魔法使い絶対に失格
夕暮れが、塔の窓から、蜂蜜のような色になって流れ込んでくる。私はその光の中に、ひとり、腰をかけ、膝を抱えていた。膝というものを、こんなに大切に抱える日が来るなんて——十七歳の私は、思いもしなかった。
私は、シャーレ。十七歳。
そう名乗ると、みんな、少しだけ、目をそらす。笑いはしない。笑うのは失礼だと、みんな知っているから。でも、目は、そらす。だから私は、もう、名乗らないことにしている。
魔法使いの国に生まれて、十七年目の春を、私はもう何十年も、迎えていない。
膝の上に、銀色のステッキを置く。かつては私の手のひらにぴったりと収まっていたそれは、いまでは枯れ枝のような指の下で、やけに冷たく、やけに、大きい。杖の先のレモン色の石は、もう光らない。灯りを、忘れてしまったみたいに。
窓の外では、若い魔法使いたちが、ほうきに乗って、丘の向こうへ飛んでいく。はしゃいだ声が、風に溶けて、届く。あの子たちの中に、私がいる。あの子たちの背中のどこかに、確かに、私がいる。
……話そう。若かった頃の話を。
それは遠い日のことだ。けれど、私の時間は、あの夜で止まったままだから。だから私にとっては、これは、昨日の話なのだ。
第一章 平凡という名の、宝物
私の家は、よくある、平凡な魔法使い一家だった。
父も母も魔法使いで、それも、偉い魔法使いではなかった。父は、町の役場の帳簿を、魔法で少しだけ早く片づけるのが仕事だった。母は、傷んだ魔法陣の目を、針で縫って直す仕事をしていた。地味な手仕事だ。でも母の縫った陣は、誰よりも長持ちすると、町の人が言っていた。
母は、五十歳だった。
——そう。いま、私の両親は、五十歳だ。あの夜から、彼らはほとんど年を取っていない。娘の私が、彼らを追い越し、追い越し、はるか先まで歩いてしまったのに、彼らはまだ五十歳のままで、私を、「シャーレ」と、娘の名前で呼ぶ。その声が、いちばん、つらい。
それは、あとで話そう。
私は、よくある平凡な魔法使い一家で育った。魔法の勉強をして、絵を描いてみたり、服を作ってみたり、銀色のステッキを、よく愛用していた。
ステッキは、母方の祖母がくれたものだ。祖母は、それを私の手に握らせて、皺だらけの手で、私の指を一本ずつ、確かめるように触った。
「あんたは、指先が優しい。優しい指は、杖を持っても、誰かを傷つけない。……いい杖になるよ」
私は、その言葉を、信じていた。信じていた、と、いまでも思う。信じていたからこそ、あの夜、私は、杖を、振ってしまったのだ。
魔法の勉強は、楽しかった。とくに、物を描く魔法が好きだった。空中に描いた線が、少しのあいだ、本物になる。私はよく、教室の窓から見える山を描いた。雪の線、雲の線、光の線。線は、描いたそばから、風に消えていく。消えていくのが、きれいだった。
服を作るのも好きだった。母の仕事場の隅で、端切れを縫い合わせて、人形の服を作った。魔法の刺繍は、下手だった。でも、下手なりに、私は、針を持つ時間が、好きだった。
「シャーレは、器用だねえ」
母が、隣で笑う。私は、そういう、ありふれた夕方を、宝物みたいに、覚えている。
「母さん、これ、レモン色にできる?」
「レモン色?」
「うん。レモン色がいいの」
母は、少し首をかしげて、それから、笑った。
「あんた、また、あの子たちの話?」
「……だって、かわいいんだもん」
そう。あの頃の私は、レモン色に、恋をしていた。
魔法使いには、アイドルがいる。
いまも、いる。丘の向こうの街には大きな劇場があって、そこでは、若い魔法使いたちが、光の階段をのぼって、歌う。観客の杖が、いっせいに、小さな花火になる。あれは、きれいだ。
私が夢中になったのは、魔法使いのアイドルだった。魔法使い学校のアイドルにも、ハマったことがあるし、目指していたことも、ある。友だちと、鏡の前で、振り付けの練習をした。杖を、こう、回して、こう。……いま思えば、あの振り付けは、ひどく、下手くそだった。
