まだ、始まっていない
恋でモダモダしているお話です。
「あ」
白のティシャツに黒のアンクルパンツ姿の小向と目が合った。
普段は会社でスーツ姿の彼しか目にしたことがなかったから、休日に道端で会うことは想定していなくて、うっかり声が出てしまった。
それは相手も同じだったようで、気合を入れた浴衣姿のわたしに視線が泳ぐ。
「お祭り?」
「うん、小向も?」
今日はこの地域の大きな夏祭りの日だ。メイン会場にはまだ距離があるが、そちらに向かう人の流れが出来ている。
「あー、うん、まぁ」
曖昧な言葉で、しかし、わたし達は二人並んで歩き出す。
「桂木、浴衣にあうね」
「気合入れて美容室行ったからね」
遠距離恋愛中の優紀と一緒にお祭りに来る予定だった。
高校生の時に地元のお祭りで着た浴衣をわざわざ実家から送ってもらい、美容室まで予約して、綺麗になったわたしを見てもらいたかったのに、当日の朝にドタキャンの連絡がきた。
キャンセルするのもなんだか悔しくて、美容室で予定通り着付けとヘアメイクをしてもらい、せっかくだからと一人でブラブラとお祭り会場方面へ歩いているところで同じ会社の同期である小向と行き会ったのだ。
「これお母さんからのお下がりで、高校生の時に着たときは大人っぽ過ぎてあんまり似合わなくて、悔しいからリベンジ浴衣」
白地に薄い青と淡い紫の薔薇柄の浴衣は、素朴な田舎の高校生には全然似合わなかった。それでも、頬を染めて「かわいい」と言ってくれた優紀。同じ浴衣を着たら、あの時の二人に戻れるような気がした。
「リベンジ成功じゃん。髪型もいつもと違って色っぽい」
ドキリとするような言葉を簡単に吐き出すこの男は、社内でもカッコいいとか優しいとか評判が良い。
背が高くすらりとした体型でスーツを綺麗に着こなしているし、清潔感のある、しかしオシャレにセットした黒髪、人懐っこい笑顔は第一印象が最高に良い。会話をしても、砕けた口調で、しかし粗野ではない気配りのきいた言葉遣いに嫌味さは欠片もない。
気安い雰囲気から他部署の女性社員からもよく声を掛けられているようだが、社内の誰かと付き合っている様子はなかった。もっとも、同期の飲み会や給湯室の立ち話では、人気のある彼のその時々の彼女のことが話題にのぼるが。
「彼氏が髪は長い方が好きっていうからなんとなく伸ばしてたんだけど、不器用だし朝は時間がないから、いつも下ろしっぱになっちゃう」
自分の口から出た『彼氏』という単語に、心がざわりとした。
優紀とは高校二年生の頃から付き合っている。地元から進学のために一緒に東京に出て来て、大学は違ったものの、お互いのアパートを行ったり来たりして付き合っていた。お互いに大学生活が中心になり、就活をする頃は忙しくてあまり連絡を取り合っていなかった。
優紀が地元で就職を決め、わたしが東京で内定をもらってから、やっと、二人の思い描いていた未来が違っていたことに気が付く。優紀は二人で地元に戻ると思っていて、わたしはこのままこちらで生活するものだと思っていた。
どちらもそれは当たり前すぎて、すれ違っていることに気付きもしなかった。
それでも、別れるという選択肢は二人とも浮かばなくて、いずれわたしも地元に戻るだろう、という感じで、そのままわたし達の関係は遠距離恋愛に移行した。
しかし、少しでも時間が出来れば会いに行けた距離ではなくなって、お互いに仕事中心の生活となり、会う頻度は次第に減って行く。
久しぶりの逢瀬を笑顔で喜び、手を繋いで歩いて、ご飯を分け合って食べて、夜は体を重ねても、もう心が重なることはなかった。
いつしか、お互いのいない生活が当たり前になってしまっている。
優紀はまだ、わたしの『彼氏』でわたしは優紀の『彼女』のままなのだろうか。
この関係に区切りをつける頃合いだろうことはわかっているけれど、こちらで慣れ親しんだ生活を手放すことも、当たり前にいてくれた優紀と別れる決意もつけられないまま、ずるずると二人の関係は続いている。
「ショートも似合うと思う」
「暑いし、髪切っちゃおうかな」
ずっと変えなかった髪型を変えれば、なにか変わるだろうか。
「あ、並んでい?」
お祭り会場に差し掛かると、立ち並び出した賑やかな屋台の一つに、小向が目を向ける。「いいよ」と頷いて、若い女の子達が列をなしているいちご飴の屋台の最後尾につく。
小向がお金を払うと、屋台のお兄さんが「好きなの選んで」と言ってくれる。小向が視線でわたしに選べと促す。小向が買うのに?と思ったものの、混雑している店前でやりとりするのも気が引けて、さっと一番手前にあったいちご飴を手に取り屋台を離れた。
