僕の日常
一人暮らしとしては少々大きいと言わざるを得ない八畳の寝室で、僕はその身をベッドに預け横たえていた。
時折ベッドがギシギシと軋む音で喘ぐのが耳障りではある。
ベッドは部屋の四方の角、南東の位置に配置されており、軽く身を起こせばクローゼットが目に飛び込んでくる。
立て付けが悪いのか、そのクローゼットは望んでもいない自動ドアになる事もままあるので注意が必要だ。
僕は昔から隙間が嫌い、というより恐怖感を感じる性質だったので、このクローゼットも同じ理由で怖いのだ。
何の気無しにそのまま完全に起き上がり周りを見やる。
寝室の壁は病室かと思える程の純白で埋め尽くされている。
僕が張り替えたわけでは無い。
元からこの壁紙だったのだ。
こんな壁紙の寝室で寝ていると、本当に僕は病人なんじゃないかと疑いたくもなる。
僕は空腹感を覚え、寝間着のまま、寝室からリビングへと足を運んだ。
寝室から出てリビングに入る。
リビングは二十畳もあり、やはり一人暮らしと言うには広すぎる感が否めない。
そして中央に三人は座れるであろうソファーが置いてある。
そのソファーの目の前には木製のテーブル。
あぐらをすれば丁度いい高さなので、ソファー以外の椅子は特に用意していない。
そのソファーの右手に大きめの窓が二つ設置してある。
丁度、僕より少し高めの窓なので180cmくらいの高さだ。
反対に左手にはキッチンが設置してあるが、基本あまり使う機会は無い。
時々気晴らしで使う事もあるが基本はカップ麺やコンビニ弁当で済ませてしまう。
あまり使わないせいもあるだろうが、無駄に綺麗な状態を維持している。
リビングのすぐ隣には何も敷居は存在せず、更にもう一部屋存在する。
そこにはベッドは無く、ただの物置部屋となっている。
物置部屋は七畳であり、寝室の八畳に比べて一回り小さめだ。
その物置部屋には趣味で買い込んだゲームや本が大量に詰め込まれている。
この部屋だけは少しだけ汚れている。
ここにもクローゼットはあるのだが、基本ほとんど使う機会は無い。
一人暮らしで二つもクローゼットを使うほど、服には興味が無い。
その物置部屋の反対、つまり寝室から出てすぐ左手にはバスルームがある。
浴槽は僕が足を一杯に伸ばしてもくつろげるくらいの広さを持ちあわせてあり、割と広めである。
バスルームの更に左にはトイレがあるが、何の変哲もないトイレだ。
もしかしたらトイレに重きを持つ人もいるかもしれないが、僕は正直どうでもいい。
その更に左手にようやく玄関がある。
靴はよく履きつぶしてしまう上に捨てるのも面倒というのもあり、下駄箱の中には玄関に置きっぱなしの二足に加えて更に四足ほど予備がある。
僕はソファーまで足を運び気怠く腰を降ろす。
テーブルには昨日食べ残したコンビニ弁当が置いてある。
冷えてはいるが、この部屋には電子レンジもオーブントースターも無い。
そのまま食べる事にした。
「まずい…。」
分かっていた事だが、予想していた以上に美味しく無かったのでつい愚痴がでてしまった。
それにしても最近は特に身体が怠い。
異常と言ってもいい程に怠い。
数年前から気分が鬱々としていたので家の近くにある心療内科に通い始め。
そこで処方してもらった薬を毎日飲んでいるのだが、はっきり言って逆効果な気がしてならない。
小さな診療所なので失敗したか?と思案しつつも、だからと言って大きい病院や有名な病院は予約必須だとか、そもそも予約するには数ヶ月待ちとかで行く気にはさらさらなれない。
僕は医師に不信感と心身の気怠さも一緒に飲み込むようにして薬を水で呷った。
どのくらい呆けていただろうか。
この家にはテレビも時計も一切無いので良くわからない。
そんな時だった、いつものように来訪者を知らせるチャイムが部屋中に鳴り響いた。
「またか。」
舌打ちと共に玄関へと重い足と腰を運ぶ。
残念ながらこの家はこれだけ広いにも関わらず玄関前の様子を映し出すモニターは付いていないのだ。
付いていないのだが、誰が来たかは分かる。
