第8話:長靴を洗ったら、下流の村がパニックになった。
犬小屋作りを終えた俺は、バケツとタワシを持って、裏山の小川へと降りていた。
ここは実家の敷地内を流れる沢で、そのまま麓の村へと続いている。水は冷たくて綺麗だ。
「うわ、こびりついてるな」
俺は長靴とスコップを水に浸した。
コーキング剤のシリコンと、掘り返した土、それに草刈りの時に飛び散った樹液などが混ざり合い、ネバネバした謎の汚れになっている。
『マ、マスター……。その汚れ、ただの泥じゃないですよ?』
胸ポケットのスマホから、たまちゃんが恐る恐る声をかけてくる。
『マンイーターの樹液(高純度生命力)と、砕いた魔石の粉末(純粋魔力)、それに魔法の断熱材のカスが混ざり合った……いわば「超高濃度のエネルギー結晶体」です! 川に流したら生態系が壊れますよ!?(良い意味で)』
「泥は泥だろ。タワシで擦れば落ちる」
俺は忠告を聞き流し、ゴシゴシと長靴を洗い始めた。
タワシで擦ると、黒い汚れが剥がれ落ち、清流に溶け込んでいく。
その瞬間だった。
キラキラキラキラ……!
洗い流された泥水が、水に触れた途端に黄金色に輝き出した。
いや、黄金だけじゃない。七色に発光しながら、川下へと流れていく。
「うわ、なんかギラギラしてるな。油か?」
俺は眉をひそめた。
機械のグリスでも付いていたんだろうか。
「洗剤は使ってないけど、環境に悪いかな……。まあ、自然分解されるだろ」
俺は綺麗になった長靴に満足し、バケツを持って家に戻ることにした。
その「黄金の水」が、下流でどのような奇跡を引き起こすかなど、露ほども知らずに。
◇
一方、その頃。
山の麓にある限界集落――通称「麓村」。
若者は都会へ去り、残されたのは老人ばかりという、静かな村だ。
川のほとりで、一人の老婆が洗濯をしていた。
トメさん(82歳)。
腰が「く」の字に曲がり、杖がなければ歩くこともままならない。
「あいたた……。今日は雨が降るかねぇ。腰が疼いて敵わんよ」
トメさんは痛む腰をさすりながら、ため息をついた。
医者には「歳のせい」と言われ、湿布を貼るだけの毎日。楽しみといえば、こうして川のせせらぎを聞くことくらいだ。
「……ん?」
ふと、川面が眩しく光った気がした。
顔を上げると、上流からキラキラと輝く水流が、ドンブラコと流れてくるではないか。
「あらやだ。お天道様が反射してるのかねぇ。綺麗だこと」
トメさんは目を細めた。
水面が黄金色に揺らめいている。
ちょうど喉が渇いていたところだ。ここの水は綺麗だから、昔からそのまま飲んでいる。
「一口、いただくかね」
トメさんは手で水をすくい、口に運んだ。
ゴクッ……。
「……あら?」
甘い。
砂糖水のようなベタつく甘さではない。
高級な果実を絞ったような、芳醇で爽やかな甘みが、口いっぱいに広がった。
「美味しいねぇ……」
そう呟いた、直後だった。
ドクン!!
トメさんの心臓が、早鐘のように強く脈打った。
カッと身体の芯が熱くなる。
胃の底から湧き上がった熱エネルギーが、血管を通って全身を駆け巡る!
ボキボキボキッ!!
「ひゃっ!?」
凄まじい音が体内から響いた。
曲がっていた背骨が、勝手に真っ直ぐに伸びた音だ。
萎縮していた筋肉がパンプアップし、濁っていた水晶体がクリアになる。
シミだらけだった肌にハリが戻り、白髪の根元が黒く染まっていく。
時間にして、わずか数秒。
トメさんは恐る恐る、自分の体を見下ろした。
「痛くない……」
杖を持たずに立っている。
腰の鈍痛がない。膝のキシみもない。
それどころか、体が羽毛のように軽い。
「痛くないよ! 治った! いや、娘時代より調子がいいよ!」
トメさんは喜びのあまり、杖を川に放り投げた。
そして、村へ向かって走り出した。
ダダダダダダダダッ!!!!
その速度は、全盛期のウサイン・ボルト並みだった。
砂煙を上げ、残像を残して老婆が爆走する。
◇
「おい見ろ! 誰かが猛スピードで走ってくるぞ!」
「イノシシか!? いや、人だ!」
集会所にいた村長(70代)たちが、砂煙を見て騒然となった。
土煙の中から現れたのは、満面の笑みを浮かべたトメさんだった。
「みんなー! 川じゃー! 川から神様の水が流れてきたぞー!!」
「ト、トメさん!? あんた、腰はどうした!?」
「見ての通りさ! さあ、水が流れてしまう前に行くんだよ!」
トメさんの変貌ぶりを見た老人たちは、我先にと川へ殺到した。
そして、流れてくる「黄金の水」を飲み、顔を洗い、ポリタンクに詰め込んだ。
その結果――。
「目が! 対岸の蟻の行列が見えるわ!」
「髪が生えた! わしのツルツル頭に産毛が!」
「うおおおおっ! 力が……力が湧いてくる!」
ゲートボールをしていたお爺さんが、スティックを軽く振っただけで、ボールを彼方へと打ち飛ばした(ホームラン)。
農作業をしていたお婆さんが、米俵(60キロ)を軽々と持ち上げた。
限界集落は、一夜にして「超人村」へと変貌を遂げた。
「これは……奇跡じゃ」
村長が震える声で言った。
全員の視線が、川の上流――佐伯家の裏山へと向けられる。
「あそこにお住まいの、『山の神様』のお慈悲に違いない!」
「ありがたや……ありがたや……!」
老人たちは山に向かって五体投地し、感謝の祈りを捧げ始めた。
こうして、謎の「山神信仰」が爆誕したのである。
◇
そんな騒ぎになっているとはつゆ知らず。
俺はピカピカになった長靴を納屋に戻し、満足げに汗を拭っていた。
「ふぅ、スッキリした。やっぱ道具は手入れが大事だからな」
たまちゃんが、呆れを通り越して尊敬の眼差しを向けてくる。
『マスター……今、下流の平均寿命が20年くらい伸びましたよ……』
『あれだけの聖水を垂れ流すなんて、やっぱりあなたは歩くパワースポットです』
「なんだそれ。風水か?」
俺は首を傾げつつ、台所へと向かった。
「腹減ったな。今日は野菜炒めにするか」
平和な夕食の時間が始まる。
だが、俺はまだ知らなかった。
明日、パワーアップした村人たちが、感謝のしるしを持って大挙して押し寄せてくることを。
そして、そのお返しに俺が渡した「ある容器」が、村の国宝になることを。