そのままいちご飴はわたしの手の中にある。割り箸に刺さったそれを小向に差し出すと、ガブリと一粒齧り取った。
割り箸ごと受け取ってもらおうと思っていたのに、なぜか「あーん」状態になってしまったことに驚く。
「かたっ!」
小向は小向で、パリリと固い飴に驚いている様子だ。
「いちご飴、初めて?」
「うん、普通の苺の気持ちで食べたから、びっくりした。飴だね」
「いちご飴だもん。自分で持って」
苺が刺さった割り箸を小向に押し付ける。それを受け取った彼は、なぜかわたしの口元に寄せてくる。
「食べて。好きでしょ、苺」
小向がわたしの好物を知っていたことに驚き、思わず目の前の苺をパクリと口に含む。パリパリの甘い飴と齧った苺の果汁が合わさって美味しい。
わたしと小向は会社の同期だから、お互いの連絡先は知っているものの、これまで個人的な連絡はしたことがない。二人で飲みに行ったりするほど仲もよいわけではなく、かといって悪いわけでもないので、社内で顔を合わせれば挨拶や世間話程度は普通にする。
二人きりで会話をしたのは、たぶん一度きり。
会社の取引先との飲み会に、なぜか他部署のわたしが駆り出された時だ。合同の忘年会のような形で、店を貸し切って行われた。こちらの社員が家庭の事情だったり他の業務と重なったりとで参加人数が少なすぎて体裁が悪いということで、他部署で都合がつく数人が急遽参加することになり、その中にわたしもいたのだ。
自社の人間しか知り合いのいないわたしは手持無沙汰で、会場をきょろきょろと見回していた。取引先の営業職と思われる女性と話をしている小向が目に入り、とっさに携帯電話を取り出し彼に駆け寄る。
「お話し中すみません。会社から電話なんだけど、わたしじゃわからなくて。小向くん、代わってもらっていいかな?」
自分の電話を小向に手渡しながら、相手の女性に会釈をして店の外に彼を連れ出す。
バタンと扉を閉めて、ふぅ、と息をつく。
「桂木、これ何の音?」
小向に戻された携帯電話を耳にあてると、飛行機のエンジン音が耳に入ってきた。
彼に携帯電話を渡す前に、無音では怪しまれるかと思い、とっさにアプリを起動してしまったのだ。時報でもかければよかったものを。
「飛行機の音、です。なんかカッコよくて時々聞いてるの」
別に飛行機マニアというわけではないのだが、ストレスが溜まったときとかに空を飛ぶパイロットの気分を味わって気分転換しているのだ。
自分でも変な趣味だと思っているので、誰にも言ったことがない。恥ずかしくて顔に熱が集まる。
「はは、桂木って面白いのな」
ツボに入ったのか、小向は腹を抱えてゲラゲラと笑いだす。いや、きっと緊張していた反動だろう。
会場を見回していたわたしの視界には、彼の腕をさすりながら胸を押し付ける取引先の女性が目に入っていた。セクハラというのは、女性だけがターゲットになるわけではない。年齢的にもわたし達より一世代上で、きっと強く出られない相手だったのだろう。
「助かった、ありがとう」
笑い終えた小向にお礼を言われ、わたしはとぼけた顔をしてやる。
「ああ、小向と喋っていた人、臭かったもんね。絶対ワキガだよね!」
顔を顰めたわたしに、きょとんとした表情になった小向は、しかしすぐにまた笑い声をあげた。
「あはは、そう!ワキガ。マジ臭かったから助かった!」
人が好い小向から誰かの悪口を聞くことはなかったが、この時は二人で「臭い臭い」と笑い合った。
それからも、わたし達はただの同期で、関係は何も変わらなかった。
けれど、よく目が合うようになり、いつしかそこに熱が籠り始めていく。
よく話題にのぼっていた小向の彼女の話も、別れた話を聞いて以来、更新されることがなかった。
いちご飴を食べ終わり、ブラブラと二人で歩いていると、ドン と音が響く。見上げた空に光の花が打ちあがっていく。
次々と上がるそれを見上げていると、ふいに片方の手が握られた。
驚いたが、横にいる背の高い彼を見ないようにして、空を見上げ続ける。わたしの視界の中で、花が咲いては散って、また花が咲く。
8月最後の日曜日、夏の終わり。もうすぐ秋が始まる。
わたし達はまだ、始まっていない。
けれど、触れた指先は熱くて、きっともう、始まっていたのだ。
数ある作品の中から見つけてくださり、読んでくださり、ありがとうございます。
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