思いの交錯する夜
開けるベきか、開けざるべきか。
私は一拍悩んでから、再び響いたノックに、諦めたように肩をすくめた。戸をゆっくり開けると、やはり勇者が困惑した表情で立っていた。
私は苦笑しつつ、ややおどけて言った。
「もう添い寝役は断ったはずですけど」
「えっ、ああ……いや、そういう話じゃないよ。単に、ちょっとだけ話したくて、部屋の中でふたりきりってのが嫌なら、外に出ないか? それとも、話もだめ?」
うかがうような様子に、私は少しだけ間を置くと告げる。
「話だけなら構いませんよ……じゃあ、外に出ましょうか」
「良かった。じゃあ一階の談話席に行こうか」
言うなり、彼は背を向けて歩きだす。私は部屋を出て戸をきっちりと締めると、後に続いた。流石に外は寒いので、彼の申し出はありがたかった。外から入り込む微かなざわめき以外の音はせず、室内は暗く静かだった。
やがて、談話室へ辿りつくと、テーブルに置かれた魔法の明かりが灯るランプを起動させる。優しい橙色の光が室内に広がり、外の様子が窓から見えた。
勇者が窓辺の椅子に掛けたので、私もその対面に座る。
しばらくは沈黙が私たちを包んだ。
「……あの、とにかく最初に一言言っておきたくて……ごめん」
「何ですか突然?」
「いや、ほら……最初に会ったときに、俺ひどいこと言っただろう。あれ、ずっと取り消したいなとは思っていたんだけど、何て言うか、勝手に決め付けてたから」
「ああ、私の過去の話を聞いたからですね。別にいいんですよ……誰だって、良く知らない他人のことはわからないし、知っていたとしても自分の問題で手いっぱいの時は他人まで気づかえるものじゃありませんしね」
そう言うと、勇者は黙ってしまった。
私は、彼と会った時に掛けられた「幸せに生きてきたお姉さんにはわからないだろうけどさ」という言葉を思い出した。正直、あれは結構堪えたので覚えている。そんなに幸せそうに見えたのだろうか、と悩んでしまったものだ。
「……あ~あ、何でリフィエはいつもそうなんだろ。だからつい甘えちゃうんだろうな、少しくらいのことは許してくれるんじゃないかってさ」
勇者はため息をつくと立ち上がり、お茶が用意された台へ向かう。有料だが、自由に温かいものが飲めるようになっているのだ。茶葉は銅貨を入れないと出ない仕組みになっているが、水とお湯だけは自由に使うことが出来た。
「私がやりますよ」
「いいから座ってて。こう見えてもお茶を淹れるのは上手いんだ」
彼は何やらゴソゴソと動き回り、腰を浮かせた状態で固まった私の前に、湯気をたてる美味しそうなお茶を持ってきた。それは香りをつけたお茶で、少し値のはるものだった。椅子に座りなおした彼は、それをひとすすりすると満足そうに頷く。私もひと口貰った。本当に美味しかった。
「美味しいです、意外な特技があったんですね」
「まあね。俺が唯一自慢出来る特技だと思う……俺が今持ってる力ってさ、本当の俺の力って訳じゃないし、この顔だって、両親のお陰な訳だし」
「謙虚ですね、何かあったんですか?」
「いや、ずっとそう思ってたから。俺だって男だし、皆にここまで好きだと言ってもらえて嬉しいさ、ある意味男の夢な訳だから。だけど、重荷に思うこともある」
通りを行く男女や旅人を見ながら、勇者は語る。その横顔が、ふいに大人びたように思えて、私は少し嬉しくなった。来たばかりの頃は、まだまだ幼さがあった。それもまた魅力だったのだろうが、いつかは彼ももっと大人になるのだ。
どこか甘さのある切れ長な瞳に浮かんでいるのは、硬質な光だ。
それまでの稚気に満ちたものとは隔絶された雰囲気が、今の彼にはあった。
「聞いてみたいとは思ってたんだけど、何か言ったら今の中途半端で楽な関係が壊れそうで、聞けなかった。でも、聞いてみたい。リフィエ、どうして皆こんな俺を好きだって言ってくれるんだろう? 顔? 持ってる能力? ……今日のサーミュの話、結構きつかったんだよね、何か、やっぱりそういうものなのかなって」
