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ある独房

作者: にや

仕事の縺れから一人に鎌を引っ掻けたのが失敗だった。

懲役は十年。模範囚として出所しようが、ブタ箱で暴れようが、もう二度と全うな人生を送りようの無い期間を前に、俺は舌を噛みきってやろうと心に決めたのだ。

だがただ死んだのではつまらない。既に無い命、興味本位の対価に支払ってみるのも面白い。俺は一年間を、この冷たい檻の中で暮らすことに決めた。

刑務官に連れられ、独房が続く廊下を歩いていく。そこには実に様々な目があった。

例えるならふ頭の不燃ごみ処理場のような、憤怒、悲観、観念……それらが笑ってしまうほど整然と、色とりどりに並んでいる。

久々に見た生きた目が囚人とは。思わず喉から息が放り出そうになり、慌てて閉口した。腕を握る横の国畜からしたら、俺だってそのごみのひとつに過ぎないのだ。

「直ぐ入れ」

そうしているうちに、割り当てられているらしい独房についた。努めて模範的な刑務官であろうとした口調とは裏腹に、俺を突き放す手は存外に優しさを帯びていた。

「刑務作業はこの昼休憩を挟んで直ぐに始まる。呼びに来たら直ぐに出立の準備をしろ」

どうも直ぐにが好きなようだ。時計の針が倍速で回っています、と言わんばかりに彼は繰り返す。

冷たい床に腰を落ち着けると、なんと憐れか、もともと暮らしていた借家のぼろアパートと大して変わらない広さである。自嘲した。

暫くというほど待たずに、飯が運ばれてくる。微かに湯気の残る野菜煮こみが中央にどんと据えられていた。細かい野菜切れがポツポツと浮いた煮こみ椀の回りを、白パンと少しの揚げ魚が囲んでいる。

口笛を吹きたい気分だった。ここ数年で一番のごちそうかもしれない。

手を擦り合わせ、その匂いから味わわんとばかりに息を吸い込み、たっぷりと貯めてから吐き出した。刑務官はそれを乞食でも見るような目で蔑んでいたが、この温かい飯の幸福に比べれば些細なものだった。

いよいよ、椀に匙を浸ける。汁は渦を巻く。引き上げて口に含めば、野菜の甘みが鮮烈に舌を灼いた。美味しい。もう一匙。二匙。耐えきれなくなって椀に口をつける。なんと至福の時だろうか。これなら他人の一人二人死んでも仕方あるまい。

パンをかじり、魚を噛みしめる。あっという間に空になってしまった食器は、直ぐに取り上げられてしまう。匙を見送るときの虚しさは存外に胸を突いた。

食器を運びかけて、何か思うところでもあったのか、刑務官が尋ねてきた。依然卑しいものでも見るような目であった。

「何か質問はあるか」

質問。これから暮らすのにあたって分からないことは多い。

が、よくよく考えてみれば、快適に暮らしたところで何か有るわけでもないのが刑務所である。逡巡の末、俺は無難な質問をすることにした。

「私は何の刑務をすることになるんです」

彼はつまらなそうに返した。

「直ぐにわかる」

「さいですか」

どうも彼はこの場所が気にくわないようだった。やはり、普通はそうなのだ。自らの淡い絵空事を破られた落胆を悟られぬよう、不必要に深々と頭を下げる。彼は俺を一瞥して、頷くような会釈をして、それから去っていった。

カツーン、カツーン……。

切れかけの蛍光灯が虫でも吸ったかのような音をたてている。


* * *


刑務官が呼びに来た。特にゴロも曰もない自分の番号にがっかりしながら立ちあがり、整列する。機械のように扱われて一見苦痛に見えるだろうが、実はそんなことはない。意味もわからず怒鳴られたりする職場よりもずっと過ごしやすかった。

ざっ、ざっ、と行進のように行く。荷物の仕分けレーンのように、右へ左へと人が振られていき、なんと最後まで残されてしまった。なんだか不吉である。

そこへ一人の男が近づいてくる。回りにいた刑務官よりも一回り貫禄のある、壮年の刑務官だった。硬質の靴が歩くたびに鋭い響きを生んで、威嚇してきた。

「お前は殺人を謀ったのだったか」

突如そんな声をかけられたものだから、拍子抜けして間抜けな声が出た。何を今さら訊こうと言うのだろう。

「ぇえ、はい」

男はなにやらクリップボードに貼りついた紙を難しい顔で眺めている。それから数度首を捻り、紙を裏返し、また戻してから口を開いた。

「どうもな、お前は無罪放免となったようだ」

「なんですって」

彼は「こっちが聞きたい」と言わんばかりに眉間を寄せた。暫し、狐につままれたような顔の男二人はその面を見せあう格好になる。あちこちから点呼の声がするが、ここは酷く静まり返っていた。

沈黙に耐えかねてか、刑務官が僅かに口の端から息を漏らした。

「ともかく、そう書いてあるのだからしょうがない。二時間後に本庁の職員が来ることになっている。お前は元の生活に戻るんだ」

彼はある種の労りをこめた声で俺にそう伝えた。

俺は絶望した。

「ああ酷い、どうしてそんな事をするんだ」


男はその場で舌を噛み千切って息絶えた。

冷淡な床に伏せた男の目には、もはや何も映るものはなかったのである。

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