何故、教育なさいませんの?
間違えて連載で登録してしまったので、遅ればせながら短編で再登録しました。
シャウアー侯爵家の応接室に通されたマルグリット・エレオノーレ・フォン・ローゼンハインは、静かに紅茶に口を付けた。
間もなく扉が開き、婚約者であるグスタフ・トビアス・フォン・シャウアーが姿を現す。その顔には、以前なら来客の前で決して見せなかった、露骨な不機嫌さが浮かんでいた。
(変わってしまわれたわね)
幼いころから知る彼は、侯爵家嫡男に相応しい振舞が身についていた。当然、感情を表に出すこともなかった。それが今では感情を隠そうともしない。否、隠せなくなっているのかもしれない。平民の少女との恋が、彼を変えてしまったのだろう。
「何の用だ。僕は忙しい」
「ニコラ・キルシュさんとの逢瀬に?」
グスタフの顔色が変わる。彼女のことは隠しているはずだったのに何故マルグリットが知っているのだ、と焦っていることが表情に表れてしまっている。
「お前、ニコラに何かしたのか」
短絡的思考、言葉遣い。全てが嘗ての彼とは違う。恋とはここまで人を愚かに変えてしまうのか。
「いいえ。ただ、貴方が平民の女性を寵愛していると知りましたので、お相手がどのような方か調べただけですわ」
マルグリットは穏やかに続ける。
「お仕事先の食堂では看板娘だそうですわね。明るく朗らかで、誰からも好かれているとか」
「そうだ!」
グスタフは胸を張った。そして愛しい少女のことを自慢げに語った。貴族女性には何の意味もない誉め言葉を。
「貴様と違ってよく笑い、よく泣き、時には怒る! 本当に人間味のある愛らしい女性だ!」
「左様ですか。平民ですもの。政敵に弱みを見せぬよう感情を微笑みで隠す必要はございませんものね」
皮肉にも聞こえるマルグリットの言葉に、グスタフは眉を顰める。
「お前は平民を見下しているんだ」
「いいえ」
余りにも即座の否定だった。
「寧ろ、逆ですわ」
グスタフは目を瞬かせる。
「笑い、泣き、怒り、己の感情に正直に生き、恋をして、家庭を築く。羨ましい限りですわ。わたくしたちには許されぬことです」
「……何を言っている」
「そんな感情豊かなニコラさんを愛しておられるのなら、侯爵夫人になさってはいけませんわ」
マルグリットの目は真剣で、憐れみを懐き、何処か優しいものだった。
「……貴様が僕の正妻になりたいだけだろう」
「いいえ、全く。元々両家の領地が近隣で歳が近いからという理由で選ばれた婚約ですもの。恋愛感情が前提ではありませんし、無理に結婚したいとまでは思いませんわ。愛人を持つ方など真っ平。ですから、婚約解消しても構いませんのよ。父からも話次第では解消してもよいと言われておりますし」
「え……?」
「お尋ねするまでもない気もいたしますが、ニコラさんをどうなさるおつもり?」
「結婚するに決まっているだろう!」
「左様ですか。では後ほど、婚約解消に関する書類を手配いたしますわね」
「は……?」
てっきり不貞を咎められるのだと思っていた。しかし、マルグリットは婚約を解消するという。自分がニコラと結婚することを認めるというのだろうか。もっと泣きつかれると思っていた。もっと怒ると思っていた。しかし彼女はあまりにも静かで、グスタフは拍子抜けした。
「あとは貴方がどうなさろうがご自由ですが……老婆心ながら申し上げますわ。感情表現が豊かなニコラさんを愛するのであれば、愛妾として囲うか、貴方が身分をお捨てなさいませ」
「は!? 何故そうなる」
「あら、ニコラさんを侯爵夫人になさるおつもりなの?」
呆れたようにマルグリットはグスタフを見遣る。身分差が何を齎すのか以前の彼ならば理解していたはずなのに、恋に溺れて忘れてしまっているようだ。
「当たり前だろう! 僕は家を継ぎ、ニコラは侯爵夫人になるんだ。そして子に恵まれ幸せに暮らすに決まっているだろう!」
夢物語だとマルグリットは呆れた。では、ここである程度グスタフの目を覚まさなければならない。でなければ、ニコラは不幸になるし、シャウアー侯爵家は社交界で笑いものになる。派閥の有力貴族がそんなことになっては勢力図に混乱が生じてしまう。同派閥ではないとはいえ、関係は悪くない。だから影響を受けかねない。
「侯爵夫人ですか……。では、食堂にお勤めなら、注文を取ったり会計なさったりするから、文字の読み書きと計算はお出来になりますよね?」