「すいませんー、すいませんー。」
ドア越しにくぐもった声で青年が話がある、開けてくれと声を張り上げる。
だが正直なところ面倒なのでドアを開ける気にはなれない。
「どうして開けてくれないんですかー、ねぇってばー!」
ドア越しの声は張り上げているものの、怒りに満ちているわけでは無い。
むしろ優しく諭すような声であった。
妹の様な、姉の様な、母親の様な。
いや、弟か兄だったかもしれない。
父親では無いと思う。
いずれにせよ、知らない声だ。
僕は毎日の連鎖の如く、そのドアを一瞥し、玄関から離れる事にした。
毎日毎日うるさいものだ。
再びソファーに腰を降ろすと深い眠りが手招きをしてきたので、そのまま誘いに乗る事にした。
夢の中。
夢の中では僕と誰かが名も知らぬビルの屋上で喧嘩をしている。
誰だかは分からない。
分からないが喧嘩をしている。
それを主観では無く、客観として見ている。
夢ではよくある事だ。
そして、死ぬ。
落ちて死ぬ。
お互いにもつれ合い、同時に落ち、同時に死ぬ。
それを客観視している。
もちろん夢なので痛みは無い。
ただ胸のモヤモヤは増すばかりだった。
何故だかこの事は起きたらメモをしなければいけない気がした。
とてもした。
けど、起きたらきっと忘れている。
起きた瞬間に忘れてしまうと僕は知っている。
誰かに起こされた気がして僕は目を覚ました。
寝起きで目に霞が掛かった状態であるが、特に部屋に異変は見受けられなかった。
当然であるが。
「ふぅ。」
僕は妙な安堵を感じテーブルに置いてあったお茶のペットボトルを一気に喉に送り込ませる。
テーブルにお茶なんてあっただろうか?と一瞬思考が巡ったが特に深くは思い悩まなかった。
身体中に水分が巡る感覚を得て軽い充実感を得ていると再び空腹感がある事に気がつく。
そういえば、さっき起きた時は昨日の残り飯を軽く口にしただけであった。
「行くかぁ。」
行く、というのはコンビニの事である。
コンビニなら弁当でもカップ麺でも、何ならお菓子だってある。
健康上は悪いと理解しつつも、それが手っ取り早い事も承知しているのでついついコンビニを頼ってしまう。
僕はズボンのポケットに部屋の鍵と財布だけを乱雑に突っ込み、家を出る事にした。
家を出ると、すでに朝や昼では無く夕方であった。
黄昏時と言うのが一番合っているかもしれない。
僕は黄昏が一番嫌いだ。
何もせずに一日が過ぎ去ってしまった感が拭えないし、妙な寂しさを感じる。
特に理由は考えても分からないが、とにかく寂しい。
僕は黄昏に乗ってくる風を頬で受けながら歩を進め始めた。
いつもと何も変わらない道。
いつもと何も変わらない日常。
いつもと何も変わらない僕。
だけどそれは、世界が何も変わらないという事ではない。
世界は変わり続ける。
ふとした瞬間に日常は非日常となる。
「すいませんー」
あの声がした。
いつもドア越しで聞いている声だ。
しかし、くぐもってはいない。
当然だ。今は家の中では無い。
外にいる。
僕と接点が出来る内側に存在している。
足が途端に重くなった気がした。
指先もピリピリと痺れを伴っている気がする。
僕は冷たい風に当たりながら熱い吐息を吐き続ける。
「……」
声が出ない。
妙な恐怖感が全身を包み込んでいる。
ゆっくりと、冷や汗を吹き出しながら顔だけを後ろへと回す。
振り返った先には、青年が立っていた。
気がつけば僕はコンビニ弁当が入った袋を右手に持ち、青年と家までの帰路を歩んでいた。
青年は色々と僕に対して話しかけているようだが、ほとんど頭に入らない。
そもそも何で僕はこの青年に対し恐怖を感じていたのだろう。
毎日ストーカーの様にインターホンを鳴らすせいだろうか。
それは少し違う気がしたが、他に理由が浮かばない。
「……」
理由を聞こうかと思ったが口の中はカラカラで声が全く出なかった。
でももしここで理由を聞いてストーカーしてました、なんて言葉が返って来たらそれこそホラーだろう。
