第24話:最強のトラップ(獣害対策)が作動。スパイ、光と音に敗北する。
ゼェ……ハァ……。
アメリカ最強のエージェント、サイファーは、佐伯家の勝手口(縁側)に手をかけた状態で、荒い息を吐いていた。
黒いタクティカルスーツは泥だらけ。足はガクガクと震えている。
「Damn it……。たかが庭を抜けるだけで、九死に一生を得るとは……」
電気柵、ナノカーボン(猫よけ)の地雷原、光子レーザー(鳥よけ)、そして音響兵器(超音波)。
この家の庭は、ペンタゴンの最重要区画よりも防備が堅い。
「だが、ここまでくればこっちのものだ」
サイファーは窓枠を探った。
セキュリティ・システム(鍵)を解除する必要がある。ピッキングツールを取り出そうとして――。
スッ。
窓が、横に滑った。
鍵がかかっていなかったのだ。
「……What?(なに?)」
サイファーは動きを止めた。
開いている? 不用心すぎる。いや、違う。
「罠(Trap)か……? それとも、『貴様ごとき、鍵をかけるまでもない』という挑発か……!」
屈辱に歯を食いしばりながら、彼は音もなく室内へと滑り込んだ。
◇
室内は真っ暗だった。
サイファーは即座に、ゴーグルの『ナイトビジョン(暗視)モード』を起動した。
微弱な光を数万倍に増幅し、真夜中でも昼間のように視認できる機能だ。
「Gain Max(感度最大)。……行くぞ」
緑色の視界の中、彼は廊下を音もなく進む。
ターゲットの寝室は奥だ。
一歩、二歩。
その時。
廊下の天井に取り付けられた、小さなドーム状の物体が反応した。
『人感センサー付きLED電球(60W相当・昼光色)』。
夜中にトイレに行くとき、足元が暗くないようにと佐伯が取り付けた親切設計だ。
カチッ。
スイッチが入る音と共に――。
カッッッ!!!!!!
閉鎖空間で、LEDの直射光が炸裂した。
「GYAAAAAAAAA!!」
サイファーが絶叫した。
暗闇に適応するため、感度を最大にまで引き上げていた暗視ゴーグル。
そこに、至近距離から強烈な可視光線が飛び込んだのだ。
その光量は、増幅されて脳を焼く閃光と化した。
「目が! 目が焼けるぅぅ!!」
サイファーはゴーグルをかなぐり捨て、顔を覆って床に転がった。
視界がホワイトアウトしている。何も見えない。
「室内戦(CQB)の基本トラップ……! 侵入者の装備を逆手に取り、視覚を奪うとは……!」
◇
視力を失い、床に這いつくばるサイファー。
だが、彼の悪夢は終わらない。
薄れゆく意識の中で、彼は目の前に「圧倒的な質量」が存在することに気づいた。
グルルルル…………
重低音の唸り声。
腹の底に響くような振動。
それは、ただの犬の威嚇ではない。生物としての格の違いを見せつける、絶対強者の波動。
『……動くな。その喉笛を噛み千切るぞ』
脳内に直接、死の警告が響いた気がした。
「ひっ……!」
サイファーは、涙の滲む目でなんとなくの輪郭を捉えた。
目の前にお座りをしている、茶色い獣。
見た目は中型犬サイズだ。だが、その背後に揺らめく影は、天井を突き破るほど巨大な「狼」の形をしていた。
「な、なんだこの犬は……!? 虎か? いや、グリズリーよりも凶悪な気配……!」
動けない。
長年の勘が告げている。指一本でも動かせば、次の瞬間には肉片になっていると。
プロのスパイは、本能レベルで完全降伏を選択し、石のように硬直した。
◇
ガララ……。
騒ぎを聞きつけ、奥のふすまが開いた。
「んぁ……? 誰だ……? ポチ、騒ぐなよ……」
気だるげな声と共に、男が現れた。
ターゲット、佐伯健人。
服装は、グレーのスウェット上下。胸には『WORKMAN』のロゴ。
あくびをしながら、無防備に目をこすっている。
(こいつが……『KENTO』……!)
サイファーは奥歯を噛み締めた。
隙だらけに見える。だが、騙されてはいけない。
あの化け物犬を従え、この要塞のような家に住む男だ。
(殺るしかない……! 任務遂行だ!)
サイファーは最後の力を振り絞った。
懐から、ペン型の特殊デバイスを取り出す。
『圧縮ガス式・即効性麻酔銃』。
象をも数秒で眠らせる劇薬が装填されている。
「Sleep!(眠れ!)」
シュッ!
サイレンサー付きの発射音が鳴り、極細の針が射出された。
狙いは正確無比。
針は吸い込まれるように、佐伯の首筋へと飛んだ。
命中。
「(やった……!)」
サイファーが勝利を確信した、その時。
ペチッ!
佐伯が、自分の首筋を無造作に叩いた。
「ん? チクッとしたな」
彼は首筋から手を離し、掌を確認した。
そこには、ひしゃげた麻酔針が転がっている。
「蚊か。まだいるのかよ……」
佐伯は鬱陶しそうに針(蚊だと思っている)を指で弾き飛ばすと、再び大きなあくびをした。
「ふわぁ……。眠い」
立ったままだ。
グラリともしない。
「…………Ha?(は?)」
サイファーの思考が停止した。
致死量ギリギリの麻酔だぞ? 血管に直接注入されたはずだ。
なぜ立っている? なぜ眠らない?
(まさか……『薬物耐性』がMAXなのか!? それとも、皮膚が硬すぎて針が通らなかったのか!?)
どちらにせよ、結論は一つだ。
「Monster(化け物だ)……」
勝てるわけがない。
視覚破壊、精神的恐怖、そして必殺の一撃の無効化。
サイファーの心は、ここで完全に折れた。
「あ、あ……」
緊張の糸が切れ、蓄積したダメージが一気に押し寄せる。
サイファーは白目を剥き、ガクッと床に倒れ込んだ。
◇
「ん?」
何かが倒れる音を聞いて、佐伯はようやく覚醒した。
廊下の電気のスイッチを入れる。
「うわ、なんか落ちてる」
そこには、全身黒ずくめの外国人が、泡を吹いて倒れていた。
ボロボロの服、泥だらけの顔。
「外人だ。……バックパッカーか?」
佐伯は首をひねった。
最近は、日本の田舎を巡る外国人観光客が増えていると聞く。
道に迷って山に入り込み、遭難して助けを求めて入ってきたのだろうか。
「顔色が悪いな。脱水症状か、熱中症だな」
放っておいたら死ぬかもしれない。
佐伯はため息をついた。
「しょうがない、介抱するか。……ポチ、冷蔵庫から氷枕(保冷剤)持ってきてくれ」
「わん!」
佐伯は倒れた男を担ぎ上げ、リビングのソファへと運んだ。
この男が、自分の命を狙ったスパイだとは夢にも思わずに。
そして翌朝。
目を覚ました最強スパイを待っていたのは、額に貼られた「青い冷却ジェルシート」と、コップに注がれた「白濁した魔法の聖水」だった。