「……文字の読み書きは基礎的なものだけだ。計算も加算と減算を4桁くらいまでだな」
「……貴族の夫人であれば、単に文字を書くだけではなく、飾り文字も必須ですわよ。招待状に使いますし」
招待状などの文面は侍女の代筆でも問題ないが、署名だけは夫人の直筆である必要がある。
「お名前だけでも、書けるようになさったほうがいいわ。本当に侯爵夫人になるのであれば」
文字一つとっても、貴族と平民では違うのだ。
「それから、お言葉遣いも直す必要があるでしょうね。グスタフ、貴方、自分の言葉遣いが貴族らしからぬものになっているのに気付いていて?」
「は? 何処がだ」
「……気付いてないのね」
マルグリットは溜息をつく。ニコラと恋をして、平民に混じるようになって、彼は随分変わってしまった。
「ともかく、正妻になさるのなら、まずは教育が必要ですわよ」
「教育?」
今一つピンと来ていないグスタフに、マルグリットは内心溜息をつく。本当はこんな助言をしてやる必要はない。けれど、長年婚約者だったグスタフには情もあるし不幸になってほしいわけではない。それはニコラに対しても同じだ。身分違いを乗り越える恋の出来るニコラのことを羨ましくも思う。だから、出来れば幸せになってほしい。
「ニコラさんを今日、この屋敷に連れてきたとしましょう」
グスタフは想像する。はしゃぐニコラが目に浮かぶ。
「ご両親は、ニコラさんを受け入れられますか?」
当然だと言おうとして、声にならなかった。ニコラの普段の振舞を見て、母は眉を顰めるのではないか。
「御弟妹は?」
弟はともかく、妹も拒絶しそうだ。何しろマルグリットに憧れているのだから。
「執事長や侍女長は?」
「……」
「使用人たちは?」
「……」
グスタフは口を開けない。
「一時期の恋人としてなら、受け入れてくださるかもしれません」
マルグリットは続ける。
「ですが、将来の侯爵夫人としてはどうでしょう」
その言葉が重く落ちた。
「そんなもの、身分なんて関係ない!」
グスタフは反論した。
「ええ」
マルグリットは微笑む。
「貴方のお気持ちには関係ありません。ですが、お家には重要なことです」
静かな言葉だった。けれど、だからこそ重い。
「侯爵家は貴方一人のものではありません。先祖から受け継ぎ、家臣に支えられ、領民の生活を預かり、未来の子孫へと繋ぐ家です。その当主夫人とは、恋人ではありません。共同経営者です」
グスタフは再び言葉を失った。
「ニコラさんは、そのことを理解されていますか?」
「……」
「侯爵夫人とは何をする立場か、ご存じですか?」
「……」
「社交とは何のためにあるか、ご存じですか?」
「……」
何一つ答えられない。ニコラは平民なのだ。貴族がどういうものか解らなくても当然ではないか。
「ニコラさんはきっと」
マルグリットは優しく言った。何処か言い聞かせるような声音で。
「侯爵夫人になることとは、貴方と結婚して一緒に暮らすことだと思っていらっしゃるのでしょう」
その言葉が胸に刺さった。そうだ、以前ニコラは笑いながら言っていた。
『毎日一緒に寝て、一緒に起きて、一緒にご飯食べて、偶に散歩したり、買い物行ったり、子供も出来て。そんな生活になるんだよね。貴族だから家事しなくていいんだよね? お料理は好きだけど、掃除や洗濯は嫌いだから助かるなー』
あの時は自分も笑って頷いた。頷いてしまった。だから、侯爵夫人とはそんなものだと思わせてしまった。いや、自分も考えていなかった。
「違うのか?」
グスタフは思わず尋ねた。
「貴方、お母様の何を見ていらしたの」
マルグリットの声は明らかな呆れを含んでいた。
「夫人の役割は多いのよ。執事や侍女長、メイド頭との打ち合わせ、使用人の管理、招待状の確認、贈答品の選定、夫人同士の社交、慈善活動、夜会、夫の補佐、他家との関係調整、子女の教育。全て夫人が差配するものよ」
「……母上が、普段なさっているのだな」
「それに……貴方のお家だと、使用人は基本皆貴族の子女よね。下働きの一部に平民がいる程度かしら。そうすると、使用人たちはちゃんとニコラさんの命令を聞くかしら?」
「……あ」
「まぁ、正式にあなたの妻となれば、表面上は従うでしょうね。こちらの使用人の教育は確りしているから」
「そうなのか」
「ええ。家内はいいとして。問題は外」
「外?」
「そう、社交界。笑っていても敵、微笑んでいても敵、褒めていても敵、心配していても敵。そんな世界です」
