97.葵ちゃんのお薬
「どうして、十六夜がここに」
「それはこっちの台詞だよ」
霞はまるで泥棒をしようとしていたのを見つかったように慌てて手を止めた。
「あんたの様子が変だったからね。サツキが寝てから道場で張ってたんだ」
「……全然気づきませんでした」
「気配を消すのは私の専門分野だからね。ま、こんな時間まで待つことになるとは思わなかったけどね」
十六夜がニヤッと笑ったあとに欠伸をした。
「で、何してたんだい?勝手に葵の持ち物を物色するなんて悪趣味な真似して」
「……えっと、その……それは……」
言い訳が浮かばない霞は目を泳がせながら、しどろもどろな返答をする。十六夜にも何をしていたかはバレたくなかった。
「ま、大体察しはついてるけどね」
十六夜はゆっくりと霞の方へと近づいてくる。
「袂から出しな」
十六夜の全てを見透かしているような眼差しに霞は観念して、袂から硬い筒状の入れ物を取り出した。
十六夜はそれを受け取ると開けて中を確認する。
「やっぱりね」
中身は葵が作った少し緑がかった塗り薬だった。霞は目を伏せている。十六夜はため息をつき半ば呆れながら続けた。
「まったく。ずっと使ってたのかい?」
「……はい。体の調子が悪い時は……。以前葵ちゃんに貰ったものの残りを……」
霞は小さな声で呟く。
ナギが眠った後、見つからないように夜中に道場に来て、この薬を塗って少しでも傷を癒していた。
「葵も言ってたろ?この薬はあくまで応急処置用。そう何度も使ってても完全にはよくならないって」
「………」
中身はもうほとんど残っておらず、霞がどれだけ使っていたかを物語っていた。
「で、なくなってきたから探しに?」
「はい。徒花との戦いの疲れや傷が全然癒えてくれず。このままでは、次のもののけが来た時に……」
霞が震えながら声を振り絞った。今の状態では全力が出せない。次もしもまた徒花のようなもののけが来た時に今の状態では太刀打ちできない不安に密かに襲われていた。
「だからって……」
十六夜が呆れつつも、その気持ちを悟り霞を見つめる。
「わかっています!でも、以前なら、この程度の傷などすぐに自然に治癒していたんです。なのに、ここ最近は休んでいても回復の速度が遅く……。どうしたらいいのかわからないんです」
霞は涙を流しながら叫ぶように言い放った。
「霞……」
「刀である私の不調のせいで、主人を、ナギを危険に晒したくなどありません」
霞の行動の根本にあったのはそこだった。もしも自分が全力を出せず、最悪の事態になってしまった時、同じようにナギもただではすまない。
「わかってるよ、あんたが隠してた理由くらい。どれだけの付き合いだと思ってるんだい?」
十六夜は腕を組み少しだけ優しい笑顔を向けた。
「けど、しっかりとせめて私には言っててくれないと困るだろ?」
「……はい。すみません」
十六夜の最もな言葉に霞は納得して、素直に謝った。
「私も私なりでそっちの方の対策は考える。多分薬はここにはないと思うから、しばらくはこれでも使ってな」
十六夜は霞から受け取ったものともう一つ同じ物を渡した。
「これは、十六夜のでは?」
「私は今のところ大丈夫だからね」
「で、ですがいずれは十六夜も……」
霞は慌てて塗り薬を突き返す。十六夜が同じような思いをすることは霞にとっては嫌で苦しいことだった。
「全部を今の状況で解決する方法はないだろ?なら、最適な方法を取り続けるしかない。私がそうなる前に葵が来てくれることを信じるだけさ」
十六夜は肩をすくめて軽い口調で言った。
「……わかりました。有り難く受け取っておきます」
霞は静かに塗り薬の入れ物を開ける。そこにはまだまだびっしりと薬が入っていた。術で戦うことが多い十六夜は傷を負うことが少なかったようでほとんど使われていた形跡はない。
「これなら、しばらくは大丈夫そうです」
「けど、本当に無理な時はいいなよ?私ができる限りなんとかするから」
「はい。十六夜、心配をかけてすみません」
霞がふわりと微笑むと、十六夜も緊張感を少しだけ脱ぎ捨てた。
「……ナギにはこの事は、まだ言わないでください」
霞はまた少しだけ視線を斜め下に落とした。
「ナギがこのことを知ってしまえば、きっと心配をしてしまいます。それに、ナギは優しいですからもののけとの戦いでも私を使おうとしないかもしれません。それでは、ナギが……」
「……わかったよ。ナギにもサツキにもしばらくは黙っておいてあげるよ」
十六夜はそういうと外へ出てサツキの部屋へと戻った。
音もほとんどしない、カーテンを通る月明かりだけの明るさの部屋。窓辺へと近づき、月を静かに眺めていた。
「……早く来てやってくれないか、葵」
それだけを小さな声でつぶやいた。そして、ベッドで眠っているサツキの元へ。気持ちよさそうにすやすやと寝息を立てている。
「まったく……」
十六夜はそんな緊張感のない姿を見てふっと微笑んだ。
"「ナギは優しいですからもののけとの戦いでも私を使おうとしないかもしれません」"
きっとサツキも自分が傷ついていると知れば、同じような行動をとってしまうだろうと十六夜サツキの顔を見て思った。二人は優しく、自分たちのことを道具としてではなく仲間として、友人として接してくれている。だからこそ、自分たちが傷ついた時にいつも通りに戦うという選択肢はきっとできないだろう。だがそれは、嬉しい反面、危うくもある。
「前の主人なら、そんなこと考えもしなかっただろうに……。優しすぎるってのも問題なのかもしれないね」
十六夜は過去を思い出しながらポツリと呟き、ソファへと戻り眠りについた。