第23話:米国No.1スパイ、日本の田舎へ。コードネーム『サイファー』の潜入。
深夜2時。
草木も眠る丑三つ時、佐伯家の裏山は漆黒の闇に包まれていた。
だが、その静寂を破るように、一人の男が音もなく降下した。
シュタッ。
着地音はゼロ。
男の名はサイファー。アメリカCIAが誇る最強のエージェントであり、数々の不可能任務を成功させてきた潜入のスペシャリストだ。
「……Situation normal(状況、異常なし)」
彼は全身を黒いタクティカルスーツで覆っていた。
最新鋭の『光学迷彩』機能を搭載し、周囲の風景と同化して姿を消すことができる。
顔には、熱源や魔力波長まで視覚化する『多波長分析ゴーグル』。
サイファーは、ゴーグルのズーム機能で山頂付近を凝視した。
「Target confirmed(目標確認)。あの日本家屋か」
衛星写真では、ただの古びた民家にしか見えなかった。
だが、現場に来て確信した。
この山全体から漂う、異質な空気。そして、異常なまでに手入れされた(整地された)地形。
「カモフラージュ率100%。……間違いない。ここは国家レベル、いや、エイリアン・テクノロジーの隠蔽要塞だ」
彼は腰の麻酔銃を確認し、慎重に歩を進めた。
◇
最初の関門は、すぐに現れた。
闇の中に浮かび上がる、細いワイヤーの列。
「Electric fence(電気柵)か……」
サイファーは鼻で笑った。
民間の害獣よけ程度なら、ニッパーで切断して終わりだ。
彼はゴーグルの解析モードを起動した。
ピピッ。
【WARNING: HIGH VOLTAGE(高電圧警告)】
【OUTPUT: 10,000V】
「……What?」
サイファーの表情が凍りついた。
「1万ボルトだと……!? 軍事施設の防衛ライン並みじゃないか!」
普通の農家が設置するレベルではない。
触れれば即死、あるいは神経系を焼き切られて廃人だ。
しかも、電源はソーラーパネルによる独立稼働。外部からのパワーカットも不可能。
「Shit!(クソッ!) 初手から殺りに来てやがる」
サイファーはニッパーをしまった。
切断すれば、電圧変化を感知して警報が鳴る可能性がある。
「飛び越えるしかない」
彼は腰から絶縁素材のグラップル(鉤縄)を取り出し、近くの大木にかけた。
助走をつけ、振り子の要領で宙を舞う。
ヒュンッ。
1万ボルトの死線を、数センチの隙間で回避し、柵の内側へと着地した。
「Easy(楽勝だ)」
彼は息を整え、次なるエリアへと侵入した。
◇
柵を越えた先は、開けた庭だった。
遮蔽物がない。
サイファーは即座に姿勢を低くし、匍匐前進に切り替えた。
ズリッ……ズリッ……。
地面を這う。
その時、グローブ越しの指先が、何か硬く鋭利なものに触れた。
「……Stop.」
彼は動きを止めた。
ゴーグルのサーマルモードで地面を確認する。
そこには、無数の黒い突起物が、びっしりと敷き詰められていた。
「これは……『ニードル・マット』か!?」
正体は、100均で買った『猫よけのトゲトゲシート』である。
だが、サイファーの目には違って見えた。
「鋭利だ。プラスチックに見せかけた、ナノカーボン製のスパイクか?」
「踏めば足裏を貫通し、おそらく即効性の神経毒が注入される仕組みだろう」
冷や汗が背中を伝う。
もし、気配を消さずに歩いていたら、今頃足の裏が蜂の巣になっていただろう。
「なんて悪辣なトラップだ。隙間がない……」
サイファーは、トゲとトゲのわずかな隙間を選び、指先と膝をミリ単位でコントロールしながら進んだ。
極限の集中力。
わずか10メートルの距離を進むのに、10分を要した。
◇
なんとかニードル地帯を抜けたサイファー。
ターゲットの母屋まで、あと少し。
家庭菜園(イチゴ畑)の脇を抜けようとした、その時だった。
キラッ……!
