第25話:行き倒れの外国人(スパイ)を介抱した。〜ポカリ(聖水)と冷えピタ(氷結封印)〜
翌朝。
小鳥のさえずりが聞こえる、佐伯家のリビング。
「……う、ぅ……」
ソファの上で、黒ずくめの男――米国最強のスパイ、サイファーが目を覚ました。
意識が混濁している。
全身が重い。だが、痛みはない。
(俺は……生きているのか? 捕虜になったのか?)
彼はゆっくりと目を開けようとした。
だが、その瞬間、額に「ヒヤリ」とした冷たい感触があることに気づいた。
何かが張り付いている。
青くて、プルプルとした、粘着質のシートだ。
「!?」
取れない。
剥がそうと手を伸ばすが、体が鉛のように重くて動かない。
(な、なんだこれは……! 脳の前頭葉を直接冷却されている……!?)
彼の思考が、恐怖で染め上げられる。
(『思考凍結』の呪符か! 俺から反撃の意志と、思考能力を奪うための拘束具だ!)
実際は、熱中症対策の『熱さまシート(または冷えピタ)』である。
だが、未知のテクノロジーに晒され続けたサイファーに、冷静な判断力は残っていなかった。
「目が覚めたか、侵入者よ」
冷ややかな声が響く。
視線を巡らせると、部屋の隅で腕を組んでいる金髪の美女がいた。
えんじ色のジャージ姿。だが、その瞳に宿る光は歴戦の騎士のそれだ。
そして足元には、あの恐怖の魔獣が寝そべっている。
「社長の慈悲に感謝するのだな。本来なら、貴様の首は胴体とサヨナラしていたところだ」
「グルル……(飯はまだか)」
ポチが喉を鳴らす。
サイファーはソファの上で縮こまった。
この部屋は、処刑場だ。
◇
ガララ……。
引き戸が開き、あの「魔王」が入ってきた。
佐伯健人。
手にはコップと、青いラベルのペットボトルを持っている。
「お、起きたか。顔色が悪いぞ」
佐伯は屈託のない様子で近づいてきた。
手にしたコップを突き出す。
中には、少し白濁した液体が入っている。
「ほら、これ飲め。楽になるから」
(……自白剤か?)
サイファーは唇を噛んだ。
あるいは、意識を混濁させ、廃人にする毒薬か。
だが、拒否権はない。飲まねば、足元の魔獣に食われるだけだ。
(飲むしかない……!)
彼は覚悟を決め、震える手でコップを受け取った。
一気に煽る。
グビッ……グビッ……。
「……ッ!?」
飲んだ瞬間、衝撃が走った。
甘くもなく、塩辛くもない。絶妙なバランスで調整された味が、乾ききった喉を潤していく。
それだけではない。
胃に落ちるよりも早く、細胞の一つ一つが歓喜し、水分を吸収していく感覚!
ドクン!!
心臓が力強く脈打つ。
視界が晴れ、指先に力が戻ってくる。
(なんだこの吸収率は……!? ただの水ではない! これは『エリクサー(万能霊薬)』か!?)
彼は驚愕し、テーブルに置かれたボトルのラベルを凝視した。
そこには、英語でこう書かれていた。
『ION SUPPLY DRINK(イオン供給飲料)』
「I... Ion...!?」
サイファーは戦慄した。
イオン。すなわち荷電粒子。
核物理学や化学の分野で使われるエネルギーの最小単位だ。
(イオンを……直接供給だと!? 核エネルギーを液状化して飲んでいるというのか!?)
日本人は、こんな劇薬を日常的に摂取し、身体能力を底上げしているのか。
これが、黄金の国ジパングの強さの秘密……!
「Oh my god...(なんてことだ……)」
◇
「少しは落ち着いたか?」
佐伯が、空になったコップを受け取った。
サイファーは警戒を解かずに頷く。
「で、あんた何しにこんな山奥まで来たんだ? 登山か?」
佐伯の問いかけに、サイファーの心臓が跳ねた。
「登山(Tozan)」。
それは単に山に登るという意味ではない。
「山(この組織)」の内情を探りに(スパイしに)来たのか、という隠語に聞こえた。
(……バレている。俺の所属も、目的も、全て見透かされている!)
下手に嘘をつけば殺される。
だが、機密を漏らすわけにはいかない。
サイファーは、震える声でギリギリのラインを答えた。
「……Just lost my way.(ただ道に迷っただけだ)」
苦しい言い訳だ。
プロのスパイが道に迷うなどありえない。
だが、佐伯はあっさりと頷いた。
「そうか。まあ、日本の山は入り組んでるからな。遭難する外国人も多いんだよ」
佐伯は窓の外を指差した。
「この道を真っ直ぐ降りれば、バス停がある。気をつけて帰れよ」
(……見逃す、というのか?)
サイファーは呆然とした。
自分の領域に侵入し、探りを入れたスパイを、無傷で帰す。
それは、「貴様などいつでも殺せる」「殺す価値もない」という、絶対強者の余裕。
「……Thanks.(感謝する)」
完敗だ。
アメリカの威信も、CIAのプライドも、この男の前では無意味だった。
◇
「じゃあ、俺はちょっとおかわり持ってくるわ」
佐伯が台所へと姿を消した。
今だ。
「Run!(逃げろ!)」
サイファーは跳ね起きた。
額の「冷却の呪符(冷えピタ)」を剥がし取る余裕すらない。
彼は窓から庭へと飛び出し、転がるように山を駆け下りた。
「I'll never come back!!(二度と来るか、化け物め!!)」
その背中は、歴戦の英雄とは思えないほど小さく、怯えきっていた。
◇
「あれ? いない」
新しいポカリを持って戻ってきた俺は、空になったソファを見て首を傾げた。
「トイレか? ……いや、靴がないな。帰ったのか」
元気になったようで何よりだ。
ポカリと冷えピタの効果は絶大だな。
「ん? なんか落ちてる」
俺はソファの隙間に、黒い小さな機械が挟まっているのを見つけた。
マッチ箱くらいのサイズで、アンテナがついている。
隣には、万年筆のような金属筒(麻酔銃の空薬莢)も落ちている。
「おもちゃか? 忘れ物だな」
見たことのない機械だ。ボタンを押しても反応しない。
壊れているようだ。
「まあ、わざわざ取りに来ないだろうし……ゴミ箱でいいか」
俺はそれを、燃えるゴミの袋にポイッと放り込んだ。
『……マスター』
一部始終を見ていたたまちゃんが、深い溜息をついた。
『それ、アメリカ国防総省の最重要機密デバイスですよ……。あと、その筒は暗殺用の……はぁ、もういいです』
「なんか言ったか?」
『いいえ。それよりマスター、邪魔が入りましたが、今日の予定はどうしますか?』
俺は時計を見た。まだ午前中だ。
「そうだな。昨日の買い出しで買ってきた魔石を使って、やりたいことがあったんだ」
俺は窓の外、愛車の軽トラを見やった。
「この山道、軽トラの馬力だとキツイからな。『魔改造』してパワーアップさせるぞ」
『……嫌な予感がします。今度は何をくっつける気ですか?』
「風の魔石だ。ターボ代わりになるだろ」
こうして、世界最強のスパイを撃退(?)した俺は、新たなDIYへと着手した。
それは、ただの軽トラを「音速のチャリオット」へと進化させる、禁断の儀式だった。