いや、ストーカーなんて言葉をストーカーは使わないのかもしれない。
単純に好きと言われるかもしれない。
青年は穏やかな顔つきでこちらに話しかけ続けている。
やはり言葉は全く頭に入って来ない。
糖分が足りてないのかもしれない。
家の前に着くと、僕は自然と青年を中に入れてしまった。
その青年があまりにも穏やかそうで危害が無さそうに見えてしまったからだろうか。
それとも、もしかしたら好きと思われているかもしれない。
なんて夢見がちな事を考えてしまったからなのだろうか。
青年の言葉はいつまで経っても聞こえなかったが、その心中は穏やかであると分かり得た。
僕が特に何も話さなくても青年は笑顔で話しかけ続けるので、僕は袋に入ったままのコンビニ弁当を取り出し、食べることにした。
今日の弁当はカルビ弁当だ。
カルビと言えど所詮コンビニだ、期待の欠片をふりかけないままで僕はそれを口に運び続けた。
カルビ弁当を食べ終えると青年は僕の隣。
つまりソファーの右隣に座ってくつろいでいた。
先程よりかは笑顔が失われている。
そりゃ僕があれだけ無視をし続けたのだから当然である。
でも、それでも青年が僕の側にいてくれるのが妙に嬉しかった。
少しだけ心が開けた気がする。
そんな事を考えていたら、満たされた食欲のせいか。
灰色のカピバラみたいな生物が枕を抱えてチョコチョコと歩いてきた。
僕は夢の中へと引きずれるのを無意識に意識した。
夢の中。
夢の中では僕と青年が知っているが行った事のないビルの屋上で喧嘩をしている。
青年は怒っている。
何かを制止されている様に伺えた。
きっと僕が無視をし続けていたせいで喧嘩をしているんだ。
それを主観では無く、客観として見ている。
夢ではよくある事だ。
そして、死ぬ。
落ちて死ぬ。
お互いにもつれ合い、同時に落ち、同時に死ぬ。
それを客観視している。
もちろん夢なので痛みは無い。
ただ胸のモヤモヤは増すばかりだった。
何故だかこの事は起きたらメモをしなければいけない気がした。
とてもした。
けど、起きたらきっと忘れている。
起きた瞬間に忘れてしまうと僕は知っている。
青年に起こされた気がして僕は目を覚ました。
寝起きで目に霞が掛かった状態であるが、特に部屋に異変は見受けられなかった。
当然であるが。
「はぁ。」
僕は妙な安堵を感じテーブルに置いてあったお茶のペットボトルを一気に喉に送り込ませる。
テーブルにお茶なんてあっただろうか?と一瞬思考が巡ったが特に深くは思い悩まなかった。
身体中に水分が巡る感覚を得て軽い充実感を得ていると青年がいない事に気がつく。
寝室へ行ったのか、それとも物置部屋。
もしくはトイレ?
バスルームは無いだろう。
もしかしたら帰ってしまったのかもしれない。
「どこ行ったんだ。」
僕は何の警戒心もポケットに突っ込まず、青年を探す事にした。
物置部屋に足を踏み入れると、まるで子供の頃に戻った気がした。
雑多に置かれたゲームや本。
本には漫画本もあればライトノベルもあった。
純文学や専門書もある。
何だったらエロ本もここに置いてある。
もちろん隠す必要も無いので床に置きっぱなしにしてあり、表紙の女の子が上目遣いをしてくる。
子供の頃と言うより中学生の頃が一番合っているかもしれない。
僕は中学生時代が一番嫌いだ。
何もせずに一日が過ぎ去ってしまった感が拭えないし、イジメを受けていた。
今では多少傷も癒えた気がしているが完全に癒えたわけじゃない。
そんな精神が図太ければ今現在、心療内科に通っている理由が無い。
僕はそこに思い出も青年もいない事を確認し終えるとリビングへと戻る事にした。
次は念の為、トイレに足を踏み入れた。
何の変哲も無いトイレだが、先程感傷に浸ったせいか、気分が悪くなる。
トイレに連れ込まれイジメられた事もあった。
トイレには神様がいるなんて昔流行った曲の歌詞みたいな事を言う人もいる。
だがもしいるとしたら心無い神様だ。
中学時代にも今現在にもトイレに神様なんてものはいない。