そして、いちばん好きだったのが、魔法少女五人組——「魔法少女グループ・レモン」だった。
五人だった。リーダーの子は、レモン色の髪をしていた。歌が、じょうずだった。五人の名前を、私は、ぜんぶ言える。言えるけれど、いま、ここで言うと、胸が、痛い。だから、心の中でだけ、呼ぶことにする。
私は、ファンレターを書いた。
手紙は、三枚になった。魔法のインクで書いたから、封筒の中でも、ほんのり、光っていた。書きすぎて、いちばん大事な一文が、どこかへ行ってしまいそうで、何度も、書き直した。
「私は、まだ、魔法使い一人前じゃありません。でも、いつか、あなたたちみたいになりたいです」
——返事は、来ないと思っていた。
来たのだ。
封筒には、レモン色の、小さな花の印が押してあった。開けた瞬間、ほのかに、柑橘の匂いがした。あの匂いを、私は、いまでも、覚えている。
手紙には、こう書いてあった。
『応援ありがとう。アナタも、魔法使い一人前になるように、頑張ってね。』
私は、その一文を、何十回も、読んだ。読むたびに、指先が、あたたかくなった。うそみたいに、あたたかくなった。
「シャーレ、そんなに読んだら、紙が、すり切れるよ」
母が、笑った。父が、横から、のぞき込んで、うんうん、とうなずいた。
「いい返事だ。……いい手紙だな」
「ねえ、父さん。私、アイドルになれるかな」
「なれるさ」
父は、即答した。即答する、父だった。その即答が、あの頃の私には、世界のぜんぶを、味方につけたような気に、させてくれた。
人生は、うまくいっていた。ほんとうに、うまくいっていたのだ。
あの、事件さえなければ。
それは、古い、魔法の失敗だった。誰かが、昔、禁じられた呪いを、この土地に捨てていった。捨てられた呪いは、土の中で、眠っていた。眠っていたものが、冬の冷たさで、目を、覚ましてしまった。
しかし、それも序ノ口しか過ぎなかった。
……ちがう。その夜、私が、思い出したのは、もっと、古い、禁じられた講義だった。
「時の返し」。
呪いを、呪いごと、時間のほうへ、押し戻す魔法。傷ついた体を、傷つく前の時間へ、返す魔法。
講師は、言っていた。「この術は、使ってはならない。代価は、術者の時間だ。返す分の時間を、術者が、差し出す。……若さを、差し出すのだ」
私は、十七歳だった。時間を差し出すとは、どういうことか、よく、わかっていなかった。
わかっていなかった、から。
杖を、振った。
杖が動かない…。
事件は、複雑化して、起こった。
体あちこちが、痛むから、魔法鏡でみてみると、老婆になっていた。
足の裏から、熱が、抜けていく。指の先が、しわになる。私の髪が、根元から、白くなっていく音を、私は、聞いた。聞こえたのだ。しゅう、しゅう、と、灯りが消えるような音だった。
世界が、ゆっくりと、遠くなった。
気がついた時は、朝になっていた…。
私は、ベッドの上で、目を覚ました。天井が、遠かった。……ちがう。天井は、遠くなかった。私の体が、縮んでいた。小さく、軽く、そして、硬くなって、いた。
腕を、見た。
しわがあった。骨が、浮いていた。爪は、黄色く、濁っていた。
私は、叫んだ。叫ぼうとした。出たのは、かすれた、他人の声だった。しわがれた、老人の声だった。
母が、走ってきた。父が、走ってきた。
二人は、私を見て、立ち止まった。
「……どなた、ですか」
母が、言った。母は、五十歳の顔で、私を見た。私を、知らない人の顔で、見た。
「母さん。私。シャーレ」
母の顔が、ゆがんだ。
その瞬間を、私は、何十年も、忘れられない。母は、私を、抱きしめた。抱きしめて、泣いた。父も、泣いた。五十歳の両親が、皺だらけの娘を、はさんで、泣いた。
「シャーレ……シャーレ……!」
「どうして。どうして、こんな……」