グスタフは息を呑む。
「社交界は戦場ですわ。勿論、貴方もご存じでしょう」
勿論知っている。幼いころから社交術を叩きこまれ、言質を取られぬよう、揚げ足を取られぬよう、訓練してきた。
「女同士はもっと苛烈ですわよ。殿方は政治の世界で競うから、社交界ではそこまでではないもの。でも、女性同士だと、一つ失敗すれば終わりますわね。例えば」
マルグリットは指を折る。
「歯を見せて笑えば、下品だと嘲われます。声を立てて笑うと、品がないと噂されます。涙を流せば覚悟のない女だと見限られます。嫌いな相手を睨んだりすれば、感情を制御できない愚か者と判断されます。それが現実です」
グスタフは思い浮かべる。ニコラの笑顔。豪快に笑う姿。
(全部……)
全部、攻撃されるのか。
「だから」
マルグリットは穏やかに言う。
「感情を消せとは申しません。公の場だけでも仮面を被ることを教えて差し上げてください。家族の前では笑えばよろしい。夫の前で泣けばよろしい。心から信頼する友人の前では怒ればよろしい。けれど、社交界だけでは仮面を被るのです」
グスタフは思わず尋ねた。
「……君も我慢していたのか。」
「勿論ですわ。」
彼女は少しだけ笑った。
「わたくしだって笑いますし、泣きますし、怒ります。家族の前では。親しい友人の前では。以前は……」
そこで少しだけ視線を伏せる。
「貴方の前でも」
思い返す。子どもの頃マルグリットはよく笑っていた。一緒に木登りをして叱られ、転んで泣いて、自分と喧嘩もした。
いつからだろう。彼女は完璧な侯爵令嬢になった。いや、違う。自分が距離を置いたのだ。婚約者としてではなく、一人の女性として見られなくなった頃から。彼女もまた仮面を被った。
「僕が……」
「隔意を示されましたもの」
責める口調ではなかった。
「わたくしも婚約者として振る舞っただけです」
グスタフは言葉を失う。彼女は嫉妬していたわけではない。怒っていたわけでもない。ただ現実を話しているだけだった。
「……僕は」
絞り出すように言う。
「何も考えていなかった」
ニコラを幸せにしたい。それしか考えていなかった。幸せとは一緒に暮らすことだと思っていた。
しかし、その先には侯爵家がある。社交界がある。貴族社会がある。そして。誰よりも傷つくのはニコラ自身なのだ。
「彼女は……」
震える声で呟く。
「耐えられないかもしれない」
「ええ」
マルグリットは静かにうなずいた。
「それでも迎えたいのであれば貴方自身が盾となり、数年かけて学ばせ、養女先を探し、味方を作り、彼女が独り立ちできるまで支える。それが彼女を妻に迎える覚悟です」
応接室に静寂が落ちる。グスタフは長く俯いたままだった。ようやく顔を上げた時、その表情から先ほどまでの勢いは消えていた。
「……ありがとう」
その一言は、心からのものだった。
「初めて知った。誰も教えてくれなかった。……いや」
彼は苦笑する。
「教えられていたのに、僕が聞いていなかっただけなのかもしれない」
マルグリットは否定もしなかった。
「君は」
グスタフは静かに尋ねる。
「僕がニコラを諦めればいいと思っているのか」
「いいえ」
マルグリットは首を横に振る。
「それは貴方がお決めになることです。ただ、どうか彼女が幸せになれる道を、お選びくださいませ」
その言葉だけを残し、彼女は立ち上がる。扉の前で一度だけ振り返り、穏やかに一礼した。
「ごきげんよう、グスタフ様。」
扉が閉まる。
一人残されたグスタフは、窓の外を見つめた。脳裏に浮かぶのは、屈託なく笑うニコラの笑顔だった。その笑顔を守りたい。だからこそ。自分は何をすべきなのか。初めて、その問いを真正面から考え始めていた。
その後、グスタフは両親に願い出て嫡男の立場を弟に譲り、自身は従属爵位の中で最も低い男爵位をもらい受け、領地の一地方の代官となった。
小さな村をいくつか纏めた領地の代官職は裕福な平民とそう変わりがない暮らしだ。料理や洗濯、掃除をする下働きのメイドが2人、庭師と御者が各一人。全員が通いの村人だ。
家を切り盛りするのは男爵夫人となったニコラだ。社交の必要のない代官の妻となったニコラは、嘗てと同じ笑みを浮かべ、感情のままに、グスタフの愛した彼女のまま過ごしている。
これでよかったのだと、グスタフは嘗ての婚約者に感謝する。
自ら捨てた侯爵家当主の地位に時折未練を感じつつも、それでも穏やかで幸せな人生を送るのだった。