いるとしたらせいぜい死神だ。
僕はトイレが嫌いだ。
何もせずに一日の学園生活をトイレで過ぎ去ってしまった時もあるし、便所飯の経験もある。
今では多少傷も癒えた気がしているが完全に癒えたわけじゃない。
そんな精神が図太ければ今現在、心療内科に通っている理由が無い。
僕はそこに神様も青年もいない事を確認し終えるとリビングへと戻る事にした。
その次は恐らく無いだろうと思いつつもバスルームに足を踏み入れた。
何の変哲も無い、少しだけ大きめの浴槽だが、ここも気分が悪くなる。
中学時代のイジメに耐えかね、浴槽でリストカットをしようと思った事もあった。
『風呂は命の洗濯よ』なんて事を言った人もいる。
だが僕が風呂でした事はリストカットをして死んでしまおうかと思案した事だ。
『風呂で命の選択だ』。
中学時代にも今現在にも風呂で心の洗濯なんてした事はない。
僕は風呂が嫌いだ。
何もせず一日を風呂の中で過ごして脱水症状になってしまった時もあるし、実際倒れた経験もある。
今では多少傷も癒えた気がしているが完全に癒えたわけじゃない。
そんな精神が図太ければ今現在、心療内科に通っている理由が無い。
僕はそこに選択肢も青年もいない事を確認し終えるとリビングへと戻る事にした。
念の為、青年が帰宅していないか玄関で靴の有無を確認すると、まだこの家にいる事が判明した。
僕の持っている二足の靴に見慣れない靴。
僕の靴と同じで履きつぶしているのか、ボロボロになっている。
そんなボロボロなら新しいのを買えばいいのにと自分の事の様に考えてしまう。
何だったら下駄箱にある僕の靴をあげてもいい。
サイズが合うかは分からないが。
ふと僕は中学時代の事を思い出した。
イジメにあっていたが、全校生徒がイジメに加担していたわけじゃない。
確証は無いが、せいぜいあっても同じクラスか二、三クラス程度の数だったはずだ。
そんなイジメに犯されていた中学時代だが、少人数ながら友達はいた。
名前はもう覚えていない。
いつも僕に気を回していてくれていたあの人。
何かある度に『大丈夫?平気?』と声を掛けてくれたあの人。
当時は今よりも心が荒んでいたせいで、そんな好意や善意すら悪意に感じて突っぱねてしまっていた。
『この偽善者が!』などとよく思っていたものだ。
だけど、いつの間にか、あの人はいなくなっていた。
中学を卒業後、高校時代になりイジメとはおさらばだ!と思ったのもつかの間。
中学時代のイジメっ子の数人が同じ高校に入学してきていたのだ。
僕は嫌になった。
高校は義務教育では無いから通う必要性は無い。
何て言い訳をして、入学して直後から登校拒否。
いや、登校拒否なんてものではない。
言ってみれば休学し始めた。
学校側からしてみたら、やる気のない不良生徒に見えたのかもしれない。
僕としては休学認識だったが、学校側は停学や退学扱いをしていたかもしれない。
そこはよく分からない、分かりたくもない。
それ以降、僕は学校には通っていない。
今現在も改めて高校に通う気は全く持ち合わせていない。
僕は学校が嫌いだ、人間が嫌いだ。
何もせずに一日の移り変わりを眺め続けて来たし、これからも同じ繰り返しだろう。
今では多少傷も癒えた気がしているが完全に癒えたわけじゃない。
そんな精神が図太ければ今現在、心療内科に通っている理由が無い。
僕は玄関に過去も未来も青年もいない事を確認し終えるとリビングへと戻る事にした。
僕は最後に寝室にいると確信しつつ、そこに足を踏み入れた。
純白の壁に彩られた部屋。
時計も窓も無く、時間間隔を全て失いそうな部屋。
そこに青年はいた。
中学時代のイジメに耐えかね、全てを投げ出そうとした僕を止めてくれたあの人。
青年がその人と重なった気がした。
だから安易に家に入れてしまったのか。
だから容易に部屋に入れてしまったのか。
『私はずっと一緒にいるから』なんて事を言われた事を思い出した。
「私はずっと一緒にいるから。」
今思った事を同時に言われた。
心を読んでいる?
偶然?