「そういうもの……? あの隊長よりいい男を恋人にして、見返してやるという話ですか?」
「そう、それ。しかも皆して俺は合格だとかそういう……俺にそこまでの価値なんかないっていう気持ちと、やっぱりステイタスって言うか、持ってるもので判断されるんだなって思うと、苛々するんだ。
たけど、そうやって評価されるのを喜んでる自分もいるんだよな。だから頭の中ぐちゃぐちゃでさ、どう考えたらいいのかわからなくなっちゃったんだ。それを、リフィエに聞いて貰いたくてさ、俺、どう考えていったらいいと思う?」
今度は真っ直ぐに私を見て問うてくる。
私はもうひと口お茶をすすり、どう答えたら良いのか悩んだ。恐らく、サーミュたちは心から勇者を慕っている。これについては疑う余地はない。その想いの中に、彼の持つ勇者としての力や、綺麗に整った顔立ちなどが含まれているのも事実だ。
ただ、意外だったのが、彼が感じている劣等感だった。
「貴方には彼女たちに評価されるだけの価値があります。大体、いくら能力を豊富に与えられたからと言っても、魔王に挑むからには常に戦いがつきまといますよね、同時に、死ぬことも……死ぬかもしれないというのは凄まじい恐怖でしょう? それを受け入れてこうして旅をしつづけている時点で、もう貴方は立派に勇者なんですよ」
「……そう、なの、かな」
「そうです。そうやって何かを犠牲にして手に入れたもので評価されることの何が悪いんですか? それだけじゃなくて、貴方はとても優しい……彼女たちもそんな貴方だから好きだと言って一緒に旅をして、危険な場所にも同行してくれるんじゃありませんか」
言葉を重ねるうちに、勇者の顔が苦しげなものから明るいものへと変化していくのを見て、私はきちんと言いたいことが伝わったのだな、と思った。
それがただ嬉しかった。
「やっぱり……リフィエは凄い人だね、ありがとう」
「どういたしまして」
「……あのさ、どうしても残ってくれる訳にはいかない? 俺は……」
真摯な瞳がこちらを向いて訴えかける。私は、口もとに微かな笑みを浮かべた。
「それ以上はなしですよ、貴方は私に死んで欲しいんですか?」
「それは絶対に嫌だ」
「なら、諦めてください。それに、相談だったらレフィセーレ様も得意ですよ? これからは彼女を頼るようにしてください。それが一番なんですから」
それがきっと最良なのだ。
「そうかな……フィセルは、リフィエとは違うと思う」
「え?」
「真っ直ぐだけど、柔軟さには欠けてる気がするんだ。だから、彼女じゃなくて、リフィエに相談したんだ。フィセルだけじゃなくて、サーミュも、ツィーラも、ウェティーナも、リフィエほどちゃんと話を聞いてはくれないし、話相手が納得出来る答えも言ってくれないよ。俺さ、リフィエがそんな風に誰かの話を聞けるのって、きっと過去のことが関係しているんだろうなって思ったんだ」
「……そう、かもしれませんね」
あの事件は、私の中の何かを大きく変えた。変えざるを得なかった。それまで見てきた世界と、あれ以降の世界は全く違うものとしてこの目に映ったのだ。
一番わかりやすい表現をするなら、色彩が消えたようなものだった。
「そうだよ……さて、もう休まないとな。話聞いてくれてありがとう」
「いいえ、私こそ美味しいお茶をありがとうございます」
そう言うと、勇者は目を細めて少しだけ寂しそうに笑った。
「気に入って貰えたなら俺も嬉しいよ」
そう言って、彼は部屋へと戻って行った。
その背中を眺めると、華奢だった頃を思い出す。随分とたくましくなったものだ、彼がああなるまで、私は良き支えとなれていただろうか。先ほどの言葉を信じるならば、きっと出来ていたはずだ。
ああ――良かった。
初めてそう思えた。
この旅に途中まででも同行出来て、本当に良かった。私は心からそう感じた。