきた。
「それでは参りましょう」
「え、はい」
何となく、待って欲しいというのもはばかられ、結局実の用途について聞くことはできなかった。
私はそのまま壮年の僧侶とともに大神殿内のゲートへ向かい、さらに待っていた女性僧侶と厳つい僧兵と合流し、挨拶を交わすとゲートを見る。
ゲートは屋外に造られた屋根と柱だけて構成された建物のなかにある。階段を上って屋根をくぐると、床に渦を巻く神の力があり、行き先を告げてくぐれば目的のゲートへと出る仕組みだ。
私は大司教から告げられた街の名前を口にしてから、ゲートに足を踏み入れた。