逡巡。
過去のあの人と今目の前にいる青年を見比べて深く思考した。
そして、思い出した。
学生時代を思い出した。
中学時代を思い出した。
僕に友達はいない。
『貴方を守るから』。
「貴方を守るから。」
心の声と青年の声が二重に聞こえた。
中学時代にも今現在にも僕に友達なんていたことは無い
その事実を思い出した。
「ははっ…。」
乾いた笑いが無意識に喉から溢れ落ちる。
友達のいない、いなかった僕はまるで死人の様な足取りでリビングへと戻る。
青年もついてくる。
僕はそのまま靴も履かずに玄関のドアを開けて外へと出た。
靴を履いていない足にはジャリジャリとした小砂の感覚が痛みや不快感を頭に響かせる。
その知覚過敏な足は未だ入った事のない屋上への階段を目指していた。
僕にはかつて友達がいた。
そう思っていた。
消してしまいたいノイズだらけな思い出でも、そんな友達がいて助けてくれていたという優しさがあったと思っていた。
今にしたって、あの青年が僕の家の扉を、心の扉を多少無理矢理ではあるがこじ開けて知り合いとなった。
今後、もしかしたら友達になれるかと思った。
思いたかった。
だがその実、僕は一人だった。
孤独だった。
僕は僕が嫌いだ。
現実を何も知らず、受け入れず、友達と過ごして来たと思っていた。
でもそれは、僕が違う僕を心の中に作り出し、それを友達として見ていただけなんだと知った。
僕は屋上の扉をゆっくりと捻り、開け放った。
時刻は時計が無いので分からない。
だが、黄昏時であるのは分かった。
黄昏は、古くは「たそかれ」と言い、江戸時代以降「たそがれ」となった。
薄暗くなった夕方は人の顔が見分けにくく。
『誰だあれは』という意味で「誰そ彼」と言ったことから、「たそかれ(たそがれ)」は夕暮れ時をさす言葉となった。
一説には、農夫が田んぼから退き、家に帰る時刻であることから「田退」を語源とする説もあるが。
「彼は誰」を語源とする「かわたれ時」という明け方をさす言葉があることから、「田退」の説は考え難い。
漢字「黄昏」は当て字で、本来の読みは「こうこん」である。
また、「たそがれ」は日の盛りを過ぎた頃であることから、盛りを過ぎた頃、特に人生の盛りを過ぎた年代をたとえて言うようにもなった。
以前読んだ本に、そんな事が書いてあったのを僕は思い出していた。
僕は僕自身が誰なのか分からなくなった。
屋上の塀に立ち世界を見下ろしてみると、まるで消えて無くなる薄っぺらいものに見えた。
僕は背後を確認する。
そこには中学時代のあの人がいた。
ついさっき知り合った青年もいた。
いや、人ですらないと言えようか。
二人共、怒ってるような悲しんでる様な、よく分からない表情をしていた。
今では多少傷も癒えた気がしているが完全に癒えたわけじゃない。
そんな精神が図太ければ今現在、心療内科に通っている理由が無い。
僕は世界に何もない事を確認し終えると、屋上から飛び降りてみることにした。
「丁度夏休みの海。」
「そこでスイカ割りをしている少年が、見事にスイカを棒きれに当てて中身を豪快にぶち撒ける。」
「そんな夏の風物詩のようだった。」
「こんな感じですかね?」
男は通院している心療内科の医師に事の全てをぶち撒けた。
「つまり、貴方は中学生の頃に一人。そして先日まで青年二人の人格を共有していたと?」
医師はPCで患者の証言をメモしている。
全てを信用しているわけでは無いが、大筋のところは信用して、このまま心療を続けていくつもりのようだ。
「はい。俺が主人格かどうかは分かりませんが、他に三人は人格がありました。」
男は憑き物がすっかり取れたような心地よさで受け答えをしている。
その表情からは迷いや不安は一切感じられない。
「貴方を含めて合計四人。いやはや、解離性障害は度々目にするので珍しいわけではありませんが。四人とはまた多かったですね。では、これからも続けて治療を進めて行きましょう。」
医師は笑顔で答える。
「はい。これからもよろしくお願いします。」
男も答える。
「では、お大事に。」
男は診療室を出る。
それはまるで軽やかに。
それはまるで朗らかに。
それはまるで自室の様に。
男はその白い診療室を「ありがとうございました。」と頭を下げながら出て行く。
そして診療室を出た後はソファーにゆっくりと腰掛け、何事も無かったかのようにまた新たな人生を歩んでいく。
白い診療室に医師はいない。
診療台も無い。
あるのは白で埋め尽くされた壁と凡庸なクローゼット。
そしてベッドだけ。
男は今日も心と家の中に閉じこもり、淡々と独り言を呟き続けるのだった。
少しBLっぽくなりましたが補足として。
青年とはウィキペディアより。
人の社会的、肉体的成長過程における一時期を指す。「若者」などともいう。「若者」、「若手」、「若い世代」、「青年」は男性・女性ともに対して使用される。
なので、青年は男性と受け取っても女性と受け取っても問題無いです。