月光を反射して、何かが彼の視界を焼いた。
「ぐっ!? なんだ!?」
ゴーグルの光量補正が追いつかず、視界がホワイトアウトする。
目を凝らすと、畑の周囲に張り巡らされた「銀色のテープ」が、風に揺れて不規則に光を乱反射していた。
佐伯が適当に張った、『防鳥キラキラテープ(ホログラム)』だ。
だが、サイファーの解釈は違った。
「乱数パターンの光反射……! これは、ただのテープじゃない!」
「『可変式レーザーワイヤー』だ!!」
風に揺れるテープの動きが、彼には「自動追尾して切り裂きに来る高出力レーザー」に見えていた。
触れればスライスされる。
しかも、風任せに見えるその動きは、最新のAIによる予測不能な回避殺し(回避困難攻撃)だ。
「Damn it!(畜生!) 風を読め……パターンの隙間を縫え!」
ヒュッ!
テープが風で舞い上がり、サイファーの鼻先を掠める。
「ヒイッ!!」
彼は情けない声を上げてのけぞった。
マトリックスのように上体を逸らし、迫りくる(ただ揺れてるだけの)テープを避ける。
「右! 左! ……クソッ、囲まれた!?」
彼は一人で、ビニールテープ相手に死闘を繰り広げた。
端から見れば、庭で奇妙なダンスを踊る不審者である。
◇
一方、家の中。
リビングのテーブルの上で、充電中のスマホ(たまちゃん)が画面を明滅させていた。
『……何やってるんですか、あの人』
たまちゃんは、ダンジョンの監視カメラ機能で、庭の様子を眺めていた。
『猫よけの上でブレイクダンスして、鳥よけテープにビビって……』
『プロの芸人さんかな? 面白いので録画しておきましょう』
佐伯は寝室で爆睡中だ。
管理者のたまちゃんは、侵入者を排除することもできたが、あまりに滑稽だったので「泳がせる」ことにした。
『頑張ってくださいねー。そこを抜けても、地獄ですけど』
◇
ぜぇ、ぜぇ……。
サイファーは肩で息をしていた。
なんとかレーザー網(鳥よけ)を突破した。
スーツは泥だらけ、精神力は限界に近い。
「だが……これで母屋へのルートは開けた」
目の前には、ターゲットの寝室があると思われる日本家屋。
サイファーは慎重に近づいた。
中の様子を探るため、スーツの集音機能を最大感度にする。
「Audio sensor, Max gain(集音マイク、最大感度)」
家の警備システムや、住人の寝息を拾うためだ。
彼は耳を澄ませた。
その瞬間。
キィィィィィィィン!!!!!!
鼓膜を突き破るような、超高周波の金属音が脳内に炸裂した。
「ガハッ……!?」
サイファーは目を見開き、その場に崩れ落ちた。
『超音波害獣撃退器』。
センサーが反応し、モスキート音を発射したのだ。
若者にしか聞こえない周波数の音だが、集音マイクで感度を最大にしていたサイファーにとっては、鼓膜の至近距離でジェット機が離陸したような衝撃だった。
「あ、が……ッ! 音響兵器だと……!?」
世界が回る。
三半規管をやられた。
激しい目眩と吐き気が襲う。
「脳が……揺れる……! 平衡感覚を……奪いに来ている……!」
サイファーは地面に這いつくばり、嘔吐した。
最強のスパイとしてのプライドが、音を立てて崩れていく。
「……ま、まだだ……」
彼は震える足で立ち上がった。
ここで倒れるわけにはいかない。俺はアメリカの守護者。これしきの罠で……!
「ターゲットの……寝首を……かけば……」
彼はふらつく足取りで、勝手口の窓に手をかけた。
ここさえ突破すれば。
家の中に入りさえすれば、無防備なターゲットを制圧できるはずだ。
しかし、彼は知らなかった。
家の中には、閃光の罠と、最強の番犬、そして寝起きの魔王が待っていることを。