私は、言えなかった。言えば、あの子が、また、呪いに掴まれる気が、した。だから、言わなかった。
医者も、学者も、来た。魔法の医者も、来た。みんな、首を、かしげた。
「若さが、抜けておる。時間が、抜けておる。……こんな術を、この子が、ひとりで、使ったのか」
その夜、私は、鏡の前に、立った。立てなかった。立つのに、時間が、かかった。
鏡の中に、老婆が、いた。十七歳の、老婆が、いた。
私は、その老婆に、言った。
「……あなたは、だれ」
老婆は、答えなかった。ただ、涙を、こぼした。
第五章 若い日の、終わり
それから、町の時間は、進んだ。私の時間だけが、進まなかった。
いや——正確に言えば、私の時間も、進んだ。けれど、私の体は、十七歳の春で、止まったまま、老いていった。時間を差し出した人間は、時間の外に、置かれる。私は、時間の外から、世界が歩いていくのを、見ている
両親は、私を、家に、置いた。世話を、した。母は、いまも、私の髪を、とかしてくれる。父は、いまも、私のための椅子を、作ってくれる。二人は、五十歳のままだ。私が七十を越えたあたりから、町の人は、私たちを、「親子」ではなく、「三人の老人」と、呼ぶようになった。
それでも、父は、言う。
「シャーレは、うちの娘だ」
母は、言う。
「あんたの指は、まだ、優しいよ」
私は、その言葉を、聞くたびに、心の中で、叫ぶ。
——あの事件さえなければ。
——あの事件さえなければ、私は、いまごろ、二十七歳で、三十七歳で、もしかしたら、あのレモン色の舞台の、袖に、立っていたかもしれないのに。
——若いままの、私で、いたのに。
私は、何度も、あの夜を、夢に見た。夢の中で、私は、何度も、杖を、振る。何度も、同じ結果になる。夢の中で、私は、何度も、叫ぶ。「トトを、助けて! 私の時間なんて、いらない!」
……目が覚めると、私は、しわだらけの手で、枕を、握っている。
後悔は、していない。後悔は、していないのだ。ただ、さびしい。後悔と、さびしさは、ちがう。
いま、私は、窓辺にいる。レモン色の石は、光らない。それでも私は、ステッキを、手放さない。手放したら、あの夜が、なかったことになりそうで、こわいのだ。
机の上に、古い手紙がある。すり切れた、三枚の紙。それと、レモン色の花の印が押された、返事の手紙。
『応援ありがとう。アナタも、魔法使い一人前になるように、頑張ってね。』
私は、いまでも、それを、読む。しわだらけの指で、なぞる。文字は、あたたかい。あの日と、同じだけ、あたたかい。
私は、思う。私は、魔法使い一人前に、なれただろうか。
あの夜、私は、時間を、差し出した。若さを、差し出した。その代わりに、私は、ひとつの命を、受け取った。……それは、たぶん、とても、いい取引だったのだ。そう、思うことにしている。思わないと、やっていけないから。
だから、私は、今日も、書く。手紙を、書く。
宛先は、決まっていない。レモン色の、誰か。まだ、生まれていない、誰か。いつか、時間を差し出してしまう、どこかの、十七歳の、誰か。
書き出しは、こうだ。
「私は、シャーレ。十七歳です」
……そう書いて、私は、少し、笑う。それから、続ける。
「私は、よくある平凡な、魔法使い一家で育ちました。魔法の勉強をして、絵を描いてみたり、服を作ってみたり、銀色のステッキを、よく愛用していました」
窓の外で、若い魔法使いたちが、丘の向こうへ、飛んでいく。風が、レモン色の匂いを、運んでくる。気のせいだと、思う。けれど、気のせいでも、いい。
私は、ペンを、置く。杖を、握る。杖は、まだ、冷たい。それでも、私の指は、まだ、優しい。
——優しい指は、杖を持っても、誰かを、傷つけない。
祖母の言葉を、私は、いまでも、信じている。
信じているから、私は、この杖を、離さない。いつか、このレモン色の石が、もう一度、光る日のために。




